• HOME
  • MAGAZINE
  • NEWS
  • REPORT
  • 「阿波根昌鴻 人間の住んでいる島」(東京工芸大学 写大ギャ…
2024.12.30

「阿波根昌鴻 人間の住んでいる島」(東京工芸大学 写大ギャラリー)レポート。カメラとペンで抵抗した沖縄・伊江島の土地闘争

沖縄・伊江島で米軍に対する非暴力の土地闘争を牽引した阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう、1901〜2002)の写真展「阿波根昌鴻 人間の住んでいる島」が、東京工芸大学 写大ギャラリーで2025年1月31日まで開催されている。企画構成は小原真史(東京工芸大学准教授)。11月20日に実施された比嘉豊光(写真家)、港千尋(写真家・多摩美術大学教授)、小原真史によるトークイベント「阿波根昌鴻の記録と抵抗」からの言葉も交えて同展をレポートする。

取材・文=白坂由里(アートライター) 写真提供=写大ギャラリー

演習に使われた爆弾 1955
前へ
次へ

戦後、「銃剣とブルドーザー」に立ち向かう

 沖縄本島の北西沖に位置する伊江島。阿波根昌鴻は沖縄本島の上本部村(現・本部村)で1901年に生まれ、22歳で伊江島に渡り結婚する。息子が誕生後、農業移民として25年にキューバ、29年にペルーに渡り、34年に帰国。川平地区で雑貨店経営の傍ら、農民学校の開校をめざして真謝(まじゃ)区に大きな土地を購入していた。

 第二次世界大戦末期の1945年春、沖縄に米軍が上陸。激しい地上戦の末、沖縄が軍事占領される。米軍は軍事基地の拡大を目指し、53年、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制的な土地接収を開始した。55年には伊江島に約300名の武装兵が上陸。立ち退きを聞き入れなかった13戸の家屋がブルドーザーで破壊され、農地が焼き払われ、81戸の農家の耕作地が米軍の射爆用地として囲い込まれるという事態となった。

阿波根昌鴻家跡 1955

 さらに米軍が琉球政府に対して、事実と異なる報告をしていることに気づいた阿波根はカメラを那覇で購入し、米軍の暴力や軍事演習による被害などを記録し始めた。その理由を小原は「当時、カメラを持っているのは米軍だけ。離島にジャーナリストは来てくれない、となれば自分で記録するしかない。あったことがなかったことにならないように、非暴力でどう立ち向かうか考えた結果、抵抗のツールとしてカメラを持った」と説明する。住民たちは幕舎(テント)生活を強いられ、餓死者も出た。追いつめられた真謝区の人々は、「乞食行進」と称して本島を歩き、カンパを募りながら自分たちの窮状を訴えた。この活動は次第に全国的に知られ、本島での島ぐるみ土地闘争の導火線となる。

幕舎生活での健康調査 1955
乞食行進・平和通り 1955

 同展のタイトルは、この1955〜66年の沖縄・伊江島土地闘争を記録した写真集『人間の住んでいる島』から付けられた。82年、県外から沖縄に通い続けていた写真家・張ヶ谷弘司らが、阿波根の写真をプリントして写真集を編集、阿波根が著作発行した。今回、東京工芸大学では、張ヶ谷が保存していたプリントを収蔵すると同時に、残されたモノクロネガフィルム3200枚をデジタル化し、新たに銀塩プリントを制作。残されたフィルムには『人間の住んでいる島』には掲載されていない、住民や日常のスナップが数多く含まれている。会場では、こうした人々の穏やかなスナップと闘争の写真が向かいあうように展示されている。

「阿波根昌鴻 人間の住んでいる島」(写大ギャラリー)展示風景より

 なお、今年の2月23日〜5月6日には、原爆の図 丸木美術館で、同じく小原がキュレーターを務めた「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」が開催。この時もトークイベントが開かれ、写真家の比嘉豊光や小原のほかに、伊江島から玉城睦子(伊江村立西小学校元教頭)が参加した。比嘉は、阿波根昌鴻展を伊江島と本島で開催した実行委員会の中心メンバーである。この展覧会は、今年の11月5日〜12月21日、立命館大学国際平和ミュージアムの1階にある中野記念ホールにも巡回した。各地でバトンがつながってきている。

言葉とイメージが共存する、プロジェクトともいうべき写真

 11月20日に実施されたトークイベント「阿波根昌鴻の記録と抵抗」の始まりに、写真家で多摩美術大学教授の港千尋は90年代の沖縄で最初に購入した一冊として『人間の住んでいる島』を紹介。同展で阿波根写真と出会い直すこととなった。「写真は、撮影されてプリントされて出版されて完結するものではなく、つねに見る人がいるかぎり、姿を変えつつ、新たな姿を現すもの。阿波根さんの写真は力強く生きている」と港。

写大ギャラリーでのトーク風景より、左から港千尋、比嘉豊光、小原真史

 阿波根昌鴻とはどんな人物だったのだろう。よく見ると複数の写真に阿波根の姿が写っている。じつは撮影者は阿波根だけではなく、土地闘争の同志たちも代わる代わる撮っていたのだ。阿波根は写真家と名乗ったことはない。「いまで言えば阿波根さんのプロジェクトであり、複数のアーティストで活動するコレクティブのような、集合的な主体としての阿波根写真」だと小原は考えている。

陳情小屋前の阿波根昌鴻 1955

 阿波根は、アメリカの『LIFE』誌を参考に、言葉と写真でどう伝えるか勉強したという。『人間の住んでいる島』は、写真だけでなく、地図や日誌・年表で構成されている。港は、「阿波根さんはまず言葉の人だったのではないかな。判型が大きめなのは、写真のなかにある多くの看板や陳情などの言葉を読めるようにするためではないか。食べ物も口に入れられない状況で、生死をかけて書いた言葉。一字一句に重みがあり、声に出して読むような文字が刻まれている写真だと思う」と、言葉とイメージの共存について指摘した。

 小原も「『LIFE』は写真と言葉の組みあわせをデザインして見せているけれど、阿波根さんはその言葉を写真のなかに入れてしまった。つまり写真1枚ですべてを語ろうという『LIFE』の変奏版みたい」だと語る。

演習地・十字架の看板を立てて訴える若者 1955

 また、港が購入した『人間が住んでいる島』は函に入っており、函には琉歌が英語と両方で印刷されていたという。「阿波根の著作である岩波新書の『米軍と農民』にも歌がよく出てくるんですが、行進や陳情でも歌をつくって歌って歩いたと書かれている。写真をつくることと歌をつくることは別々のことではなかった気がする。言葉とイメージの共同作業のようなことがやはりあったのでは」と港。

 小原も「乞食行進では体と言葉で、いわば自分たちをメディアにして島じゅうを歩いた。写真、看板、言葉、歌、座り込みなど、暴力以外のあらゆる方法で戦う。ありとあらゆるできることをやって、それが一丸となっていた頃の写真だ」と言う。

 しかし比嘉は「阿波根さんの意図を、村人たちはそこまで知らないと思う」と異を唱えた。沖縄本島にも当時はカメラがほとんどなく記録がない。その意味でこれらの伊江島の記録を「沖縄写真の原点」としながらも、「十字架のこの写真はセット(アップ)されている。農作業の鍬、人々のスナップにある動物も演出されている」と見る。

 それに対して小原は別の見方をする。「沖縄はつねに撮られる側にいて、政治的・経済的・軍事的に強い側がずっと表象してきた。そのカウンターとして、自分たちの映り方やどう発信するかを自分たちが主体となって決める、それが、比嘉さんが指摘した“演出”ということではないか」。

展示風景より

“阿波根さん”が守りたかったもの

 小原は、キリスト教信者だった阿波根の運動を「伝道」になぞらえ、「乞食行進は、十字架を背負って丘を歩く“受難”のイメージと重なる。パッションではなくコンパッション、共苦を分かちあうコミュニティの姿」だと語った。「“プロ”とは、前方へ、未来へ、を意味する言葉ですが、阿波根さんにとっては前に出て抗議するプロテストでもあり、前に出て住民たちを守ったプロテクトでもあったと思う。カメラがあれば米軍の行動の抑止にもなると考えたのではないか」。

 「前へ」という言葉からイメージをふくらませた港は、「前線から前に投げる相手のなかには米軍がいる。十字架を使ったスローガンが多いのは、神の国であるアメリカ人に向けた、教会の向こう側に投げるものだったかもしれない」と付け加えた。

 阿波根が守りたかったものはなんだろうか。小原は「闘争のなかに生活があり、日常のなかに戦場があり、飢餓がある。穏やかな日常がつねに危機と隣りあわせにあるなかで、阿波根さんは愛する者、共苦をともにするような共同体を守りたかったのではないか」と声に力を込めた。実際、阿波根自身も一人息子を沖縄戦で失くしている。「当たり前の日常がどれほど大切か、芯から感じていたのだと思います」。

展示風景より

 これまで沖縄で阿波根写真の展覧会を行ってきた比嘉は、来場者の反応を話した。「自分や知っている人が写っている写真を見ると気持ちが出て、写真と会話ができるんですよ。これはあの人のおじさんだとかお子さんだとか、懐かしさも湧いてくる。植民地化された場所では必ず分断が起き、沖縄ではいまも(基地に対する)意見が分かれています。しかし、この写真には分断という発想はない。この写真群を『島の宝だ』と言う人々もいます。それが写真の力であり、我々はこの分断をなくすために写真展を行っているのです。これからは、写真に写った島の人々が、これらの写真とどう関わっていくかが大事」だと語った。

子供たち 1955
青空保育園・真謝の子供たち 1955

 なお、3200枚で阿波根が1枚も笑っていないことに気づいた小原は「いつも怒りの表情で写っている。未来の人に向けて、自分がどう写るかよく考えていたと思う」と話す。筆者は、今年ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会の代表だった故・坪井直氏が怒りの表情を時折見せて核兵器廃絶を世界に訴えようとしていたことを思い出した。

 では改めて、阿波根が写真集のタイトルに付けた『人間が住んでいる島』とはどんな意味だろうか。阿波根さんはどういう人たちを“人間”だと思うのか。「それは、植物や動物や人間の共同体であり、(この写真に写っているような)ともに協力し、助けあいながら生きていく人たちのことを“人間”と指しているのではないかと思います」と小原。

 港も「写真に写る阿波根さんの視線は真っ直ぐ(こちらを、あるいは未来を)見ている。また、写真に写る人々は70年間ずっと座り込んでいるようにも見えてきます。見る側もまた問われているのだと思います」と言葉を継いだ。比嘉も「もう一度沖縄のあの時代のことを考えてほしい。今後はこの展示を全国巡回することも考えていきたい」と語った。

 紛争・戦争によって土地や生活を奪われる人々が絶えない世界。1台のカメラとペンを携えて奮い立った人々がいた。その行動が焼き付けられた写真群が、70年近くを経て再び人々の前に現れている。それらがいま、何を伝えようとしているのかに焦点を当てて見つめ直したい。