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2025.10.18

名もなき実昌✕梅沢和木。カオス*ラウンジ以降のキャラクター絵画についてふたりが考えたこと

ミヅマアートギャラリーで開催中の名もなき実昌 × 梅沢和木 企画展「MAD IMAGE」は、16組のアーティストが参加する企画展だ。本展を企画した名もなき実昌と梅沢和木に展覧会が目指したこと、そしてカオス*ラウンジの活動停止以降のキャラクター絵画のあり方について話を聞いた。(※本記事は10月21日よりプレミアム会員限定記事となります)

聞き手・文=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

ミヅマアートギャラリーにて、左が梅沢和木、右が名もなき実昌
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キャラクター絵画の歴史の「語れなさ」

──名もなき実昌 × 梅沢和木 企画展「MAD IMAGE」(ミヅマアートギャラリー、2025年9月12日〜10月18日)は、16組のアーティストが参加する企画展となりましたが、まずは名もなき実昌さんに、まずは本展をいちアーティストとして企画した理由を聞きたいと思います。

名もなき実昌(以下、実昌) ミヅマアートギャラリーという、90年代以降の日本の現代美術において重要な役割を果たしたギャラリーで、通常であればこの会場に展示されることがないであろうキャラクターを扱うアーティストをできるだけ集めた展覧会を開催したいと考えました。

  かつてキャラクター・アートの理論的支柱であろうとしたカオス*ラウンジが、代表の黒瀬陽平氏が行っていたハラスメントの告発に関わる一連の訴訟により2020年に実質的に活動を停止して以降、キャラクターと絵画という問題における語りは閉じられたものになってしまったと感じています。

 その後も沓名美和氏がキュレーションした「二次元派展」(代官山ヒルサイドフォーラム/N&A Art SITE、2023)や、梅津庸一氏率いるパープルームギャラリーの「キャラクター絵画について」(パープルームギャラリー、2023)といった企画展はありましたし、シンガポールのミヅマアートギャラリーでもたかくらかずき氏などが参加した「ART BIT MATRIX -TOKSATSU to VIDEOGAME-」(MIZUMA ART GALLERY[シンガポール]、2025)が開催されています。しかし、いずれも文脈に沿った検証はされておらず、散逸的な試みであるという印象は否めません。

「二次元派展」(代官山ヒルサイドフォーラム/N&A Art SITE、2023)展示風景より、左が山口真人の作品
「キャラクター絵画について」(パープルームギャラリー、2023)展示風景より、門眞妙の作品

 加えて、多くのコマーシャルギャラリーでは様々なキャラクター絵画の展示が行われてきました。こちらもマーケットベースなので文脈化されておらず、ある種の消費物が販売され続けているといえます。

 こうした状況を打破するためにも、キャラクター絵画についての開かれた語りをつくる必要性がある、という危機感は以前から持っていました。私自身は、キャラクター的な造形と、それにまつわる言語だけの話をするという時代はそろそろ終わると思っています。しかし、もっとも基礎の部分にあるキャラクター絵画というジャンルが現在のかたちになった過程については語るべきことがまだ多く、それはリバース・エンジニアリングのようなかたちでこれからの創作の筋道にもなると思うので、多少の無理は承知で整理したいと考えました。今回の展覧会は、そのための足場固めという位置づけて企画しています。

「MAD IMAGE」展示風景 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

──キャラクターをモチーフとしたアートの歴史を体系的に語る難しさは大いにあると思いますが、実昌さんの歴史観を、簡単でいいので教えてもらえますか。

実昌   大まかなグルーピングを、例え暴力的だったとしてもつくった方がいいんじゃないかと思っています。本当に雑な部分もありますが、私は次のように整理しています。

 村上隆氏や中原浩大氏を代表とする90年代のキャラクター的な絵画は、ネオポップ、つまりある種のシミュレーショニズム的な文脈にあったと思います。異質なものを持ち込むことによって、制度を揺るがすということが目的でした。そのあとの00年代、Mr.氏以降の世代は、より個人史的なものと混ざっていった。Mr.氏の絵の方が村上氏の作品よりも本人のオタク文化への拘泥という個人史が踏まえられていて、ひとことで言えば「オタク度」が高いように感じる。次第に、どのような対象から引用するのか、といったリテラシーが試されるようになっていきました。それはある種の個人の欲望みたいなものに下支えされており、マイクロポップ的なものとも合流していったのではないでしょうか。総じて00年代のキャラクター絵画は「個人のなかに社会性をどう立ち上げるか」ということの実践として行われていたと考えられます。

 10年代に入ると、梅沢さんが代表的な作家だと思いますが、キャラクターを記号の集合としてとらえ、それを記号論的に分解し、そして再構築していく作品が出てきた。これはSNSやニコニコ動画といったウェブ上のプラットフォームの影響もあるし、ここでは東浩紀『動物化するポストモダン』(2001、講談社)における、オタクのデータベース消費の理論なども援用されていました。

「MAD IMAGE」展示風景より 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

 2020年代に入ると、大きく2つの潮流が生まれていったと思います。ひとつはKYNE氏に代表されるようなファッションやストリート・カルチャーとつながりの深い表現。ここでのキャラクターは、感情や個人史を仮託するものというより、漠然とした記号的存在であることが重視されました。もうひとつは息継ぎ氏のような、キャラクターを中心に据えて、その存在そのものを捉え直していこうという方向性。両者は対照的なようですが、後者はむしろ記号的な存在を突き詰めた結果、記号であるはずのキャラクターの実存を問う、という方向に向かったようにも思えます。キャラクターが立っている世界と、それを見る個人との関係性が、図像1枚の中で完結して描かれており、そこに叙情性を見出すといった傾向が、近年のキャラクター絵画では目立ちます。これはキャラクター消費の欲望が、記号的な消費から関係性的な消費に移行したことの影響も大きいはずで、それが絵画のトレンドにも関連しているのではないでしょうか。

 以上が私のすごく雑な、キャラクター絵画の歴史観です。もちろん、これは多くの人がなんとなく認識していることの域を出ないことですし、当たり前のことといえば当たり前のことです。本当はこういった歴史化や理論的下支えはキュレーターにやってほしいと思うのですが、あまり語られないことなので、一旦補助線として引いてみました。

名もなき実昌 × 梅沢和木 企画展「MAD IMAGE」(ミヅマアートギャラリー、2025年9月12日〜10月18日)展示風景

──本展には多くの作家が参加していますが、会場の展示構成もいまお話いただいた歴史観を踏まえたものということですよね。

 作家同士の関連性を意識して作品を並べました。私と梅沢さんが並んでいるのは、明確に絵画的、画像的、そしてカオス*ラウンジで活動していたという共通項があるからです。その横に並んでいるGILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE氏の作品と見比べると、それぞれのイメージの出力の違いを感じられると思います。GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE氏の活動は個人史的な物語とプロジェクトを結びつけるという意味では、風景とともにキャラクターを個人的な感情を仮託するその隣の息継ぎ氏の作品と同時代的な親和性が非常に高いです。

「MAD IMAGE」展示風景より、左上が名もなき実昌、右隣と右下が梅沢和木の作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery
「MAD IMAGE」展示風景より、GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAEの作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

 息継ぎ氏の横には、感情を可能な限り廃しながらキャラクターを見るという脳極結仁氏の作品があり、その横には一次創作として作品をつくる先行世代の福地英臣氏の作品が並んでいる。ここには世代は違えど、シミュレーショニズム的な文脈を見て取ることができます。このように、本展の作品の並びにはすべて意味があるように設計しています。

「MAD IMAGE」展示風景より、右上が息継ぎの作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery
「MAD IMAGE」展示風景より、左壁面が息継ぎ、右壁面が脳極結仁の作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery
「MAD IMAGE」展示風景より、左が福地英臣の作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

カオス*ラウンジとは何だったのか

──今回の展覧会をキュレーションするにあたり、実昌さんはそのパートナーとして梅沢和木さんに声をかけています。これは梅沢氏がかつてカオス*ラウンジの主要メンバーであったことも関連していると考えて良いのでしょうか。

実昌 そうですね。僕が今回梅沢さんに期待していたことのひとつに、ある種の責任を取ってほしい、という思いがありました。梅沢さんも、そして私も関わっていたカオス*ラウンジという組織が問題を起こして、美術業界においてはある種のインパクトを与えたわけですよね。その余波はいまだに大きいです。かつてカオス*ラウンジが担ってきたものというのは、キャラクター絵画のある種の理論的支柱でした。カオス*ラウンジが問題を起こしたことによって、この支柱が使えなくなる、参照すること自体がある種の暴力になってしまうという認識が広まってしまったわけです。この状況について、本来であれば、現場に近かった我々が、何かしらのアクションをすべきではないでしょうか。

 しかし、すでに梅沢さんも私も若手作家とは言えない年齢になっています。私はミヅマアートギャラリーに所属しているし、梅沢さんも様々な美術館に作品が収蔵されている。つまり、ある種の「権威」になってきています。そういった権威を持ったうえで、僕たちが個人の作家として活動を続けていることも、歴史を語りづらくしていることを加速させているという反省がありました。カオス*ラウンジの言説を、いつか誰かが歴史的に掘り起こして批評してくれるだろう、という楽観的な見通しを期待してはいけないという危機感が生まれています。

 こうした状況に対するリアリティは、僕と梅沢さんとでもまた違うはずです。僕は総合大学のなかにある美術学科出身で、東京ではなく福岡で活動している。いっぽうの梅沢さんはお父さんが版画家、お母さんも美大出身で、そして自身は武蔵野美術大学で学んでいる。家庭環境からして美術の素養があるし、在学中から多くの批評家と出会っているので、理論を構築することにも慣れていますよね。それは悪いことではないし、言ってみればスター作家なんだからそれでいい。

 でも、自分が追随してきたもの、ライドしてきたものが問題を起こしたときには、ある種の道義的な責任が発生すると思います。それを問われたとき「そこからは離れて、いち作家、いち個人としてやっていきます」という態度は、私としてはちょっと素朴すぎるし不誠実に見える。それを言葉にする力も、影響力もある作家だと思うからこそ、その責任を問うべきだと思っています。非常に語りづらい問題であるというのは十分にわかっていますが、私達は改めて考えなければいけないんじゃないか、というのが本展を通して私と梅沢さんが考えてきたことだと思います。

──いまも「キャラクター絵画=カオス*ラウンジ」というイメージは、ある一定の年代より上の層にとっては根強く残っていると思います。本展がカオス*ラウンジの延長にある、といったとらえ方をされてしまう可能性も高いのではないでしょうか。

実昌 今回の展示は、一見すると、キャラクター的な表象が集まっているし、カオス*ラウンジ的なものが生き延びていると思われるかもしれないですが、実質としてはカオス*ラウンジ的ではない作家が大半を占めていると私は考えています。カオス*ラウンジを継承するのではなく、複数の線をつくっていくしかないという思いは私も梅沢さんも同じです。もちろん、展覧会に鑑賞者を呼ぶということ自体がある種の暴力性を持つし、またある種の権威である我々が、学生作家を招聘するということ自体も、ある意味では暴力性があります。それを踏まえたうえで、参加作家全員が、そして来場者全員が何かポジティブなものを持ち帰れるように努力をしないといけない。

 この展覧会に対して批判があるのであれば、我々は応答していかなければと思います。今回の展示で終わろうとも私は思っていませんし、もっと拡張したり、新たな視点を入れたりといった方向に動こうと考えています。

──ここからは梅沢さんにも参加していただきたいのですが、そもそもの前提としてカオス*ラウンジはどのようなコミュニティだったのか、おふたりはどのように考えていますか。

実昌 カオス*ラウンジというのは「キャラクター」がつながりのツールになっていたコミュニティだと思っています。僕の好きな九州派が「アスファルト」という素材をグループ内の共通言語として共有していましたが、カオス*ラウンジにおける「キャラクター」も同様の位相にあったのではないでしょうか。

梅沢 初期はインターネットで起きているおもしろいことや、ヤバいことに対して非常に敏感に反応していたコミュニティだったと思います。当時はニコニコ動画やPixivで起きていたn次創作的な盛り上がりがとにかくすごくて、「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」(高橋コレクション 日比谷、2010)や「破滅*ラウンジ」(NAZUKA agenda、2010)などの展示はとくにそういったコミュニティの熱量がそのままは反映されていたし、自分はそこで中心的なアーティストとしての役割を担っていました。アートの世界で起きていることがおもしろくないから、そうじゃないおもしろいものをぶつけてやるというような勢いというか。キャラクターをフックに誰かが誰かの影響を受けて、あるいはお互いの作品を素材にしてまた新しい作品をつくる、といったことがカオス*ラウンジのなかでは起きていたんですよね。私はそういう相互作用がおもしろいと思っていました。

実昌 ただ、やはりそういうコミュニティを持続させること自体がもう難しいですよね。2010年代のコレクティヴの勃興と衰退を考えれば、結局は個人戦としてマーケットのなかに入っていくというやり方が一番リスクがないということになってしまった。その結果、実際にそれが一番作品が売れる方法になったのが今日の状況だと思います。

なぜキャラクターを「絵画」にするのか

──本展の出展作品には絵画作品が多いです。キャラクター・アートにおいて、古典的な絵画が非常に強い存在感を持っているということなのでしょうが、そもそもおふたりにとって絵画はどのような存在なのか、アーティストとしての立場から教えていただけますか。

実昌 絵を描くことはずっと好きで、マンガやアニメのキャラクターなどを描いたりしていましたが、博物館の学芸員になりたかったのもあり、それが直接作品に結びつくことはありませんでした。転機となったのは福岡県立美術館で見た菊畑茂久馬の回顧展です。そこで「天動説」シリーズをはじめ、眼前に迫ってくるような絵画の物質感に圧倒されたんです。それをきっかけに前衛芸術がおもしろい、美術をやってみたいと思うようになり、ギャラリーに足を運んだり、九州派を中心に住所まで調べて実際に自転車で会いに行ったりしていました。そのうち、学芸員さんを紹介してもらったり、実際に菊畑氏に会えたりと、密なコミュニケーションができるようになっていったんです。これは福岡というローカルな場所のアートコミュニティだからこそ可能だったことかもしれません。

梅沢 私は絵画ではなく映像を学んでいたので、表現の手段としていつも距離を感じるメディアでした。ただ、インターネットで集めた画像をコラージュで再構築し、それを現実世界にインストールするときには、自分にとってちょうどいいという感覚があります。好きな表現で言うとマンガやゲームのほうが自分的には上位に挙がるのですが、日常の延長線上で画像と対峙し続ける創作をやって行きやすいものは、絵画であり続けています。

実昌 本当は絵画というメディアが梅沢さんの表現方法として最適かどうかは、検討の余地がありますよね。ディスプレイでもいいかもしれないし、手描きの筆致もいらないかもしれない。

梅沢 2013年に長谷川新氏がキュレーションしたグループ展「北加賀屋クロッシング MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-」(コーポ北加賀屋、2013)に出展したときは、画像が表示されたディスプレイ上に直接加筆したような作品を出しました。ディスプレイのようなメディアを使った作品でも、そこに加筆したいという欲望はありますね。

 絵画へのこだわりの話をすると、昔から細密画のようなものは好きで描いていたんです。ただ、あるとき「ART FAIR TOKYO」のミヅマアートギャラリーのブースで池田学氏の細密画を見て素朴に感動してしまい、同時に、もしかしたら自分は細密画をやる必要がないのかもしれないな、とも思いました。これは、ある種の細密画に対する挫折なんですが、自分の場合、マンガ、ゲーム、写真、映像と色々なものに挑戦しては挫折するというのを繰り返していて、その挫折のバリエーションのひとつですが、その意味では池田さんの作品を早いうちに見られて良かったと思っています。ただ、長い時間をかけて細密画を制作するというクラシックな力の説得力はすごいものがあるし、私の父はどちらかというとそういった種類の作品をつくっていました。いまの自分の作品だって細密画とは違うけどかなり細かい作業を偏執的にする傾向はあるし、かつて自分が憧れていたような細密画的な作品の可能性を再考してみてもいいのかなと最近考えています。

実昌 梅沢さんがそういったことを改めて考えることには意味がありますよね。確固たるキュレーションがあったカオス*ラウンジ時代とは違い、ある意味では新人っぽく模索している。僕も後輩ながらそこに発破をかけているわけですが。

──今回の展覧会では、10年近く前の実昌さんの作品と新作が同時に展示されています。旧作はキャラクター的な記号が全面に押し出されていますが、最新作では地元福岡の伝統工芸や文化を意図的にモチーフとして使用しています。また、梅沢さんは近年、父である梅沢和雄氏の版画をコラージュの素材として使用していますよね。いずれも、おふたりの絵画が個人的な物語に寄ってきたようにも感じるのですが、それはどういった変化なのでしょうか。

実昌 これまでのやり方だと創作の深遠に近づいている実感がなく、表象のサンプリングでしかないかな、という行き詰まり感があったのは事実です。大切なのは、自分が感覚として選んだモチーフが、何を指し示していて、何に向かっているのかを考えること、あるいはそこに勘違いや拡大解釈が生まれて飛躍する、そういった可能性を考えるようになりました。絵画がいまできるのは、明確な思想性を打ち出す事というより、思考のためのツールのレシピを指し示すということではないでしょうか。その意味で、記号的ではない、卑近だったり個人的に見えるものがモチーフにする方向に向かっているのかもしれません。

梅沢 父の銅版画作品をサンプリングすることに関しては、パープルームギャラリーの梅津氏に版画をすすめられ、そこから作品に取り込むようになりました。きっかけは「梅津庸一|エキシビション メーカー」(ワタリウム美術館、2024)に急遽誘われたことで、父の昔の銅版画と​、父の先生にあたる駒井哲郎、中林忠良の銅版画を作品の中にとりこんだコラージュ作品をつくって欲しいと具体的なディレクションがありました。かなり難しかったのですが、いままでと異なる作品をつくることができたと思います。日本の美術史において、ある種忘れられているような銅版画の巨匠と、自分の父が深くつながっていることは、正直、梅津さんに言われなければ知らなかったです。展示の意図としてそういったつながりを提示する部分があったと思うのですが、私はどちらかというと父から受け継いでいる細かい描写への執着のような感覚が画像上でどのように展開されているのかについて改めて考えるようになりました。

「梅津庸一|エキシビション メーカー」(ワタリウム美術館、2024)展示風景より、左から梅沢和木の作品と梅沢和雄の作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

実昌 梅沢さんはどちらかというと図像の持つ意味性よりも、それを生み出す身体感覚に興味がある作家なのではないかと思います。梅沢さんの原点のひとつでもある、音ゲーの持つ身体性みたいなものでしょうか。カオス*ラウンジでやっていたときは、絵画史のなかに作品を位置づけようとしていたけれど、いまはそこから自由になって、純粋な身体性が現れている気はしますよね。

梅沢 それはうれしいですね。でもそれを続けるだけではマンネリになり、素朴さゆえに伝わりづらくなっていく気がしますので、課題ですね。

これからもキャラクターとともに

──おふたりはアーティストとしてキャラクターと向き合い作品をつくってきたと思うのですが、同時に実生活においては、こうしたキャラクター、あるいはマンガ、アニメ、マンガ、ゲームといった作品に対する熱量というのは、いまも高いのでしょうか。

実昌 僕の最初の趣味は切手収集でしたし、オタク的なメンタリティは幼い頃からあったと思います。中学、高校とアニメやゲームは好きでしたし、俺は人をこんなに感動させるような作品をつくりたい、だから何かをつくる人なんなきゃダメだという考え方が原点にありました。だから現代美術への興味と同じように、大学時代などはオタク的な文化への熱量も高かったです。いまは当時より落ち着いたとは思いますが、それでも毎クールのアニメはチェックしていますし、普通にオタク的な興味関心は変わっていないと思います。

梅沢 私は実昌氏よりも強く、オタクをやってるんだという自認がある気がします。アニメ、マンガ、ゲーム、とくに音ゲーは、こんな素晴らしいものがこの世界にあるのかという珠玉の体験でした。究極的には、美術でそういったものと出会うことはできなかった気がします。例えば今回も、私が強い影響を受けたトラックメイカーのimoutoid(1991〜2009)氏の楽曲と、私の作品の要素をMADとして再構成する作品を『魔法少女まどか☆マギカ』の美術や魔女空間の設計をやっている劇団イヌカレー・泥犬氏にお願いしました。

「MAD IMAGE」展示風景より、imoutoid+泥犬の作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

実昌 今回、私が梅沢さんにお願いしたのは、自分の作品を素材にして、ほかのアーティストによる作品をつくってほしいということでした。それが今回、泥犬氏とimoutoid氏の合作というかたちで結実したんです。梅沢さんは様々なインターネットのイメージをコラージュして作品を制作してきたわけですが、今回は梅沢さんが自身の作品の要素を人に委ねることで、個人的なものよりも、もう少し俯瞰的な視点を持てたのではないでしょうか。

梅沢 どうしてもアーティストとして仕事をすると、個人的な思想が中心ににはなってしまうんですよね。今回の作品では、imoutoidさんの遺族の方のご厚意によって作品は実現しましたし、喜んでいただけたのでそこは本当に感謝しているのですが、自分としては人に任せてアンコントローラブルなものに委ねるというのはちょっと怖いわけですよね。そういった負荷をかけたことで、アーティストとしての個人的なものへの拘泥という憑き物が、少し落ちた気もしています。

実昌 ただ、キャラクター論が全盛だった昔と違って、いまはメタバースやVtuberの台頭など、キャラクターの概念も大きく変化しています。こうした状況を念頭に置くと、現代の社会構造は、もはやひとつの人格で情報を処理できる段階にはないと思います。社会から与えられている役割が多岐にわたっているのに、それを全部お前がやれ、となったとき、人はひとつの人格ではなかなか耐えられないのではないでしょうか。

梅沢 今回の展覧会ではOIRA氏のキメラ的な作品がそれをよく表していると思います。脳極結仁さんの作品も単純なキャラクター消費ではなく、キャラクターの人権がそもそもないという前提に踏み込んだようなコンセプトになっている。今回の展覧会では様々な世代のキャラクターに対する距離感だったり、複数の人格を使い分ける前提のような社会状況に対応した作品が見られるものになっていると思います。私もちょっと前に月ノ美兎というVTuberにハマりにハマってしまいおかしくなりそうだったので、VTuberにハマっている自分の人格を切り離して、その別人格の自分がまた配信を始めるという小説を書いて、狂うのを防いだ経験がありましたが……。

「MAD IMAGE」展示風景より、左2枚が息継ぎ、右壁面の立体がOIRAの作品 撮影=宮島径 Courtesy of Mizuma Art Gallery

実昌 そういった話を始めると、どこまでも盛り上がってしまうので、そろそろ終わりにしましょうか。ありがとうございました。