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2025.5.31

「最後の浮世絵師」鰭崎英朋とは何者だったのか? 新発見の肉筆画も公開

明治後期から昭和にかけて活躍した絵師・鰭崎英朋(1880~1968)。その個展が東京・神宮前の太田記念美術館で始まった。会期は7月21日まで。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

展示風景より、手前は柳川春葉『誓』後編の口絵(1917)
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 明治後期から昭和にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」と称される絵師・鰭崎英朋(ひれざき・えいほう、1880~1968)。その個展が東京・神宮前の太田記念美術館で始まった。会期は7月21日まで。担当学芸員は同館主席学芸員の日野原健司。

展示風景より

 英朋は1897年(17歳)に浮世絵師・月岡芳年の門人である右田年英に入門。1902年(22歳)に尾崎紅葉の推薦により、春陽堂の編集局に入社。春陽堂から刊行された文芸雑誌の挿絵や口絵、あるいは小説の単行本の口絵を手がけ、泉鏡花や柳川春葉たちの物語の世界を華やかに彩った。しかしながらその画業は広く語られてこなかった。なぜなのか? 日野原はその理由として、「近代美術史は美術館の展覧会に出品し評価した作家が名を残してきた。英朋の活動の中心は雑誌の口絵や挿絵であり、大衆向けのメディアがメインだったからだ」と語っている。

 浮世絵版画が大衆の暮らしとともにあった最後の時代に英朋がどのような活躍をしたのか。本展は前後期(全点展示替え)計187点の作品によって、この「知られざる絵師」にスポットを当てるものだ。

 会場1階には、1903年から1912~26年にかけて刊行された、小説の単行本を中心とする英朋の代表的な木版画が並ぶ。とくに英朋は泉鏡花との関わりが深く、『続風流線』の口絵は水中の人物を描いた絶妙な色使いが見どころ。下絵とともに注目だ。

展示風景より、泉鏡花『続風流線』口絵(1905)とその下絵

 また発行部数が2万部とも3万部とも言われる雑誌『文芸倶楽部』の口絵は同じ号のものであっても微妙な差異が認められる。これは、複数の版木を用意して制作していた証拠であり、いかに口絵を大量生産していたかを伝える。

雑誌『文芸倶楽部』(第19巻 第11号)の口絵と下絵、校正摺

 木版画の口絵と同時に、石版画の口絵も多く手がけた英朋。今回の展示では、英朋の全貌を明らかにするため、2章において石版画が紹介されている。

 石版は木版に比べると色彩がやや沈むが、技術が進むにつれてそれも改善されていった。英朋は『新世界』や『娯楽雑誌』などの雑誌の口絵を通して、石版画の魅力を大衆に広く伝えたひとり。この章では、1903年から1912~26年にかけて刊行された文芸雑誌の口絵や表紙を中心に、コロタイプ印刷や三色版、オフセット印刷など、現代につながる印刷技術の歴史を楽しみたい。

展示風景より、手前は前田曙山「水の流れ」『新小説』第7年第12巻 口絵(1902)
展示風景より、泉鏡花『愛花』口絵(1906)
展示風景より、「はつ空」『新小説』第17年第1巻 口絵(1912)

 第3章は肉筆画だ。明治時代後期から大正時代にかけて、多くの絵師が展覧会に出品し、評価を獲得するために重視していた肉筆画。英朋も20代後半頃までは肉筆画を手がけていたものの、口絵や挿絵で人気を博したことで大衆向けのメディアがメインとなっていった。そのため現存数は少ないが、ここでは掛け軸に描かれた日本画や挿絵や表紙の原画を見ることができる。

 なかでも白眉となるのは、初公開となる肉筆画《上杉謙信》(1900)だ。これまで現存する英朋最古の肉筆画は22歳のときのものとされていたが、同作はそれを2年上回る20歳で描いた肉筆画。第9回日本絵画協会第4回日本美術院連合絵画共進会に出品され、褒状2等を受賞した作品。1577年の七尾城攻めの際に、月を眺めながら漢詩を詠んだ上杉謙信の姿が堂々と描かれており、若かりし頃の英朋の才能の片鱗がうかがえるだろう。なお同作は前期のみの展示となるので注意してほしい。

展示風景より、左が《上杉謙信》(1900)

 明治30年代以降、時代の移り変わりとともに浮世絵版画が衰退し、彫師や摺師が活躍の場として見出した木版口絵の世界。大正5年頃を境にこの木版口絵も減少していくが、その最後を支えていたのが鰭崎英朋だった。その意味において「最後の浮世絵師」だった英朋。新版画などが注目を浴びるいまだからこそ、その仕事を振り返っておきたい。