AIを駆使し、存在しない生物を創出する気鋭のアーティスト「エンタングルドアザーズ」(ソフィア・クレスポとフェイレカン・カークブライド・マコーミック)。自然とテクノロジーがもつれあうその作品から、私たちはいかなる生命像を見出せるのか。
AIで変わる世界の見方、アートのつくり方
──「AIと生命の現在地」という展覧会のテーマは、テクノロジーとアートをめぐる現代の根源的な問いを提示しているように思いました。これまで技術は、人間の外部にある自然環境を制御する手段、あるいは人間が構築した情報環境を支配するためのツールとして語られてきました。けれども、もはやそのような二項対立的な視点で世界をとらえることはできません。クレスポさんの作品世界は、「もつれ(entanglement)」を鍵概念としながら、モア・ザン・ヒューマン(人間以上)の領域との関わりを探りながら、人間、自然、情報が複雑に交差する関係性をめぐる新たな芸術的地平を切り拓いているように思います。最初に代表作であり、初期の重要な仕事でもある《Neural Zoo(ニューラル・ズー)》(2018–22)についてお伺いしたいと思います。この作品を構想し、制作に至った背景やきっかけを教えていただけますか。
ソフィア・クレスポ(以下、クレスポ) 最初、私がAIに興味をもったのは、あらゆるデータからあるパターンを抽出できるという特性があったからです。私はもともと顕微鏡がとても好きで、そこで見たイメージをデータセットとして使い、そこから何か作品がつくれないかなと思ったのが始まりでした。それはかなり直感的な発想でしたが、それを突き詰めていくうちにそのおもしろさがより実感できたのです。


── 《Neural Zoo》は2018年から手がけられていますが、当時はまだ「AIアート」という言葉が一般に広く知られる以前の段階でした。ディープラーニングが注目され始めたのが2012年、GoogleのDeepDreamが話題になったのが2015年、そして「AIアート」という言葉が本格的に流通し始めたのは2017年頃だったと思います。Stable DiffusionやDALL·E 2といった生成AIが一般に普及する以前に、クレスポさんはすでにAIを用いた作品を制作されていたわけです。テクノロジーの進展とともにクレスポさんの関心やアプローチはどのように変化していったのでしょうか?
クレスポ おっしゃるように、《Neural Zoo》の制作当時はStable Diffusionなどもありませんでした。だから様々なことを新しく学ばなければいけなかったし、それがおもしろさでもあったのです。自分がやりたいことを実現するためにはスキルも必要であり、そのときに学んだ方法でいまも作品を制作しています。AIの世界ではかなり古くなった初期の方法が好きなんですね。現在は様々なツール・アプリがあり、ステップを大幅に省略して作品をつくれるようになっていますが、私はAIのモデルをまずトレーニングさせることから始めるのが好きなのです。
かつて使っていた顕微鏡は自分にとって肉眼では見えないものを見せてくれるツールであり、AIは自分の手でやれば何年もかかるイメージのバリエーションを瞬時に出してくれる。ともに自分にできないことを可能にしてくれるツールであり、それによって世界の見方、アートのつくり方も大きく変わる。そこに興味を持っているのです。
「ツール」としてのAIとAIが強化するバイアス
── 《Artificial Natural History(人工自然史)》は、存在しなかった自然史の書物を模したシリーズですね。分類や体系化の方法論そのものを問い直す作品であり、レオ・レオーニの『平行植物』を想起させました。こうした「人工の自然史」を構想することで、従来の科学的自然観に対してどのような批評的なまなざしを投げかけようとされたのでしょうか? またこうした実在と虚構のはざまに新しい自然像を見出すことは、私たちにどのような認識の転換を促すと考えていますか?
クレスポ おっしゃるように、レオ・レオーニは私にとって大きなインスピレーション源なのです。だから言及していただけて嬉しいです(笑)。人間の歴史が始まって以来、芸術家たちは把握しきれない自然界を想像するという営みを連綿と続けてきました。自然界を描いた古い絵やイラストからも、世界を理解しようとした痕跡が見えるのです。つまり、人間にとって自然とつながりたいという思いは本来的なものであり、いまも私たちの中に生きている感覚なのです。私は現在のツールを使い、存在してこなかった生物を想像することで同じようなことをやってみたらどうなるかと考えたのが、この《Artificial Natural History》なのです。

── 人工知能には身体も、感覚器官もありません。けれども、《Neural Zoo》や《Artificial Natural History》に登場するキメラ的存在は、限られた機械の知覚を通して植物や動物の姿を垣間見たような印象を与えます。ジェームス・ブライドルが著書『Ways of Being』のなかで、人間以外の知性について多くの事例をあげて論じていますが、これらの作品もある意味で、非人間的な知性と向き合うための芸術的なアプローチのように見えます。人間以外の知性とテクノロジーの関係についてはどのように考えていますか?
クレスポ 《Artificial Natural History》は『Ways of Being』イタリア語版の表紙なので、言及していただき嬉しく思います。人間以外の知性とどう向き合うのか......AIのようなツールをそれととらえることもできるかもしれませんが、AIのような知性は人間に依拠してつくられたもの、人間がコントロールするものであることを忘れてはいけないと思います。AIのようなツールを使っていると、どんどん主体がわからなくなり、まるでAIそのものが主体であるかのように錯覚するのですが、そうではありません。AIはあくまで自分たちがやりたいことをやるためのツールであり、人間のために使うもの。人間と対立関係にはないのです。
例えば作品について話すとき、AIを制作パートナーとして語るアーティストもいますね。しかし私はそうではなく、AIを「絵具」と同じようにツールとして考えるべきだと思っています。ジェームス・ブライドルの考え方も非常によくわかりますが、AIは決して自然界の一部ではない(もちろんその自然界にある素材をもとにつくられたものではあります)。ですから、AIを生きた実態、生物に似たものととらえないようにしているのです。
──AIやアルゴリズムは人間の文化的・政治的バイアスが深く刻み込まれています。《critically extant(危機的な現存)》はそうしたバイアスに対する批評的な試みとして印象的でした。AIが生成する代理的な自然像や生態系のイメージに潜むバイアスの問題について、クレスポさんはどのようにとらえていらっしゃいますか?
クレスポ 《critically extant》を制作したときは、それまでと正反対のことをしようと考えたのです。つまり、意図的に想像上の生き物をイメージとしてつくるのではなく、私たちが持つバイアスに焦点を当てたものをつくるということです。AIに何万枚もの生物の写真を見せ、“それまで一回も見なかったもの”を出すように指示したらどうなるかを試してみたかった。
着想源となったのは絶滅危惧種です。ご存知の通り、いま、世界から様々な生物が絶滅しつつあります。いっぽうで、人間がどの絶滅危惧種を守ろうとしているのかに着目してみると、「かわいいもの」「哺乳類で自分たちに似ているもの」に対するモチベーションが高いこと気づきます。残念ながらクモやバッタ、あるいはよりマイナーな生き物になると、たとえそれが絶滅をしようとしていても人間の保護に対する意識は低い。そうした状況に対して何ができるのかを考えたとき、バイアスに着目すればいいのではないかと考えたのです。
AI自体、すでに人間のバイアスが含まれています。例えば、Midjourneyなどに孔雀のイメージを出させると、いわゆるみんなが想像するオスの綺麗な孔雀を出してきます。AIがそうした孔雀のイメージを出すたび、バイアスは強化され、多様性が拭い去られてしまう。その多様性をいかに取り戻せるのかを、この作品で試みたのです。
──《critically extant》はとりわけその見せ方が興味深いですね。Instagramでの公開から始まり、美術館、そして都市空間へと展開されました。人工生命が公共空間を「ハイジャック」していくかのようなスケールの大きな試みは、自然界の壮大さや可変性をどのように提示できるのかという問いにも通じているように思います。美術館、SNS、都市空間といった異なる場に作品を置くことで、どのように「自然のスケール」を再構築しようとされたのでしょうか? また「森の芸術祭 晴れの国・岡山」(2024)における「つやま自然のふしぎ館」での展示もそうですが、どの場所でどのような生物をどのようなかたちで見せるのかによって、観客に与えるインパクトは大きくも変わりますよね。この点についてもぜひお聞かせください。
クレスポ 作品の見せ方を考えたとき、Instagramなどはフィードバックとしてループしていくことを考えたのです。SNSはアルゴリズムによって特定のイメージが強化されていく仕組みであり、それによって世界の見方は変わっていっています。デジタルの世界ではありますが、現実世界への悪影響は拭えず、SNS上で見たものは考え方に大きな影響を及ぼします。例えばハッシュタグひとつとっても、「#絶滅危惧種」ではレッサーパンダが非常に多い。いっぽう《critically extant》で扱った生物は、SNSで語られてこなかったものたちです。SNSにこの作品がアップされることで、その生物たちをふたたび紹介することにつながります。
またタイムズ・スクウェアでは96個のディスプレで1ヶ月におよんで発表したのですが、ビルボードに人間が見たことも想像したこともない生物たちを載せることで、現実の世界に再登場させることができた。たとえそれが実際の正確なイメージでなくとも、人々の文化的なイマジネーションは促進できると考えたのです。
日本で初めての展示機会となった「つやま自然のふしぎ館」は自然史博物館、つまり人間が見てきた自然を紹介する施設です。世界を理解するためにある施設の中に私の作品が展示されることによって、人間の目に留まったことのない生物たちを紹介することができた。その点において、非常に有意義な機会でしたね。
なぜ「エンタングルメント(絡まり・もつれ)」が重要なのか?
──フェイレカン・カークブライド・マコーミックさんとともにアーティスト・デュオとして活動する際は「エンタングルドアザーズ(Entangled Others)」と名乗っていますね。また《liquid strata: argomorphs (流動する海洋層:変態するアルゴフロート)》(2025)や《specious upwellings (見せかけの湧昇)》(2022–24)といった海をめぐる作品では、「湧昇」という海洋現象を量子的な「エンタングルメント・サーキット」として具現化し、観測の不確かさや推測的な自然像を提示しているように思えます。この「エンタングルメント(もつれあい)」はお二人にとってどのような意味をもち、なぜ重要なのでしょうか。
クレスポ 人間は自然界から離れたところに存在している、というイメージを抱きがちですが、本来は私たちも自然界の一部です。しかしそうした事実は忘れられてしまう。私たちは自然とつながっているだけでなく、もつれあうほどに依拠しているのに。自然がなければ生きていけないし、私たちがサバイブしていくには、そのもつれあいを認識しなければいけません。「エンタングルドアザーズ」という名前には「他者(Others)」という言葉が入っています。それは、私たちはお互いにつながり、頼りあっている状態だということを示したいからなのです。

我々は複雑なシステムのなかに住んでおり、例えば海に化学物資を放出すれば巡り巡って私たちにも影響を及ぼします。私たちは新しいテクノロジーを使い、地球がどうなっていくのかを注視することが、本当に喫緊の問題なのです。「エンタングルメント・サーキット(模擬量子プロセス)」はその技術が進歩する前から、エコロジーについて考えるために使おうと。エンタングルとはフィジカルとデジタルがもつれあい、互いに影響し合い、頼りにしながら存在しているという状態でもあるのです。

──《specious upwellings (見せかけの湧昇)》はその鮮やかな色彩がとても印象的ですね。深海は人間の目では直接見ることはできませんが、実際の色を再現するのではなく、ある種のデータやアルゴリズムを通して生成されたスペキュラティブな色彩になっているのでしょうか? そうだとすると、そこには自然とテクノロジー、そして人間との関係をどのように読み取ろうとされたのでしょうか?
フェイレカン・カークブライド・マコーミック(以下、マコーミック) おっしゃるように、深海は光の届かない場所です。光が吸収されるので色は人間の肉眼ではとらえることはできませんが、もし懐中電灯みたいなもので照らせたとしたら、じつは本当に豊かな色が存在しているわけです。しかし、そこに棲む生物たちは私たちとは異なる知覚で色をとらえているので、それを私たちがどう表現するのか。この作品は湧昇という現象(冷たい水が海底から上がってきて、海面に豊かな栄養を届けてくれる)をテーマにしているのですが、現象自体は私たちの知覚ではその全体をとらえることはできません。
「正確な表現」というものがありえないとき、作品としてどう表現するのか。このとてもビビットな色は私たちが選んでそうしたわけではなく、複雑なイメージの生成プロセスのなかで生まれたものなのです。
── 《Temporary Uncaptured(捉えきれなかったものたち)》では、歴史的な科学アーカイヴと19世紀のサイアノタイプ技法が組み合わされています。アンナ・アトキンスへの言及もありますが、彼女の科学と写真の実践を21世紀のAIと響き合わせることで、どのような対話を生み出そうとされたのでしょうか? またアンナ・アトキンスや(エイダ・ラブレスもそうですが)歴史的に周縁化されてきた女性科学者の実践を参照することは、あなたのAIを使ったアートにとってどのような意義を持っていますか? 彼女たちの仕事を呼び戻すことは、現代のテクノロジーとジェンダーの関係を再考する契機ともなり得るでしょうか?

マコーミック これはクレスポの作品なので、私がすべてを答えるわけにはいかないんですが、自分が話せることとしては、アトキンスのサイアノタイプの資料は、当時新しかった技術を深く読み込み、自分のツールとして使った例として、非常に興味深い例だと言えます。それと同時に、科学やテクノロジーの歴史で女性もしくは女性と認識している人たちの貢献というものが記述されてこなかったという非常に大きな問題の現れでもありますね。
サイアノタイプ以前、自然を記録するためには手でイラストを描くしかありませんでした。例えば森へ行き様々なサンプルを採取し、研究室に戻ってきちんと描写するというプロセスが必要であり、そこには単純に書き写しというよりも、いろんな解釈やイマジネーションが含まれていたわけです。しかし写真が登場すると想像力の介入の余地はぐっと減って、出来上がる速度はかなり早まった。ソフィアがこの作品で扱っているのは微生物であり、顕微鏡で観察すると、それらは私たちが思っているよりも速いスピードや独自のテンポで動いていることがわかります。そうした特徴をニューラルネットワークによって抽出し、トレーニングしていくとアニメーションが生まれるのです。そのアニメーションは、私たちがどういうふうに世界を記述してきたのかということの現れでもあるのです。
──Entangled Others としての共同制作では、「人間以上(モア・ザン・ヒューマンmore-than-human)」の世界へのまなざしが強調されています。ソロでの実践とデュオでの実践とでは、思考のプロセスや生み出されるイメージにどのような違いがあるのでしょうか? また、その違いは「もつれ」をめぐる探究にどのような新たな広がりをもたらしていると感じますか?
マコーミック まったく異なる2人ですが、コラボレーションは最初からおもしろいものでした。2人で活動することは、私の中では「有益な摩擦」のようなものなのです。つまり、2人ですることからはいろんな摩擦や抵抗が生まれますが、そうしたエンタングルメント(もつれ)のなかでそれらに向き合っていくことによって自分たち変化したり、成長したりできる。
おもしろいのは、最初から2人で力を合わせて1つのことをやるということだけではなく、自然界のことをいろいろ勉強しながらやっていくうちに、自分たちがかたちづくられるような感覚があるということです。それはアーティストとしても非常に理想的なモデルなのではないでしょうか。違いというものを大事にすることによって、自然界と作品をつくることを長く続けられるのですから。
