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2025.3.8

「特別展 武家の正統 片桐石州の茶」(根津美術館)レポート。江戸の武家茶道を牽引した知られざる茶人に迫る

千利休により完成された侘び茶。その理念と美学は多くの武家にも継がれ、武家茶道が江戸期を通じて広く浸透した。その重要な存在が片桐石州という藩主であり、石州流茶道の祖である。この茶人に注目した初の展覧会「特別展 武家の正統 片桐石州の茶」が根津美術館で開催中だ(撮影は美術館の許可を得ている)。

文・撮影=坂本裕子

展示風景より
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片桐石州とは何者か

 片桐石州(せきしゅう・1605~73)は、戦国武将・片桐家の血を引き、江戸時代には大和国小泉藩(現・奈良県大和郡山市)の二代藩主として約1万3000石の所領を持つ大名だ。幕府の役職を務めるいっぽうで茶の湯を極め、茶道・石州流の祖として知られる。千利休の実子・千道安(せんのどうあん)に茶の湯を学んだ桑山宗仙(くわやまそうせん)の弟子として、利休流の侘(わ)び茶を基本としながらも、大名らしい厳粛な茶会を開き、二代将軍・秀忠が重用した古田織部(ふるたおりべ)、三代将軍・家光に献茶した小堀遠州(こぼりえんしゅう)に続き、四代将軍・家綱の前で点前(てまえ)を披露して、武家茶道の地位を確立した。

 利休の侘び・寂びと、威儀を正す武家の茶の両輪を軸とした石州の茶は、江戸時代を通じて大名や武家に広く浸透する。石州流からは江戸城の茶を取り仕切る「数寄屋坊主」が多数輩出され、多くの著名な大名茶人がこの流派の茶を行っていたそうだ。まさに徳川政権下における武家の茶道の正統といえる石州流と、その祖・片桐石州を顕彰する展覧会「特別展 武家の正統 片桐石州の茶」が根津美術館で開催されている。現代では、なかなか知る機会がない武家茶道の歴史は、その重要性とともに、茶道具の鑑賞のポイントや楽しみをより広げてくれるだろう。

 展示はまず、石州20歳のときに従五位下石見守に叙任された際の衣冠束帯の正装姿の肖像と、彼が制作した茶杓の代表作や石州の文化的ネットワークから、人物にアプローチする。

展示風景より、洞月筆、真巌宗乗賛《片桐石州像》(江戸時代 明和4年・1767 芳春院) ※前期展示(~3/9)後期は別の肖像画が展示される

 石州は29歳のときに幕府から、戦国時代に大部分が焼失した京都の知恩院を再建するための作事奉行(建築や土木工事などの建設事業の担当)に任ぜられる。落成を迎えるまでの8年間、彼は京都に滞在し、職務の傍らに京都の文化人との交流を深めて、自身の素養を培ったようだ。以降も京都に屋敷を構えて付き合いは続く。大徳寺の芳春院での綬号や高林庵の建立といった寺社との関り、憧れの茶人・小堀遠州とのやり取り、千家の茶人との深い付き合いなどが、残された書状や茶道具からうかがえる。

「二、石州をめぐる人々」展示風景より、手前の書状は小堀遠州から石州に送られたもの。石州が来訪した際に取り上げた茶入の合わせを誉めている。奥には表千家の四代が石州から拝領した茶入が見える

石州の茶の湯の「好み」

 大名として、江戸、国元、京都の3か所を往来した石州は各地で茶会を開いている。そこには、幕府の重鎮・保科正之、大老・酒井忠清ら時の幕閣から、旗本、僧侶、町人まで幅広く招かれていたことが、残された茶記からわかっている。遠州亡き後、彼らの後援を得て、寛文5年(1665)には、四代将軍・家綱への献茶が実現、茶匠としての地位を確固たるものとし、63歳の死まで茶の湯に精進した。

 およそ200回にわたる茶会の記録から、彼が客組を変えながら何度も使用したお気に入りの3つの茶入とその付属品や、自筆の書と自作の茶道具、そして将軍への献茶の際に使用された道具などに、“石州好み”や武家茶道の豪華さを感じる。

「三、石州の茶の湯」展示風景より

 お気に入りの茶入は、釉薬が独特の味を出していてそれぞれの個性が楽しい。付属品の仕覆(茶入を包む裂の袋)や牙蓋(げぶた:象牙の蓋)には、各茶人の好みが書かれており、それぞれの微妙な感性の違いを比較できる。これだけ付属品が揃って公開されるのも貴重な機会だ。

「三、石州の茶の湯」展示風景より、もっとも愛用した茶入 《尻膨茶入 銘 夜舟》(桃山~江戸時代・16~17世紀、根津美術館)と付属品の揃い
「三、石州の茶の湯」展示風景より、「夜舟」の付属品の仕覆と木型。それぞれに「遠州好」「石州好」が記されている。木型は仕覆の裂を傷めてしまうため、現在は使用されていないそうだ
「三、石州の茶の湯」展示風景より、もうひとつの愛蔵の茶入 《肩衝茶入 銘 奈良》(江戸時代・17世紀、個人)と付属品の揃い
「三、石州の茶の湯」展示風景より、3つめの愛蔵の茶入《肩衝茶入 銘 八重垣》(江戸時代・17世紀、愛知県立美術館[木村定三コレクション])と付属品の揃い。豪華な仕覆のほか、牙蓋にもそれぞれの好みで微妙な違いがあるのを確認しよう

 石州自身は自作のものを自らの茶席にはあまり使用しなかったようだが、しばしば周囲の人からの求めに応じて制作したという。書には、武人のきりっとした筋とともに、どこか流麗さが感じられるだろう。茶杓は、竹の立ち落としをそのままにした柄の大胆さが、絶妙な匙のカーブと相まって、すっきりとした美しさに注目だ。他の道具のデザインも、現代の作とも思えるモダンで、創意に富んだものが多い。

「三、石州の茶の湯」展示風景より、石州の墨蹟はきりっとしながらもどこか流麗さを感じさせる
「三、石州の茶の湯」展示風景より、石州は依頼に応じて茶杓を多く制作している。本展では7点が揃う
「三、石州の茶の湯」展示風景より、西村弥三右衛門作《松笠釜》(江戸時代・17世紀、個人)石州がつくらせ、24会の茶会のうち22会に登場したと記録される釜は、茶記には「ちちり」(松笠のこと)と記されているそうだ。小ぶりながら大胆で珍しい茶釜
「三、石州の茶の湯」展示風景より、片桐石州作 《瓢炭斗》(江戸時代・17世紀、岐阜プラスチック工業株式会社)。瓢箪の器は、虫喰いを避けるため漆を塗ることが多いが、伝来者のひとり松平周防守が添えた付属品の蓋裏に、そのままに手入れして使うようにと書付がある。伝来ともに貴重な一品

 将軍・家綱への献茶の際には、道具を将軍家の名物茶道具「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」から選ぶことを許され、床の間には無準師範(ぶじゅんしばん)の墨蹟を、茶入は唐物から選んだそうだ。

「三、石州の茶の湯」展示風景より、四代将軍徳川家綱への献茶に使用された道具たち
「三、石州の茶の湯」展示風景より、《唐物肩衝茶入 銘 師匠坊》(南宋時代・12~13世紀、出光美術館)点茶ののち、将軍と老中が盆にのせて鑑賞した茶入

広がり、継がれた武家茶道の精神

 将軍家と大名の支持を得た石州流は、江戸城はもとより、各藩でも茶道職を担い、幕末に至るまで全国に広まっていく。そこには、一子相伝の家元制度ではなく、免許皆伝の形で継承されたことが大きく寄与している。

 各藩に大切に伝えられた石州流の茶書に、石州作または旧蔵の道具を譲り受けた主要な大名茶人や茶匠が紹介される。幕末の大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺される3年ほど前の安政4年(1857)の茶会記録に残る、石州旧蔵で井伊家伝来の青磁花入や、相撲の番付表になぞらえた茶人番付の摺物に書かれた茶人の名からは、いかに石州流が武家社会に広く、長く、深く浸透していたのかを感じられるだろう。

「四、石州の茶の広がり」展示風景より
「四、石州の茶の広がり」展示風景より、「石州流」の茶書
「四、石州の茶の広がり」展示風景より、《蔦蒔絵棗》(江戸時代・17世紀、個人)。品川東海寺の怡渓宗悦が「石州公好」と箱書した茶器。木地目を活かした蒔絵の妙に注目
「四、石州の茶の広がり」展示風景より、《青磁筒花入》(明時代・16~17世紀、彦根城博物館) ※前期展示(~9/9)後期には井伊直弼の茶会記に登場する花入と考えられる石州作の「竹尺八花入」が展示される
「四、石州の茶の広がり」展示風景より、 《東都茶入大相撲》(江戸時代、嘉永4年・1851、個人)。幕末の茶人番付表では中央と両側の袖に「石州派」の重鎮の名が刻まれる

 あまり知らない茶人をたどる展覧会、ちょっと地味......と感じるかもしれないが、侘びと豪華を併せ持ち、200年以上、江戸の文化人を惹きつけた、その魅力を追ってみたい。そこには現代でも新鮮な大胆さと繊細さも見いだせるのだから。

 渋い好みを味わった後には展示室5で《百椿図》を。江戸の椿ブームに乗って、当時の知識人たちが表した歌と咲き誇る多様な椿の長巻絵巻は、初公開の板谷波山のかわいらしい椿の香炉とともに鮮やかな色彩で楽しませてくれる。

展示室5「百椿図 ―江戸時代の椿園芸―」展示風景より
展示室5「百椿図 ―江戸時代の椿園芸―」展示風景より、初公開の板谷波山作 《彩磁椿文香炉》(大正時代・20世紀、根津美術館[三嶋英子氏寄贈])