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2026.4.30

地域レビュー(北海道):五十嵐千夏評「市原佐都子 肉の上を粘菌は通った」(札幌文化芸術交流センター SCARTS)、「サッポロ・パラレル・ミュージアム 2026」(赤レンガテラスほか8会場)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では五十嵐千夏(現代美術研究者/アーティスト)が、劇作家・市原佐都子による初の展覧会「市原佐都子 肉の上を粘菌は通った」(札幌文化芸術交流センター SCARTS)と、「サッポロ・パラレル・ミュージアム 2026」(赤レンガテラスほか8会場)における笠見康大のインスタレーション展示を取り上げる。

文=五十嵐千夏

笠見康大《Learning to see》(2026)の展示全景 撮影:筆者
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正しさからの逃げみちを探して

『市原佐都子 肉の上を粘菌は通った』(札幌文化芸術交流センター SCARTS)

 劇作家・市原佐都子による初の展覧会が、札幌市文化芸術交流センター(以下、SCARTS)で開催された。同展はSCARTSと北海道大学科学技術コミュニケーション教育研究部門(以下、CoSTEP)の若年層向け研究教育プロジェクト「アート&サイエンスプロジェクト」(以下、A&Sプロジェクト)企画内の招聘展示として、同プロジェクトが近年取り組むプレコンセプション・ケアの主題を扱うものである。

「市原佐都子 肉の上を粘菌は通った」(札幌文化芸術交流センター SCARTS)の会場入口 撮影:筆者

 展示は、書き下ろしモノローグ2篇から展開されたインスタレーションを筆頭に、市原の演劇作品の映像上映室、そしてA&Sプロジェクトの活動紹介コーナーという3部構成になっている。なかでも本稿では、新作部分にあたるモノローグとインスタレーションを取り上げる。

 今回招聘作家として制作に取り組んだ市原は、A&Sプロジェクト側から提示されたテーマ「プレコンセプション・ケア」に対し、リサーチ前からいわく言い難い葛藤を抱えていたと吐露している。「私は妊娠・出産を個人の人生設計や健康管理の問題として捉えたくない想いが根底にずっとあった」(*1)。制作過程で葛藤の正体を模索しながら、市原はプレコンセプション・ケアのテーマにつきものの「個人単位の健康な生殖」という臨床医療的・公衆衛生的な正しさから一度離れ、妊娠・出産を手がかりに「この世界に子供を生むとはどういうことなのか、もっと大きく捉えてみた」いと構想した(*2)。

「市原佐都子 肉の上を粘菌は通った」(札幌文化芸術交流センター SCARTS)の冊子配布地点 撮影:筆者

 そんな市原が「存在しないものによる聞こえるはずのない声のモノローグ」(*3)として書き上げた2篇が、インスタレーション入り口手前で配布される冊子に綴じ込まれていた。バースストライキの結果生まれなかった子供が語るモノローグ「ない肉」では、各駅停車の電車の規則的運行が工場然とした子の増殖を招く。その光景を目撃して飼育小屋でのふしあわせな子/肉の増殖を白昼夢に見た「お母さん」は、生まない意思を固める。電車が寒さでお母さんの具合を悪くし、小屋が暑さで子を追い詰める描写は、読者の意識を一瞬で各々自身の肌感覚へと向かわせる。いっぽう、続くモノローグ「ある肉」は、飼育小屋の牛の欠片から生成されたシャーレ内の培養肉によって語られる。感情も痛覚も持たないこの肉は、自分がいる環境の居心地をほとんど説明しない。その反面、脳がないのにしっかりモノローグを編んだり、耳がないのに自分が静かに生まれたことを知っていたりと、なかばSF的に他者の感覚と機能を経由して世界を捉え、表現しているような向きがある。

  このように対照的な二篇は、知覚の内向性と外交性を切り替えるエクササイズとして読者に手渡される。たしかに市原のテクストではこれまで、語り手の心理や身体感覚が赤裸々に語られると同時に、むしろSF的な想像力によって、現在の科学技術では不可能な生殖や異種交配の特殊な現場空間の描写もまた試みられてきた。二篇はこの基礎構造をミニマルに展開したものといえよう。

 モノローグからインスタレーションへの展開にあたり、「演出家」(*4)岸裕真が加わった。市原がリサーチ時に北海道大学の研究室で観察した粘菌たち。運動を通じて観測されるというその非人間的知性に、モノローグの声なき声をひき会わせ、彼らがそこで捉えたものをAIによる「粘菌の合唱」として鳴らしてみてはどうか。ない耳に声を聞かせるという市原のアイデアを、カスタムメイドのAIと共同制作を続けてきた岸が、展示室に実装した(*5)。

ライトアップされたシャーレ内のモジホコリに覆われる「肉」の文字 撮影:筆者

 会場で先述の冊子を受け取ると、すぐ脇の台上に見えるのがライトアップされたシャーレ(*6)だ。中心ではオートミール粒で構成された「肉」の文字が、粘菌・モジホコリに覆われ黄色く湿っている。ここで判明するのは、シャーレ内で文字において姿を現す肉が、モノローグを語る培養肉だけではなかったことだ。シャーレの外には自分ととてもよく似た存在条件をシェアする他者がいる。ともすれば培養肉も、他者の目や耳を借りてこのことをすでに聞き及んでいるかもしれない。

 カーテンをくぐり真っ暗なインスタレーション空間に入ると、床が巨大シャーレ群の映像プロジェクションで光っている。円の中では引きのばされたモジホコリの運動が高速再生され、そのスピードと気味よく連動するリズムが聞こえてくる。モノローグの文章とモジホコリの運動データ75時間分からLLM(大規模言語モデル)が歌詞と曲を生成したという、多声合唱曲だ。市原の声データをサンプリングし複数の声域へと調整した歌声が幾重にも重なって飛び出す。声なき粘菌がLLMを介し市原の声とテクストによって歌う姿に、「他者の感覚や機能を経由して世界を捉え、表現する」培養肉の原理が透ける。

 数分間、合唱曲に耳を傾けていると、その歌詞の大部分が単語や言葉たらない音のかたちをしており、自然な文章らしいものがほとんど聞こえてこないことに気づく。実際、LLMの実装を担った岸は、制作用途に特化して自ら開発するLLMは基本的に動作が遅く、しばしば支離滅裂なテクストを生成すると明かしている(*7)。これまではそんなAIの文章に自ら推敲を加えて協働作品を成してきた岸だが、今回は、LLMが生成した歌詞ならぬ歌詞を人為的推敲なしに流してみせた。

隣り合う巨大シャーレ群の映像と粘菌の合唱から成るインスタレーション空間 撮影:筆者

 その結果、粘菌の合唱曲の聴きどころは、歌詞の不完全さやリズムの途切れ、映像が示す速度との連動感といった楽曲構造のほころび、ないし外部との連携へと開かれていく。そのほころびの向こうに現れる外部や他者への通路こそが、肉の上をただ「通る」者にとって必要な足場であり、市原が描いた「肉」たちによる感覚・機能の交流を可能にするだろう。ならば生む者、生まない者、生まれてくる者こない者の各者からプレコンセプション・ケアが望まれる瞬間とは、こうした通路に居場所を与えることで、妊娠・出産という出来事がひととおりでない感性や文脈へと接続されるときなのかもしれない。それは他者の価値観が強制的に流れ込んでくる事態とは違い、主体が自ら通路に飛び込んだり隠れたりしながら、他者の知覚を試しに借りて世界を覗いてみるような事態である。粘菌の通行が暴く合唱曲構造のほころびは、「お母さん」にもその子にも、ときに必要な「正しさからの逃げみち」を示唆するだろう。

*1──市原佐都子「自分の身体への苦々しさからの解放」、札幌文化芸術交流センターSCARTS・北海道大学CoSTEP企画製作『SCARTSxCoSTEP Art&SCIENCE PROJECT BOOK 2024-2026』、札幌文化芸術交流センターSCARTS(札幌市芸術文化財団)、2026、20頁
*2──同論、同書、17頁
*3──同論、同書、19頁
*4──「今回は私〔=市原〕がテキストとコンセプトを考える劇作家で、岸さんが作品をかたちにする演出家のように感じます」。一篠亜紀枝「市原佐都子の探究」、同書、16頁
*5──市原、前掲論、同書、19頁
*6──台上でスポットライトを浴びるシャーレというこの舞台装置は、岸のアートプロジェクト《xoxo-skeleton》の展示でも、生体情報をAIに伝達するカプセルの展示空間として用いられた。「令和7年度 文化庁メディア芸術クリエイター育成支援事業 成果発表イベント『ENCOUNTERS』」、TODA HALL & CONFERENCE TOKYO、2026年2月28日~3月8日。3月1日、筆者鑑賞。

となりの戦地と札幌の視覚論

「サッポロ・パラレル・ミュージアム 2026」(赤レンガテラスほか8会場)

 札幌駅前通の公共空間各所とウェブ空間をミュージアムに見立て、オブジェのインスタレーションから映像、サウンドピースまで幅広い形式の作品を紹介する同企画は、今年で5回目を数える。新型コロナのパンデミック直後は、テレコミュニケーションの場としてインフラ化したウェブ空間を批評的に扱う作品が多く提出された。だが6年を経て、企画全体の創造的模索は、札幌の都市空間と芸術展示とのコラボレーションへとほぼ一本化され、札幌と他空間とのパラレル性というテーマは存在感を失っていた。そんななかでも、空間的パラレル性の探究という同企画の根本的テーマの普遍性を思い出させ、さらに同時代的な問題を経由して隔たった地域と札幌との距離を考えさせられたのが、NOASIS3.4日本生命札幌ビルの地下1階で展開された笠見康大のインスタレーション《Learning to see》(2026)だった。

笠見康大《Learning to see》(2026)の展示全景 撮影:筆者

 いまは見えていない/了解していないものが「見える/了解するようになる」という意味のタイトルは、作品に向かおうとする観者に不穏さを感じさせる。なにしろインスタレーションを構成する各物品とその配置は、そうあるべき意図や規則が明示されない状態でそこにある。ハイコンテクストな状態なのか、メッセージが隠蔽されているのか、あるいは意味的なつながりが不在なのか。はっきりわからないから、「見える/了解するようになる」というタイトルの真意が適切だとは言い切れない気になる。しかしそんななかでも、各物品はいくつも照明を与えられて、見る者からとにかく「よく見える」。

笠見康大《Learning to see》(2026)の泡を吹く小ポットと黄色いメガホン 撮影:筆者

 物品の観察から要素を拾い、恣意的であれ一連の連関を察することはできる。端的にいえば、このインスタレーションではいま/かつての札幌と、北海道からみた隣国・ロシアによって展開される同時代の戦場とを、多くの示唆的要素が限りなく接近させているように見えた。青いライトを受け、蟹のように泡を吹くグジェリ陶器風の小ポット。その脇で眩しい色彩対比を誘う黄色いメガホン。焙煎されたコーヒー豆の匂い。焦がすようなストロボに照らされた宮沢賢治の詩「札幌市」。その裏側に薄暗く貼り出された、18歳の元自衛隊員と思しき「Aさん」の回想文2枚。そして札幌のオフィスビルの吹き抜けにある、いまここ。扇風機からの送風で揺れる巨大なビニール風船は、飛行船がプロペラを回し、いざ進まんとするそのひとコマを永遠に再演し続けているかのようで、そこに進行の阻止と待機のどちらを見ればいいのかは誰も教えてくれない。

笠見康大《Learning to see》(2026)の点在する局所照明群(部分) 撮影:筆者

 こうして意味と関係性の袋小路にはまりながら、なおも視覚を働かせようとインスタレーション内外をうろついてみて気づいたのは、同作が観者に強いる視覚的連続性の断絶だった。点在する局所照明がところどころ強烈に明るく、観者の目は何度か閉じかかる。あるいは、明るすぎる照明にかき消されて照射対象がよく見えない。蛍光色のなかでも素早く退色する蛍光オレンジで塗られたタブローは、ストロボに照らされ刻々とすり減るひとつの見本か。

 おそらくこの光学的かつ網膜的な目くらましは、笠見が同作のためのステートメントで繰り返す「抽象」とはなにかを理解するヒントであるかもしれない。「抽象」という語は、アーティストが「私的な、あるいは社会的な感覚や感情を探る」(*8)フィールドを説明する段で、「抽象的な振る舞いのなかで現れる色や形の関係」や「抽象的な関係」というかたちで用いられる。インスタレーションで局所的照射がその道具として機能していたとすれば、同作において「抽象」とは、「よく見ること」の行き過ぎた形態といえるだろうか。

笠見康大《Learning to see》(2026)で蛍光色ペインティングの裏側に貼られた、元自衛隊員らしきAさん名義の2枚のテクスト 撮影:筆者

 いまは遠くの戦場で多くの人が負傷し、部分的あるいは全体的に身体機能を失っている。爆撃の閃光やドローンの羽音が、破壊行為のマーカーとして、兵士と市民に知覚的トラウマを植え付ける。了解と妥協、研ぎ澄まされることと鈍くあること、見えすぎることと見えないこと──これら相反する状態の同時的発生を戦場は強いる。同作のインスタレーションとそれを覆う〈抽象〉がもたらす視覚体験から、われわれはそんな示唆を受け取ることができるだろう。

 さらに同作で〈抽象〉は、空間全体をそつなくライトアップしつつ近寄れば眩しすぎる照明という、視覚的親切を装った不自由さをメディアとして、意味の同定や関係性の解釈といったプロセスに介入してくる。目の前にあるのが非意味性の権化だとしても、自分と無数の社会/組織の感覚と感情の居場所を、私は探す──。観者の態度はここに至って、アーティストがステートメントで述べた感覚的・感情的模索の態度と共鳴し始めるのかもしれない。

*7──「岸裕真インタビュー。キュレーターMaryGPTの神託と、人間らしさを捨てることで見えてくる「未来図」とは」、聞き手=畠中実、構成=三澤麦、ウェブ版「美術手帖」2025年3月14日。https://bijutsutecho.com/magazine/interview/30411 (2026年3月15日、筆者最終閲覧)
*8──笠見康大、作品⑤「Learning to see」、サッポロ・パラレル・ミュージアム2026 ウェブサイト https://www.parallelmuseum.com/2026/05/ (2026年3月14日、筆者最終閲覧)