2026.3.13

ヘンリケ・ナウマン追悼──家具から政治を読み解く

第61回ヴェネチア・ビエンナーレでドイツ代表としての参加が予定されていたアーティスト、ヘンリケ・ナウマン(1984〜2026)が2月14日に逝去した。再利用された家具を用いたインスタレーションを通して、ポスト社会主義社会や極右思想、消費文化の交差点を鋭く読み解いてきたナウマン。本稿では、批評家アンドリュー・マークルによる追悼文と、東京藝術大学で行われたインタビューを通して、その思考と実践を振り返る。

文=アンドリュー・マークル インタビュー聞き手=フィン・ライアン、佐藤小百合、閻喜月、リュドミラ・ゲオルギエヴァ 翻訳(*)=宮澤佳奈

ヘンリケ・ナウマン Photo by Victoria Tomaschko
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ヘンリケ・ナウマン追悼──家具から政治を読み解く

 今年開催される第61回ヴェネチア・ビエンナーレにおいてドイツ代表として出展する予定であった2名のアーティストのうちのひとり、ヘンリケ・ナウマンが2月14日、癌のため逝去した。享年41歳。ナウマンは1984年、旧ドイツ民主共和国のツヴィッカウに生まれ、夫と幼い子供を遺している。

 彼女の死を悼む人々にとっては慰めにはならないかもしれないが、ナウマンがバレンタインデーに亡くなったという事実は、どこかふさわしいことのように感じられる。再利用された家具による拡張的なマルチメディア・インスタレーション、彫刻的アッサンブラージュ、粒子の粗い映像、さらにはパフォーマンスなどを通じて、ナウマンは、理想化された上昇志向を帯びた消費文化、過激なイデオロギー、そして現代美術が交差する地点を導き出してきた。そこには鋭い批評性と同時に、開かれたユーモアがあり、それはもはや「愛」に近いものであったと言える。波打つCDタワーや、サルバドール・ダリ風に溶けた時計といった奇妙なポストモダン的装飾を手がかりに、東ドイツ社会主義の崩壊と、再統一後のハイパー資本主義的なドイツにおける排外的ナショナリズムの台頭との絡み合いを暴き出す──そのような試みを行える作家が、ほかにいただろうか。あるいは、アメリカの新自由主義からドナルド・トランプのファシスト的な「MAGA」運動へと至る軌跡を、有名な『原始家族フリントストーン』のカートゥーンを経由して読み解くといったことができるというのか。鋭い政治分析を行いながらも、作品のなかで来場者が自撮りを撮影し共有することを歓迎していたナウマンは、自身を批評対象の上位に置くことは決してなかったのである。

 私が初めてナウマンに会ったのは2018年、彼女がトーキョー・アーツ・アンド・スペース(TOKAS)のレジデンスのため来日したときであった。1980年代の日本の前衛ファッションとキンシャサのストリートスタイルの関係についてのリサーチをしていた彼女が、サプールと呼ばれるお洒落な若者たちが、ヨウジヤマモト、イッセイミヤケ、コム デ ギャルソンの服に収入のすべてを費やしていたという話を興奮気味に語ってくれるのを、私は必死に追いながら聞いたのであった。ヘンリケによれば、それらの服の多くは、当時日本で頻繁にパフォーマンスを行っていたコンゴのミュージシャン、パパ・ウェンバによって調達されていたという。そのリサーチから生まれたインスタレーション《Comme des Kinois》は、2019年にTOKAS本郷で発表された。これは、キンシャサのサプール文化のアーカイブ写真、日本のリサイクルショップでナウマンが見つけたバブル期のキッチュな時計の一群、そして1970年から2000年までの日経平均株価の推移を、コム デ ギャルソン風の白黒ポルカドット模様で覆われた壁面に金属チェーンで描いたグラフを並置した作品であった。

「Foreshadows」展(トーキョー・アーツ・アンド・スペース)の展示風景より、《Comme des Kinois》(2019) Photo by Andrew Maerkle

 その後も私たちは連絡を取り続け、様々な国際展やイベントで偶然再会することもあった。彼女がウクライナ、キューバ、ニューヨークなど各地でプロジェクトを展開していく様子を、私は遠くから追っていた。ナウマンについての忘れがたい記憶に、まだコロナ禍の最中であり、ロシアによるウクライナ侵攻から数ヶ月しか経っていない2022年のヴェネチア・ビエンナーレのオープニングの、ジャルディーニ会場で交わした会話がある。彼女はドイツ館のほうへ軽くうなずき、いたずらっぽい光を目に宿しながら、「今度は私の番だ」と言った。それはキャリア上の目標というよりも、あのような緊張感を帯びた空間で制作するということへの展望を語っているようであった。彼女がドイツ代表として選ばれたというニュースを見たとき、私はすぐに祝福のメッセージを書き送り、言った通りだねと励ました。

 2022年、私たちがヴェネチアで出会ったその同じ年に、私は東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科で担当していたキュラトリアル・プラクティスの授業に、ナウマンをゲスト講師として招いた。授業の一環として、学生たちは彼女が当時進めていた社会主義の文化的遺産に関する複数年にわたる展覧会プロジェクト「Ostblock」のリサーチに参加し、その後、彼女の実践についてインタビューを行った。Zoom上で行われたこのインタビューは、結局公開されることはなかったが、作家の思考と、彼女があらゆる実践に向き合う際の寛大な精神を親密に伝える記録となっている。

 ナウマンは、この授業の即興的で集団的な性格を気に入っていたのではないかと思う。彼女のスタジオが発表した声明によれば、ドイツ館でのプロジェクトは予定どおり実現されるという。「本展は(中略)彼女のキャリアの始まり方と同じ方法で実現される。すなわち、ヘンリケの芸術的ヴィジョンに導かれた共同の試み(Gemeinschaftswerk)として」。

ヘンリケ・ナウマン(右から2番目)。左からアンドリュー・マークル、キュレーターのバーバラ・ロンドン、ジョアン・バーニー=ダンツカー。2022年、ドイツ、カッセルにて Photo by Andrew Maerkle/Henrike Naumann

*──本インタビューの日本語版は、当初アンドリュー・マークルより東京藝術大学学生(佐藤小百合、松江李穂、チョ・ヘス)による翻訳原稿が提供されたが、最終掲載にあたり、宮澤佳奈による再翻訳版を採用した。

インテリア・アウトサイダー

フィン・ライアン(以下、ライアン) 今年始めのキュラトリアル・プラクティスの授業のゲストレクチャーでは、旧東ドイツで育ったことについて、いくつか個人的なお話を共有してくださいました。こうした個人的な物語は、ご自身の作品にとってどのような重要性を持っていますか。また、今後5年にわたり複数の社会主義国およびポスト社会主義国で展覧会を制作される予定の「Ostblock」プロジェクトにおいて、そうした個人的な経験をどのようにグローバルな文脈へと移植することができるのでしょうか。

ナウマン 個人的な経験というのは、つねに議論のなかに投げ込むためのハンマーのようなものだと思っています。あるいは、非常に閉ざされていたり、過度に複雑に見えたりする議論の扉を打ち破るためのもの、と言ってもよいかもしれません。主観的で個人的な経験について語ることによって、私は難しい問題に個人的なレンズを通して取り組むことができます。ただし、それはつねに、そのことがより広い文脈へと翻訳されていくことを願ってのことです。そして、このように非常に主観的で、個人的で、伝記的な視点から語るというアプローチは、私にとっては、大きな政治的問題すべてをも含むものでもあります。

 私はこの10年、ドイツで扱ってきたあらゆるトピックにおいて、この方法を用いてきました。巡回展である「Ostblock」の場合、作品においても特定のはたらきやコミュニケーション方法が必要になります。そして、このコンセプトにおいて重要なのは、議論、リサーチ、そして家具だと思っています。家具は、アートと、例えば椅子に座ったことのあるすべての人が共有する現実とのあいだの隔たりを橋渡しする方法を与えてくれます。それは非常にアクセスしやすいものであると同時に、とても具体的でもあります。「Ostblock」は、それぞれの想定された文脈における制作条件に応答するという意味で、非常に実験的なものになると思いますが、実際のところ、それは、美術館と家具店をつなぎ、家具が美術館に展示され、作品が家具店に展示されたときに何が起こるかを見る、という非常にシンプルなアイデアです。作品が本当に、誰にとっても日常生活の一部であることを意図されているのだという、生産的で面白い混乱を生み出すことができるのではないかと思います。

ライアン グローバルな文脈への移植に関連して、2022年から23年にかけてニューヨークのスカルプチャーセンター(SculptureCenter)で開催された展覧会「Re-Education」のギャラリーガイドでは、ご自身をアメリカにおける「興味をもった異邦人(interested outsider)」と表現されています。ご自身のアウトサイダーとしての立場をどのように感じていらっしゃいますか。

「Re-Education」展の展示風景より、《Welcome to Bedrock》(2022) Courtesy the artist. Photo by Charles Benton

ナウマン とても良い質問です。というのも、最初の頃は多少、葛藤があったからです。アメリカの文脈では、もちろん自分がアウトサイダーだと感じますが、同時に、アメリカのポップカルチャーについて、役に立たない知識であればたくさん身につけてしまったとも感じています。何かを知っているという感覚と、でも本当にそれを知っているのだろうかと自問する感覚が、同時にあるような。

 ニューヨークに向かう前、私はドイツから作品をひとつも持っていかないことに決めました。というのも、3ヶ月間、現地で制作することにコミットしたかったからです。でも、到着してから、「ああ、どうして少なくともひとつくらい、ドイツから変な家具を持ってこなかったのだろう。それを空間に置いて、『そう、これが私の専門です。これについてならなんでも知っています』と言えたのに」と思った瞬間がありました。最初は少し気後れしました。ニューヨークは、すでに非常に多くのものが展示され、議論されてきた、とても競争の激しいアート都市だからです。自分が知っていると思っていたことと、何かを理解しようとする意志だけを頼りに、ゼロから始めようとしていることに、少し圧倒されていました。

 しかしその過程で、今回の企画に必要なのは外部の視点を持ち込んで、いま何が起きているのかを説明することではないのだと気づきました。むしろ、自分が持ちあわせているツールを使って、まだ語るための言語が存在していないかもしれない事柄について語ることなのだと気づいたのです。外部の視点から来ると、ときに物事がよりはっきり見えることがあります。そしてそれ以上に、本当に重要であったり、議論される必要のある問いを誠実に発することは、政治的問題にアプローチするうえで有効だと感じています。聞くことで何も新しい展開が得られないように感じられる、聞きたくないような質問もあります。しかし、もしあらゆることを、普通や当たり前、自明ではないものとして見始められるなら、つまり、あらゆることについて人に尋ねなければならなくなるなら、とても面白くなってくるのです。

ライアン それで、2021年1月6日のアメリカ連邦議会議事堂襲撃に焦点を当てることにされたのですね。

ナウマン はい。でも初期の段階では、その主題に対して自分がどのような視点を取りうるのかを考えていた時期がありました。キュレーターは、いまアメリカで起きているこうした非常に差し迫った政治的問題について語ることをためらう必要はないと、私を後押ししてくれました。そして私は、アメリカ政府内部における「Qアノン」のクーデター的蜂起や、民主主義全体の腐食について語ることができるという自信がありました。なぜなら、すでにそのためのツールを持っていたからです。私はこれらのトピックをこの10年間扱ってきましたし、それらを語るための言語がまだ存在していないアメリカの文脈へと翻訳することができます。

 ですから、自分に見えるものを見ること、問われるべきだと思う問いを発すること、そしてそれがどこへ向かうのかを見ることにしようと思いました。「興味をもった異邦人」というのは、実際そこまで悪くない表現かもしれません。なぜなら私は、ニューヨークであれ、ここベルリンの自分の窓の前であれ、あらゆるものを、何も知らないかのように見るのが好きだからです。私はつねに、物事がどこから来て、何を意味し、どのように私たちをかたちづくっているのかを理解したいと思っています。今年(2022年)という年は、そのようにあらゆるものを新しいものとして見るやり方を、本当によく教えてくれました。

 そしていま、私は東西ドイツの歴史についての仕事をまとめつつあり、自分の実践において新しい章が始まろうとしていると感じています。もしこのままドイツに留まり、この10年間やってきたのと同じやり方で仕事を続けていたなら、ある特定のトピック、そして美学や議論に、停滞しまうかもしれません。そうなると、人々が東ドイツについて何か知りたいときには、ただ戸棚を開ければ私が飛び出して答えを与える、というようなことになりかねません。いまは歴史や政治や自分の周囲にあるものだけでなく、自分自身の前提や実践そのものを挑戦していきたい。まだ自分の知らないことがたくさんあり、それらが、まだ想像もできないようなかたちで私の仕事をかたちづくりうるのだと感じています。

ライアン アメリカで現地調達した家具を使うという点について、先ほど少し触れました。私にとって、ローカルな家具を使うという選択が、作品に不穏な雰囲気を与えているように思えます。観客には、その家具に対する一定の親しみが前提としてあることを期待されていますか。また、海外で制作するとき、その不穏さと親しみの両方を生み出すための「適切な家具」をどのように見つけていらっしゃるのでしょうか。

ナウマン ドイツの文脈や家具の美学においては、誰もが知っている日用品を取り上げ、それらを東西、資本主義と社会主義と結びつけました。すると突然、それらはある特定のイデオロギーとの関係において、とても異質で、極端で、幽霊のようで、あるいは興味深いものに感じられるようになったのです。あまりにも慣れ親しんでいて、あまりにも普通であるがゆえに、もはや誰も本当には見なくなってしまった、それらほとんど「見えなくなった」対象を取り上げ、それらを普通ではないものにし、意味のあるもの、奇妙なものにし、政治的な含意を与えることが重要でした。

 そのいっぽうで、ニューヨークは物質文化の面で別の極端さがあります。普通、ある都市に3ヶ月いるなら、私はあらゆる店、とりわけ街の外のリサイクルショップを、見て回ろうとします。できるだけ多くを見ようとするんです。しかし、ニューヨークをモノを通して読もうとすると、圧倒されてしまうのは、なによりそれが不可能だからでしょう。思いつくようなものは、おそらくなんでも、すでに存在している。高価かもしれませんが、どこかにはあるはずです。そして、美術館や店では、さらに変なモノたちを見つけることができます。しかし、ニューヨークの普通の人々と家具との関係は、ドイツとはまったく異なっています。なぜなら、裕福であったり自分の家を所有していないかぎり、おそらく頻繁に引っ越しせざるを得ないでしょうし、家具にそれほど愛着を持つことができないからです。では、そうした家具はいったいどのようなものなのか。例えばIKEAかもしれません。でも、それにどんな意味があるのでしょうか。最初の頃、私はクレイグスリスト(Craigslist)で家具を見ていて、「なるほど、でも私はこれで何を語りたいのだろう」と思っていました。ニューヨークにおける家具状況が、あまりにも突飛で、壮観で、制御不能であることが、家具を非常に極端なものとして見ることへの関心を私に抱かせました。「この街で見つけられるいちばん奇妙なものはなんだろう」と思ったのです。そしてそのとき、このプロジェクトには別のアプローチが必要だとわかりました。非常に極端な家具を使って、政治的過激主義について語ることができるのだと気づいたのです。

「Re-Education」展の展示風景より、椅子の作品は《Horseshoe Theory》(2022) Courtesy the artist. Photo by Charles Benton

 また、支配的な工業的建築の空間であるスカルプチャーセンターにも適応しなければなりませんでした。これまでは、家具を美術館に持ち込むことで、美術館がある種のホーム・インテリアになるようにしてきました。つまり、美術館の白い壁が、家や家具店の白い壁になるようにしてきたのです。しかし、レンガの壁があり、天井から大きな金属の鎖が垂れ下がっているような、工業的な空間で仕事をしたことはありませんでした。ためらいもありました。そのような空間に家具を置くことは、簡単に場違いに感じられてしまうと思ったからです。そこには「家」の幻想がまったくなく、まったく異なる設定だったからです。私は、家具をその空間に応答するかたちで展開しなければならないとわかっていました。つまり、家具はその空間の美学を取り込む必要があったのです。それは私にとってまったく新しいヴァイブでした。そうしたインダストリアル・ラスティックな家具を見ながら、それがこのような空間のなかでどうやって生き延び、どう意味をなすのかを考えていました。そして最終的には、「なぜだかわからないけれど、これはここに属している」と思うようになりました。

「Re-Education」展の展示風景より Courtesy the artist. Photo by Charles Benton

 もちろん、それを人々が知っているものと混ぜることもしましたし、それには映画やテレビの舞台美術家としての自分自身のバックグラウンドも活用しました。それが実際に、このプロジェクトへのとても重要な入り口となりました。なぜなら、ニューヨークに来たのは初めてでしたが、私は旧東ドイツで1990年代に子供として育ちながら、ずっとテレビでこの街を見てきたからです。初めてニューヨークに来る人は誰でも、テレビを通してその街を知っているというこの不思議な感覚、そして「これは現実なのか、そうではないのか。私は現実なのか。私はここで何をしているのか」という興味深い混乱を共有しているのではないかと思います。

 ですから私は、これを、自分のいわば「興味をもった異邦人」としての視点として扱いました。というのも、その美学を非常によく知っていましたし、いろいろなアメリカのテレビ番組を観たことによって、自分が舞台美術家になろうというインスピレーションを受けたほどだったからです。私の仕事は、アメリカのテレビ番組から深く影響を受けています。そしてもちろんそれは、1990年代の旧東ドイツにおいて、人々がどのように自宅を装飾していたかにも影響していました。例えばTVドラマシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』で見たものを再現するようにです。人々は、家具におけるある種の社会主義的機能主義──つまり、非常に空間効率が高く、耐久性があるということ──から離れ、まるで映画のセットのように自宅を飾る自由や解放へと移っていきました。空間の真ん中にミニバーを置く必要はありませんが、まあいいじゃないか、というような態度でした。こうしたアメリカや西側への上昇志向的な幻想は、私の作品のなかで繰り返し現れるある種の家具の美学と非常に強く結びついています。ですから、メディアを介したテレビの室内空間がアメリカから世界のほかの場所へと広がっていく現象は、私がニューヨークで家具を集めていたとき、まさに強く意識していたことでした。

 これはまた、何かに停滞してしまわないことがいかに重要か、そしてその代わりに、そのとき自分が知っていることを持って新しい文脈に没入し、そこから自分が知らなかったものが何として出てくるのかを見るだけでなく、自分自身の仕事を再び新しい見方で見ることでもある、という先ほどの話にもつながっています。突然、すべてがひっくり返り、「私はこれをそんなふうに見たことがなかったし、人々がそこに見ているものを見たこともなかった」と感じるのです。

家具が語るもの

佐藤小百合(以下、佐藤) 私は、美術館の機能とあなたの作品に関心があります。先ほど、家具を美術館に持ち込む行為を、ある種のディスプレイスメントだと説明されました。家具を用いる際、その機能が取り除かれているのか、あるいは保たれているのかということを、どの程度意識されていますか。また、もしそうしたことが起こるのであれば、家具からアートへの変容はどの時点で起こるのでしょうか。

ナウマン 良い質問です。私はこの問題について、制度機関と絶えず話しています。というのも、私は家具を持ち込み、人々がそこに座れるようにしたいからです。もしかすると、そこがすでに少し、美術館の中に作品があるという期待が混乱する地点なのかもしれません。なぜなら、私のインスタレーションは作品ですが、スカルプチャーセンターにある椅子はすべて私が配置したものであり、人々は、作品を理解するためにそれらに座るよう招かれているからです。

 私はいつも、人々が私の作品の周りを大きく避けて歩くのを目にします。まるでそれらが触れてはいけないもののようにです。そして、座ってよいと言うと、彼らは「引き出しも開けてよいのですか。全部触ってよいのですか」と尋ねます。私の答えは「いいえ、誰かの家を訪ねているところを想像してみてください。そこであなたは何をしますか。座りはするでしょうが、どこかに隠されているかもしれないものを次々に取り出し始めたりはしないでしょう」というものです。ですから私は、自分が展示を行う機関で働く人たちに、この方針を説明しようとしています。それは、誰かの家を初めて訪れるようなものなのです。

佐藤 以前、私たちの授業でお話しくださった際、2021年から22年にかけて、キーウのピンチュクアートセンター(PinchukArtCenter)とモスクワのトレチャコフ美術館新館(New Tretyakov Gallery)で、それぞれ同時期に展覧会に参加されたとおっしゃっていました。ロシアによるウクライナ侵攻の直前であったにもかかわらず、人々が家具と一緒に自撮りを撮っていたことに、私はとても強い印象を受けました。ヒト・シュタイエルは2016年の論考「台座の上の戦車──惑星的内戦の時代における美術館」において、ウクライナのドンバス地域の第二次世界大戦記念碑に展示されていたソ連の戦車が、2014年の紛争の際に、親ロシア分離主義勢力によって実際に再利用され、戦闘に使用されたことを記述しています。

 人々は、展示空間が日常生活から切り離されていると考えがちですが、これは、現実の社会状況に応じて、美術館の展示物が現実世界へと持ち戻されることがあることを示しています。そのいっぽうで、あなたは私的で日常的なオブジェクトを展示空間へと持ち込みます。あなたの家具の使用は、日常生活と展示空間とのあいだの隔たりを橋渡しし、展覧会での体験をそれぞれの日常生活と相互に関係づけることを促しているように思えます。それは、人々やより広い社会に対して、どのような効果を持ちうるとお考えでしょうか。

ナウマン とても美しく、複雑な質問です。少しほぐしながらお話しさせてください。私は、ロシアによるウクライナ侵攻の始まりに、博物館にあったもの、例えばチェコのハリネズミ──第二次世界大戦時代の鋼鉄製戦車バリケード──が実際に使われていて、博物館の職員たちが、まだラベルの付いたまま、それらを通りに運び出しているのを見て衝撃を受けました。あれは、戦争初期の日々のなかでもっとも考えさせられるイメージのひとつでした。ドイツおよびヨーロッパの視点から言えば、それは、再びヨーロッパに戦争があるということを意味します。そして、暖房やインターネットや平和といった種のものを当然として育ってきた私にとって、それはいっそう深く響きました。博物館にあるオブジェクトや歴史の一部となっているオブジェクトは、通常、私たちの生活に戻ってくることはありません。しかし、それらは再び使われる可能性を持っているし、あるいは、私たちが突然それを再び必要とするかもしれないのです。私は、オブジェクトは、ドキュメントとは異なる仕方で本当の歴史を語ると思っています。そしてもちろんそれは、第二次世界大戦の終結以降ずっと戦争は絶えず存在していた、ただし必ずしもヨーロッパではなかった、という現実を思い起こさせるものでもあります。「二度と繰り返してはならない」ということを、私たちは当然視することができないのだということが、いまほど明らかになったことはないと思います。

 ニューヨークで私が制作した、アメリカ連邦議会議事堂襲撃についての作品は、アメリカにおける共有された記憶に触れると同時に、まだ本当には扱われてこなかった何かにも取り組んでいると思います。というのも、それはあまりにも最近のことであり、しかも、アメリカ政府の内部からクーデター未遂が起こったという事実を理解すること自体が非常に難しいからです。それはあまりにも突飛に思えます。最近のアメリカ政治で起きた多くのことは、あまりにも行き過ぎています。私はトランプ時代の美学を調べながら、なぜトランプやトランプ政権についての優れた作品がそれほど多くないのだろうと考えていました。ほとんどは、裸の赤ん坊やピエロとしてのトランプの描写であり、それらはそれほど鋭くなく、問題の核心に届くこともできません。意味のある仕方でそれについて語ることへの沈黙やためらいがありました。だから私は、その状況に挑みたかったのです。なぜなら私は、奇妙な美学と危険な内容の両方を扱うことにかけては専門家だからです。「よし、これを家具に分解してみよう。そして、家具を使って、アメリカにおける最近の政治史と、それがどのように社会をかたちづくっているかについて語れるか見てみよう」と思いました。

 これまで私が行ってきたことや考えてきたことについて言えば、歴史博物館に近い何かもありました。歴史博物館は、私にとって、リサーチのインスピレーションの源であるだけでなく、家具がドキュメントになりうるのか、あるいはある時点をアーカイブする方法になりうるのか、という問いを試みる場所でもあります。私は実践の初期に「アウラを帯びた」オブジェクトに非常に関心を持っていました。オブジェクトは、ある特定の歴史的瞬間に属しているがゆえに、ある種のアウラを持っています。1999年頃から2011年にかけて活動していたドイツのネオナチ・テロリスト集団、国家社会主義地下組織についての最初の作品を制作したとき、私は、そのメンバーの何人かが住んでいたツヴィッカウの家に入りました。警察がすべての証拠を押収したあとで、家が取り壊される前のことでした。私はカーペットの一片と壁紙の一片をなんとか持ち出しました。それらは実際のドキュメントであるようなアウラを持っていましたが、同時に、警察がそれほど重要視しなかったものでもあり、それで私はそれらを使って作業を始めました。それらを自分のインスタレーションのために再現したのです。同じカーペットを見つけ、同じ壁紙を見つけました。その作品には、私が再現したり、コピーしたり、サンプルとして使ったりした歴史的ドキュメントも含まれていました。それは、非常にねじれたインテリアデザイナーのムードボードのようなものでした。

 私のアプローチは、これは壁紙、これはカーペット、ではこれに合うものは何か、というものでした。あるいは写真のなかにランプを見たので、そのランプを見つけなければならなかったのです。家具の歴史、家具の記憶、あるいは政治的現象を家具化することについて考えました。そしてそのとき、もはやオリジナルは必要ではないのだと理解しました。なぜなら私は、政治的過激主義のインテリアデザイナーのようなものだったからです。参照物をもとに作業し、オリジナルを持たずに再現することができたのです。オリジナルのアウラの代わりに、私の焦点は、私たちすべてがこれらのオブジェクトや素材を共有しているがゆえに、暴力がどのように私たちの日常生活のいたるところに存在しうるのか、ということに移っていきました。

釜山ビエンナーレ2018「Divided We Stand」の展示風景より、ヘンリケ・ナウマン《2000》(2018) Photo by Andrew Maerkle

 アメリカ連邦議会議事堂襲撃についての作品のために、私は、暴徒たちが議事堂に侵入するために使った家具と、議員たちが自分たちを守るために使った家具の両方を調べました。スカルプチャーセンターの大きなバリケードに使われている家具はすべてフェデラル様式ですが、それらはすべてニューヨーカーの家や、リサイクルショップや、路上からきています。ある時点では、ワシントンD.C.のスミソニアンに連絡を取り、実際に襲撃で使われた家具を入手できないかと尋ねましたが、彼らは何も持っていませんでした。また、フロリダにあるトランプ・ホーム・コレクションの家具も調べましたが、それをニューヨークに運ぶには莫大なお金がかかったでしょう。そこで、議事堂襲撃で使われた家具や、オリジナルのトランプ・ブランドの家具は必要ないのだと気づきました。ニューヨーカーたちが手放した家具を使って、同じ物語を語ることができたし、そのほうがむしろいっそう不気味だったのです。なぜなら、私たちが見ているのは、誰もが知っている家具だからです。

佐藤 このインタビューの冒頭で、私たちが当然のものとして受け取っている何かの意味を、それを失ったあとで初めて理解することがしばしばある、という考えを示唆されていました。それを聞いて、私たちは家具の機能も当然のものと見なしがちですが、それが展示されると、もともとそれがもっていた力や機能を知ることができるのではないかと思いました。一般に、私たちは建築のような外部が、権力やプロパガンダの提示に使われるという考えにはよく馴染んでいます。それに対して、家具のようなインテリアの要素は、イデオロギー的な観点から論じられることがあまりありません。おそらくそれは、家具がたいてい私的空間を占めているからではないかと思います。では、イデオロギーあるいはプロパガンダという観点から見たとき、外部に対してインテリアの固有の特徴とはどのようなものだとお考えでしょうか。あるいは、インテリアデザインが人々に及ぼしうる固有の影響とは、どのようなものだとお考えでしょうか。

ナウマン 私は建築にも非常に関心があります──そしてとりわけ、ニューヨークという文脈においてトランプ政権を見るときにはそうです。ニューヨーカーの大多数はトランプに反対票を投じましたが、同時に、トランプは完全にニューヨークの産物でもあります。彼は何十年にもわたり、この都市の不動産と建築をかたちづくってきましたし、もちろん彼自身もこの都市によってかたちづくられてきました。ですから、このテーマにおいてニューヨークはとても大きな役割を果たしています。たとえそれが私的な建物であれ、個人所有の不動産であれ、建築は公共意識の大きな一部です。なぜなら、それはただそこにあるからです。無視することはできませんし、そのまわりを歩かなければなりません。権力とお金を通して、それは都市全体と社会全体に影響を及ぼし、共有された環境に確かな痕跡を刻みます。しかし家具は、主としてそれが内部で起こるから、そしてまた可逆的であり容易に変化しうるから、見過ごされている部分です。家具は建築ほどの影響力をもちません。むしろそれはファッションや衣服に近いものです。なぜなら、それは身体に近く、人々の欲望の表現として絶えず変化しているからです。

 しかし、ファッションは都市のなかで着られ、より広い社会的文脈のなかで自己の反映となるのに対し、家具は家にとどまります。ですから家具は、社会全体のなかで興味深い位置を占めています。なぜなら、それは人が持ちうるもののなかでもっとも私的なもののひとつだからです。もちろん、家具の写真を投稿したり共有したり、人を家に招いたりすることはできます。しかし、ほとんどの時間、それはあなたが家具と一緒に過ごしているだけなのです。

 興味深いのは、家具が誰の人生にもこれほど深く関わっているにもかかわらず、なお十分に分析されていないということです。私は、ちょっとした決まり文句を持っています。家具とは、誰もが話す言語のようなものだ、と言うのです。どこへ行っても、私は椅子に座ることができるし、たとえ互いに異なる言語を話していても、何かについて議論することができます。ファッションと並んで、家具は究極の人間的参照物です。それは人間の身体寸法に合わせてつくられています。ですから、たとえそのとき誰も座っていなくても、椅子はつねに人間に関係しているのです。そして、それがスカルプチャーセンターでの展覧会を興味深いものにしていました。というのも、空間自体が非常に工業的で粗造りな美学を持っているだけでなく、巨大でもあるからです。私は大きな作品をつくるのが好きですが、私の作品の要素はつねに人間のスケールです。椅子があり、テーブルがあります。そして、巨大な椅子があっても意味をなしません。なぜなら、私の家具は現実的なサイズでなければならないからです。私は、人々が作品の前に立ち、オブジェクトと関係をもつことを望んでいます。ですからスカルプチャーセンターでは、より大きな文脈のなかで人間のスケールを保ちながら、いかにしてあのような巨大な空間に存在することができるのかを理解しようとしていました。私にとって非常に興味深いことでした。なぜなら、議事堂の家具を積み上げ始めたとき、それは私がこれまでに行ったなかでもっとも大きなインスタレーションになったいっぽうで、なお人間的スケールに結びつけられるものであり続けたからです。それは私にとって新しい発見でした。というのも、あのような空間という意味で、私はこれまでそのような挑戦を経験したことがなかったからです。

「Re-Education」展の展示風景より、《Rustic Traditions》(2022、部分) Courtesy the artist. Photo by Charles Benton

 しかし質問に戻ると、私は実際、建築理論を家具のディスコースへと翻訳することが可能かどうかを、つねに見たいと思っています。例えば、第三帝国の建築については多くの本があります。それをなんらかのかたちで家具へと翻訳できるのだろうか。もしできるとしたら、それはどのようなものになるのだろうか。ほとんどの人は家具についてそれほど真剣ではないですし、それが建築ほど大きな影響を持つとは考えていません。しかし、それは異なる影響をもっています。私たちが毎日ただ通り過ぎるだけの建物や、ある特定の目的のためにしか入らない建物は、それほど私たちに力を及ぼさないかもしれません。しかし、私たちが住む建物は非常に強い影響をもっています。そしてそれは家具にも及ぶのです。

ポスト社会主義の記憶とインテリア

閻喜月 私は、とりわけ社会主義社会との関係における集合的記憶についておうかがいしたいです。文化的、経済的、政治的なものであれ、こうした集合的記憶を担うなんらかの媒体がつねに存在しています。例えば中国では、社会主義時代の記憶は、国営工場やその建築様式、社会主義ポスターのデザイン、あるいはスローガンなどに結びつけられる傾向があります。扱う家具の時代に関係する、集合的記憶を引き出したり喚起したりしようと試みられていますか。

ナウマン はい、それは実際に試みています。「Ostblock」プロジェクトにおいてこれから非常に興味深いのは、自分が使う美術館を、何もかもがある種のクリシェや観念についてのものになってしまう社会主義博物館へと変えてしまうことを、どうやって避けるかを見出すことです。ドイツの文脈においては、私は期待をかなりかき乱すことができたと思っています。例えば、ある作品は社会主義について、東ドイツの記憶について──あるいは人々が「オスタルギー」(*1)と呼ぶものについて──の作品だと言うことができます。しかし、そのすべては1990年代の西ドイツの家具でつくられていました。ですからそれは東についてであると同時に、西がドイツの居間に住みついていることについてでもあったのです。解きほぐすのはとても簡単に見えますが、いったん解きほぐし始めると、どんどん複雑になっていきます。私は、ある種の挑発をもって、あるいは一見簡単に見える前提を転倒させることによって、あらゆるプロジェクトに取り組むのが好きです。人々は、ますます複雑で、ときに魅力的なまでに矛盾した前提へとつまずきながら入っていきます。それが目標です。私は、非常に具体的なアイデアのように、とてもキャッチーに見える何かを持ちたいのです。それによって人々は巻き込まれ、関心を持ちますし、同時に非常にアクセスしやすくもあります。そして、見れば見るほど、それはより複雑で、より分節的になっていくのです。

 実際、私はブルガリアから戻ってきたばかりです。そこで「Sofia Art Projects」という展覧会に参加してきたのですが、それは私にとって非常に考えさせられる経験でした。大きなプロジェクトではありませんでしたが、東欧でプロジェクトに招かれると、私はいつも引き受けるようにしています。そして、予算があまりないときにはいつも、現地の中古品店を使って成立させる方法を見つけようとします。そのような場合、作品はその後破壊されます。そしてその唯一の目的は、展覧会が成立することを確実にすることです──というのも、ハンガリーや旧ユーゴスラビアのような東欧の多くの国々では、政治状況が必ずしも良いとは限らないからです。例えばハンガリーのように右派政権がある場所で展覧会をしようとすると、おそらく国立機関や美術館ではできません。なんらかのオフスペースでやるしかありません。そして、ifa(Institut für Auslandsbeziehungen)のような企業や文化外交団体に支援された大きなプロジェクトでさえ、プロジェクトスペースで行われることになります。なぜなら、それが唯一の選択肢だからです。

ドクメンタ15の一環としてカッセルのセント・クニグンディスで開催された「Atis Rezistans / Ghetto Biennale」展の展示風景より、ヘンリケ・ナウマンとバスティアン・ハーゲドルン《The Museum of Trance 》(2022) Photo by Andrew Maerkle

 ソフィアでの展覧会は地下鉄のシステムのなかで行われています。その地下鉄は社会主義時代にさかのぼるものですが、同時に初期ローマ時代の考古遺跡でもあり、廃墟となったショッピングモールでもあります。街の真ん中にいて、地下へ降りていくと、そこには古代の柱があるいっぽうで、空のショーウィンドウがあり、電車もある。とても奇妙で、興味深い場所です。「Sofia Art Projects」は、街からすべての空き店舗を1週間借り、それらをインスタレーションで満たします。私は1週間そこに滞在し、ソフィアの家具と映像作品を使って設営をしていました。人々は電車へ向かう途中、通り過ぎながらそれを見ることができました。私のインスタレーションはショーウィンドウの中にあったので、人々は空間に入らなくてもそれを見ることができました──実際、そこはスケートボーダーたちがたむろする場所でもあります。私の仕事はインテリアについてのものなので、何百人もの人が毎日通り過ぎる公共空間でありながら、開けた屋外ではなく、外部でもない場所で作品を見せるのは初めてのことでした。

 そして、そこにいるあいだに、私はソ連のイコノグラフィーを通してミッキーマウスとミニーマウスを描いた驚くべきオブジェクトに出会いました。このイメージは、自分がどのようにかたちづくられてきたかということにとても近く感じられます。ミッキーマウスでありながら、鎌でもある。意味をなさないけれど、同時に意味をなしているのです。では、「Ostblock」ツアーの各章において、どうすればこのように語る作品をつくることができるのだろうか。そこでは意味をなさないはずなのに、実際には意味をなしている。あるいは、それまで考えたこともなかった視点に出会ったと感じるような作品を。また同時に、どうすればその視点に声を与え、そうした場所にいる人々に、その視点から語ることを促すことができるのだろうか。

 私は、物事を単純化しようとしたり、問いに対する簡単な答えを見つけようとしたりする視点は求めていません。私が提示したいのは、答えを持たないかもしれない問いを発する視点であり、議論すればするほどますます複雑になっていく視点であり、あるいは、ただひとつの結論に到達するのではなく、むしろ多くの異なる複雑さについてのより広い理解へと至るような視点です。プロジェクトを説明するのは簡単ではありませんが、それはむしろ、問いを生み出し、その問いの立て方を集める研究のようなものです。答えですか。おそらくそうではなく、むしろ、語ることの難しいことについて語るための言語なのだと思います。

リュドミラ・ゲオルギエヴァ 私はブルガリア出身の研究生です。あなたの作品では、社会主義の過去、現在、未来がしばしば探究されていますが、旧東ドイツ出身者として、ヨーロッパにおける社会主義の過去をどのように見ていらっしゃるのかに関心があります。ブルガリアもまたポスト社会主義国ですので、この関係が複雑で、トラウマに満ちたものでありうることを知っています。移行期が始まったあとに生まれた私でさえ、例えば、古いブルガリアのアパートにはどこにもある「社会主義の部屋」と呼びうる空間に身を置くと、即座に反応してしまいます。私にとってそれは、社会主義だけでなく、移行期や資本主義の果たされなかった約束、西側への憧れなどとも結びついています。あなたは作品のなかで社会主義の過去に向き合うとき、ポスト社会主義国が抱えるこのようなトラウマとの接続を感じることがありますか。

ナウマン 私にとって社会主義についての視点は、トラウマからというより、関心から来ています。なぜ自分が同じようなトラウマを感じないのかはわかりません。私はその時代に生まれましたし、家族のなかには収監された者もいたにもかかわらずです。おそらくそれは、東ドイツがほかの東側諸国と比べると比較的豊かで安全だったからなのだと思います。もちろん、私は社会主義時代と容易な関係を持っているわけではありませんが、それでも私はそれを経験したいし、見たいし、議論したいのです。

 おそらくこれは、再統一後のドイツにおいて、公的記憶から社会主義が消去されたこととも関係しているのかもしれません。これは、ほかの場所では必ずしも起こらなかったことです。東ドイツは、豊かな西側の国に吸収されたがゆえに、まさに特別なケースでした。ですから移行はよりスムーズでした。それは、体制が変わり、そのあと国家が過去と向き合わなければならなかった、というような状況ではありませんでした。そこには西ドイツの歴史と東ドイツの歴史があり、そして西ドイツの過去が全体を代表するものとしてその上に置かれたのです。これはアートにおいても同じです。突然、西ドイツの伝統だけが唯一のものとして残りました。しかし他国では、それはそうではありませんでした。変化以前の作家たちも、新しい体制へと移行しなければなりませんでした。彼らは、ただ新しい作家、新しい歴史の一部になることはできなかったのです。その意味で、ドイツにおいて「社会主義の部屋」を立ち上げるという行為は、非常に政治的でありえますし、「なぜそれを持ち戻すのか」といった問いを引き起こしもします。それは、国家の公式の歴史のなかでは同じ価値を与えられていない、ドイツのあの曖昧な記憶を呼び起こすのです。

*1──ドイツ語の「東(Ost)」と「ノスタルギー(Nostalgie=郷愁)」を組み合わせた造語で、1990年のドイツ再統一後、旧東ドイツ時代の生活様式、文化、ブランド、日常品などを懐かしむ感情や現象を指す。