2026.10.8

東西を超え、自分自身の言葉を探して。王衍成が語る、自由、身体、そして作品の「永生」

パリを拠点に国際的に活動する抽象画家、王衍成(ワン・ヤンチェン)。2024年の東京国立博物館・表慶館での個展を経て、今年11月には東京・銀座の和光本店で展覧会「Core ― Beyond Time WANG YAN CHENG」を開催する。東洋と西洋という枠組みを超え、王はいかにして「自分自身の言葉」を探してきたのか。自由、身体、普遍性、そして作品の「永生」について、文化研究者の山本浩貴が聞いた。

聞き手=山本浩貴 構成=編集部

王衍成、和光本店にて 撮影:稲葉真
前へ
次へ

「自分の言葉」を探す──先人、画布、そして自由

──中国からフランスへ渡り、国際的に活動する王さんの作品は、同じく中国出身でパリを拠点にしたザオ・ウーキーやチュー・テ・チュンを想起させます。西洋の抽象絵画と中国絵画の伝統、東洋思想との接続など共通する点もありますが、彼らから受けた影響と、ご自身の表現との違いをどのように考えていますか?

王衍成 ザオ・ウーキーやチュー・テ・チュン、そしてピカソをはじめとする偉大な先人たちの存在は、私にとって大きなプレッシャーでした。彼らはすでに、創造という意味でひとつの「天井」とも言えるほどの高みに到達していたからです。その後に自分は何をつくることができるのか。それは考え続けなければならない問題でした。実際、私の作品もザオ・ウーキーやチュー・テ・チュンと比較されることがあります。

インタビューに答える王衍成 撮影:稲葉真

 しかし重要なのは、彼らの表現を模倣したり、確立された様式を繰り返したりすることではありません。芸術家は、自分自身の言葉を見つけなければならない。それは誰かのスタイルを借りるのではなく、作品と向き合うなかで得た、もっとも真実に迫る感覚から生まれるものだと思っています。実際私は、ひとつのシリーズで同じ要素を用いながら30点、40点と描くことがありますが、それは同じ作品の複製ではありません。反復のなかで、そのつど異なる運動が現れてくるのです。

 その意味で、私の絵画では、作者の意志だけで画面を支配しないことも重要です。私はキャンバスそのものもひとつの主体だと考えています。私はキャンバスを見るけれど、キャンバスもまた私を見る。触れると同時に、こちらも触れられている。見る/見られる、触れる/触れられるという相互作用が生まれる。私はこれを「双主体性」と考えています。

 画面をあらかじめ決めた意味や形式で縛るのではなく、作品との関係のなかで自分の感覚がどのように現れるのかを見る。それが、私にとって自分自身の言葉を探すということなのだと思います。

王衍成《Untitled》(2026)キャンバスに油彩 180×150 cm

──1989年にフランスへ渡って以降、長くパリを拠点に制作を続けています。西洋での暮らしや制作環境が、ご自身の芸術観に与えたもっとも大きな影響はなんでしょうか?

王 フランスで制作を続けられたことは、私にとって非常に幸運でした。偉大な先人たちがいるなかで仕事をすることには大きなプレッシャーがありますが、同時にフランスには、芸術家が自由な状態で、自分自身と誠実に向き合いながら制作を続けられる土壌がありました。

 私にとって自由とは、たんに好きなことをなんでもするという意味ではありません。自分や対象にあらかじめ概念を与え、それによって縛ってしまわないことです。

 例えば山を見るとき、私たちは必ずしも山そのものを見ているわけではありません。炭鉱で働く人なら、そこにどのような資源が眠っているのかを見るかもしれない。つまり、自然を見る前に、自分が持つ目的や概念を通して対象を見てしまう。私は、美とは本来、そうした概念によって固定される以前の、自然に現れている状態のなかにあると思っています。

 絵画も同じです。キャンバスを縛ってはいけないし、画家自身も縛ってはいけない。最初から何を描くべきか、何を意味するべきかを決めてしまえば、画面が自然に現れてくる可能性を失ってしまいます。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 56×76 cm

 そのことを強く考えるきっかけのひとつになったのが、ミケランジェロの晩年の彫刻でした。彼は大理石を自分の意志だけで支配するのではなく、石に触れ、その自然な状態と、自分がそこに見出そうとするかたちとのあいだに交換関係をつくっていたと聞きました。作者が素材を一方的に支配するのではなく、素材と対話しながらかたちを引き出していく。この考え方は、私にとってとても重要です。

 自然や素材、そして宇宙との関係も同じだと思います。自分がすべてをコントロールするのではなく、自分を解放し、相手から返ってくるものを受け取る。フランスで得た「自由」とは、そうしてより誠実な状態で世界と向き合うことなのだと思います。

東西を超えて、普遍性へ

──ザオ・ウーキーをはじめ、東洋出身の現代アーティストは、西洋中心的なアートワールドのなかで「東洋的な」表現を期待されることへの葛藤を抱えてきたように思います。王さんは、そうしたステレオタイプや東西という枠組みと、どのように向き合ってきたのでしょうか?

王 私はパリで37年間生活してきましたが、パリから受けたもっとも大きな恩恵は、自由でいられることだったと思います。自由な環境は人をより誠実にしてくれる。様々な束縛を解いたとき、その人が本来持っているオリジナリティや、もっとも自然な姿が見えてくるのです。

 ですから、私はじつは「東洋」と「西洋」をどう融合させるかということを、それほど意識してきませんでした。中国出身の作家だから東洋的な記号を見せなければならない、あるいは東洋と西洋をひとつに統合しなければならない、という考え方そのものに縛られたくない。むしろ、そうした枠を外したときに残る本当の自分とはなんなのか。それを考えてきました。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 76×56 cm

 もちろん、それは自分の文化的背景を捨てるという意味ではありません。何十年も絵を描き、色をつくり続けてきた経験は、すでに身体のなかに蓄積されています。いまでは色に触れれば、頭で考える以前に、色と自分の肉体とのあいだに反応が起こる。そこには長年培われた「身体の記憶」があります。だから、目の前の自然をもう一度そっくり描写するのではなく、自分の内部からもっとも直接的なものを現すことが重要だと思っています。

 制作では、そうした直感も大切にしています。例えば車が突然こちらへ向かってきたとき、避けるべきかと考えてから身体を動かすわけではない。身体は思考より先に反応します。絵画でも、長い時間をかけて身体に蓄積された経験が、瞬間的に現れる感覚を大切にしています。

 私にとって重要なのは、「東洋的に見えるもの」を意図して描くことではありません。自分のなかに蓄積された様々な経験を、できるだけ自由な状態から、もっとも直接的なかたちで現すこと。それが自分に対して誠実であるということだと思っています。

──王さんが絵画のなかで創造しようとしているのは、「万物の核(コア)となるイメージ」、つまり時間や空間を超えた普遍的な何かであると理解しています。多様性や歴史性が重視される現在、普遍的なものを思い描くことは難しくなっているようにも感じます。王さんは、作品を通じてどのように普遍性へとアプローチしてきたのでしょうか?

王 美術の歴史は、ある時代に成立した「古典」を解放し、突破することで新しいものを生み出してきました。そして、そこで生まれた新しい表現も、時間が経てば再び古典となり、伝統になっていく。美術史はその繰り返しだったのではないかと思います。

 私自身も、何十年も絵を描き続けるなかで、何かを加えることより、様々なものを消化し、捨て、より単純にしていくことを考えるようになりました。それは、自分の外側にあるものを少しずつ手放していく過程です。

 とくに手放さなければならないのは、既成の概念や伝統に対する執着です。何かを絶対的な基準として握りしめてしまえば、人間の想像を超えて存在する自然の力に気づくことができなくなる。そうした執着から離れることで、むしろ自分自身の本質に近づき、自然や宇宙のより大きな力ともつながることができるのではないかと考えています。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 76×56 cm

 仏教にも通じることですが、存在するものは固定されたひとつの姿にとどまらず、絶えず現れ、変化しています。それを言葉によって明確に固定しようとすればするほど、本来の存在から離れてしまうこともある。私が関心を持っているのは、肉眼で見える現象だけではなく、その背後にある生命のエネルギーと宇宙との関係です。

 いまはAIの時代でもありますが、だからこそ、目に見えない世界と人間がどのように関係するのかを考えることは、ますます重要になるのではないでしょうか。

 私にとって普遍性とは、あらかじめ存在するひとつの答えや形式を探すことではありません。外から与えられたものを捨て、自分をより単純で自由な状態にしていく。その先で、自分という個人を超えた自然や生命、宇宙の大きな力にどこまで近づくことができるのか。私は制作を通じて、そのことを問い続けています。

作品が「生き続ける」ということ

──イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、王さんの作品について論考を執筆しています。彼は、あなたの絵画が「どこか」であると同時に「別のどこか」でもあり、そこでは生成と消滅がつねに起こっていると論じています。こうした色やかたちのあいだに生まれるダイナミズムを、ご自身はどのように捉えていますか?

王 アガンベンの文章は、私自身がそれまで明確には意識していなかった作品の特徴を指摘し、これから自分がどの方向へ進んでいくのかを考えるひとつの扉を開いてくれました。彼が私の絵画について使った重要な言葉のひとつが、「事件」です。

「事件」は、ひとつのものだけで完結するものではありません。何かが起これば、その影響は周囲へと波及していく。絵画でも同じように、ひとつの視覚的な実体と、もうひとつの実体が作用しあうことで、そのあいだにひとつの「事件」が生まれます。重要なのは、それぞれの色やかたちそのものだけではなく、その「あいだ」で何が起きるのかということです。そこにはエネルギーの場が生まれ、それが画面全体へと広がっていきます。

 その意味で、「空白」や「距離」も重要です。コロナ禍で人と人が隔てられたとき、私自身、むしろ他者との交流や光、生命の感覚を強く必要としました。距離があるからこそ、相手の存在が見え、そのあいだに交流が生まれる。私が制作で考えている「衝撃」も、そうした関係とつながっています。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 76×56 cm

 だから私は、画面の色やかたちを細部まで描き込み、「これは何である」とひとつの意味に固定しようとはしません。固定されていないものと、もうひとつの固定されていないもの。そのあいだに生まれる「生気」を追求したいのです。

 中国には、万物が「無」から生まれるという考え方があります。何もないように見える空白も、何も存在しない場所ではなく、そこから新たなものが現れる可能性を持っている。私にとって絵画とは、色やかたち、そしてそのあいだの空白から、何かが絶えず生まれ続ける場なのだと思います。

──最後に、長いキャリアを経た現在、アーティストとしてどのような作品を目指していますか? ご自身にとって理想的な絵画とは、どのようなものでしょうか?

王 私にとって、芸術家の創作におけるもっとも理想的な状態とは、作品が「永生」することです。作者の手を離れたあとも作品が生き続け、見る人と関係を結び続ける。それが理想です。

 そのことを強く考えさせられたのが、マーク・ロスコの作品でした。彼の作品には、明確な内容も、物語も、特定の主題もありません。しかし、そこからは絶えずエネルギーが発せられ、見る人とのあいだで交流が続いているように感じます。作品がそのような状態に到達することこそ、芸術家にとってもっとも理想的なのではないかと思いました。

王衍成 撮影:稲葉真

 私はロスコの作品を何百点も見ましたが、その経験は非常に大きな衝撃で、帰ってから何週間も眠れないほどでした。そして、自分自身の進む道を改めて考えました。「自分は自分自身の言葉で作品をつくることができるのか」と。

 私にとって理想的な絵画は、ひとつの物語や意味に閉じられるものではありません。作品そのものがひとつの生命を持ち、私がそこにいなくても見る人に語りかける。見る人もまた、自分の経験や時間を持って作品と向き合い、そのあいだに新しい関係が生まれる。そうして作品と人とのエネルギーの交換が続いていく。その状態が、私の言う「永生」です。特定の時間や場所を超えて、作品そのものが生き続けるような絵画をつくる。それが、いまも私が追い続けている目標です。

本展にあわせ、出羽桜酒造による「CORE Beyond Time WANG YANG CHENG 限定熟成酒」(熟成酒ブレンド2種)も発売。詳細はInformationをご確認ください
※20歳未満の者の飲酒は法律で禁止されています