名もなき実昌✕梅沢和木。カオス*ラウンジ以降のキャラクター絵画についてふたりが考えたこと
ミヅマアートギャラリーで開催中の名もなき実昌 × 梅沢和木 企画展「MAD IMAGE」は、16組のアーティストが参加する企画展だ。本展を企画した名もなき実昌と梅沢和木に展覧会が目指したこと、そしてカオス*ラウンジの活動停止以降のキャラクター絵画のあり方について話を聞いた。(※本記事は10月21日よりプレミアム会員限定記事となります)

キャラクター絵画の歴史の「語れなさ」
──名もなき実昌 × 梅沢和木 企画展「MAD IMAGE」(ミヅマアートギャラリー、2025年9月12日〜10月18日)は、16組のアーティストが参加する企画展となりましたが、まずは名もなき実昌さんに、まずは本展をいちアーティストとして企画した理由を聞きたいと思います。
名もなき実昌(以下、実昌) ミヅマアートギャラリーという、90年代以降の日本の現代美術において重要な役割を果たしたギャラリーで、通常であればこの会場に展示されることがないであろうキャラクターを扱うアーティストをできるだけ集めた展覧会を開催したいと考えました。
かつてキャラクター・アートの理論的支柱であろうとしたカオス*ラウンジが、代表の黒瀬陽平氏が行っていたハラスメントの告発に関わる一連の訴訟により2020年に実質的に活動を停止して以降、キャラクターと絵画という問題における語りは閉じられたものになってしまったと感じています。
その後も沓名美和氏がキュレーションした「二次元派展」(代官山ヒルサイドフォーラム/N&A Art SITE、2023)や、梅津庸一氏率いるパープルームギャラリーの「キャラクター絵画について」(パープルームギャラリー、2023)といった企画展はありましたし、シンガポールのミヅマアートギャラリーでもたかくらかずき氏などが参加した「ART BIT MATRIX -TOKSATSU to VIDEOGAME-」(MIZUMA ART GALLERY[シンガポール]、2025)が開催されています。しかし、いずれも文脈に沿った検証はされておらず、散逸的な試みであるという印象は否めません。


加えて、多くのコマーシャルギャラリーでは様々なキャラクター絵画の展示が行われてきました。こちらもマーケットベースなので文脈化されておらず、ある種の消費物が販売され続けているといえます。
こうした状況を打破するためにも、キャラクター絵画についての開かれた語りをつくる必要性がある、という危機感は以前から持っていました。私自身は、キャラクター的な造形と、それにまつわる言語だけの話をするという時代はそろそろ終わると思っています。しかし、もっとも基礎の部分にあるキャラクター絵画というジャンルが現在のかたちになった過程については語るべきことがまだ多く、それはリバース・エンジニアリングのようなかたちでこれからの創作の筋道にもなると思うので、多少の無理は承知で整理したいと考えました。今回の展覧会は、そのための足場固めという位置づけて企画しています。

──キャラクターをモチーフとしたアートの歴史を体系的に語る難しさは大いにあると思いますが、実昌さんの歴史観を、簡単でいいので教えてもらえますか。
実昌 大まかなグルーピングを、例え暴力的だったとしてもつくった方がいいんじゃないかと思っています。本当に雑な部分もありますが、私は次のように整理しています。
村上隆氏や中原浩大氏を代表とする90年代のキャラクター的な絵画は、ネオポップ、つまりある種のシミュレーショニズム的な文脈にあったと思います。異質なものを持ち込むことによって、制度を揺るがすということが目的でした。そのあとの00年代、Mr.氏以降の世代は、より個人史的なものと混ざっていった。Mr.氏の絵の方が村上氏の作品よりも本人のオタク文化への拘泥という個人史が踏まえられていて、ひとことで言えば「オタク度」が高いように感じる。次第に、どのような対象から引用するのか、といったリテラシーが試されるようになっていきました。それはある種の個人の欲望みたいなものに下支えされており、マイクロポップ的なものとも合流していったのではないでしょうか。総じて00年代のキャラクター絵画は「個人のなかに社会性をどう立ち上げるか」ということの実践として行われていたと考えられます。
10年代に入ると、梅沢さんが代表的な作家だと思いますが、キャラクターを記号の集合としてとらえ、それを記号論的に分解し、そして再構築していく作品が出てきた。これはSNSやニコニコ動画といったウェブ上のプラットフォームの影響もあるし、ここでは東浩紀『動物化するポストモダン』(2001、講談社)における、オタクのデータベース消費の理論なども援用されていました。

2020年代に入ると、大きく2つの潮流が生まれていったと思います。ひとつはKYNE氏に代表されるようなファッションやストリート・カルチャーとつながりの深い表現。ここでのキャラクターは、感情や個人史を仮託するものというより、漠然とした記号的存在であることが重視されました。もうひとつは息継ぎ氏のような、キャラクターを中心に据えて、その存在そのものを捉え直していこうという方向性。両者は対照的なようですが、後者はむしろ記号的な存在を突き詰めた結果、記号であるはずのキャラクターの実存を問う、という方向に向かったようにも思えます。キャラクターが立っている世界と、それを見る個人との関係性が、図像1枚の中で完結して描かれており、そこに叙情性を見出すといった傾向が、近年のキャラクター絵画では目立ちます。これはキャラクター消費の欲望が、記号的な消費から関係性的な消費に移行したことの影響も大きいはずで、それが絵画のトレンドにも関連しているのではないでしょうか。
以上が私のすごく雑な、キャラクター絵画の歴史観です。もちろん、これは多くの人がなんとなく認識していることの域を出ないことですし、当たり前のことといえば当たり前のことです。本当はこういった歴史化や理論的下支えはキュレーターにやってほしいと思うのですが、あまり語られないことなので、一旦補助線として引いてみました。

──本展には多くの作家が参加していますが、会場の展示構成もいまお話いただいた歴史観を踏まえたものということですよね。
作家同士の関連性を意識して作品を並べました。私と梅沢さんが並んでいるのは、明確に絵画的、画像的、そしてカオス*ラウンジで活動していたという共通項があるからです。その横に並んでいるGILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE氏の作品と見比べると、それぞれのイメージの出力の違いを感じられると思います。GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE氏の活動は個人史的な物語とプロジェクトを結びつけるという意味では、風景とともにキャラクターを個人的な感情を仮託するその隣の息継ぎ氏の作品と同時代的な親和性が非常に高いです。


息継ぎ氏の横には、感情を可能な限り廃しながらキャラクターを見るという脳極結仁氏の作品があり、その横には一次創作として作品をつくる先行世代の福地英臣氏の作品が並んでいる。ここには世代は違えど、シミュレーショニズム的な文脈を見て取ることができます。このように、本展の作品の並びにはすべて意味があるように設計しています。


