2025.6.14

「藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会」(兵庫県立美術館)開幕レポート。藤田が照らし出す国吉の魅力

神戸の兵庫県立美術館で、藤田嗣治と国吉康雄のふたりの画歴を比較しながらたどる特別展「藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会」が開幕した。会期は8月17日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、左から藤田嗣治《タピスリーの裸婦》(1923)京都国立近代美術館蔵、国吉康雄《幸福の島》(1924)東京都現代美術館蔵
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 神戸の兵庫県立美術館で特別展「藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会」が開幕した。会期は8月17日まで。監修は同館館長の林洋子、担当は同館学芸員の橋本こずえ。

展示風景より、国吉康雄《幸福の島》(1924) 東京都現代美術館蔵

 本展は20世紀前半の海外で成功と挫折を経験した二人の日本人画家、藤田嗣治(1886〜1968)と国吉康雄(1889〜1953)が、ともにフランス・パリに滞在した1925年から100年目となるのを記念するものだ。

展示風景より、左から国吉康雄《制作中》(1943)福武コレクション、藤田嗣治《自画像》(1943)豊田市美術館蔵

 まずはふたりの来歴を確認したい。藤田は、東京美術学校卒業後、26歳で単身フランスに渡り、1920年代「素晴らしき乳白色の下地」と称賛された独自の画風によって、エコール・ド・パリの寵児としてフランスでの名声を確立した。いっぽうの国吉は16歳で渡米、画才を認められて研鑽を積み、アメリカ具象絵画を代表する画家としての地位を築いた。パリとニューヨークで活躍した二人の画家は、1925年と28年のパリ、1930年のニューヨークで接点を持つが、太平洋戦争によりその関係性が破綻。終戦後、1949年の10カ月を藤田はニューヨークで過ごすものの、現地にいた国吉との再会は叶わなかった。

展示風景より、左から国吉康雄《バンダナをつけた女》(1936)、《もの思う女》(1935)ともに福武コレクション

 本展は、戦前にパリとニューヨークというふたつの都市で活躍したふたりの画家の人生を、互いの作品を対置することで、ふたりの作品に対する自覚と視座を通時的、共時的に読み解きながらたどるものだ。

 藤田の研究者でもある林は、本展について次のように語った。「30年来、試みたいと思っていた展覧会だ。藤田の作品によって、国吉の回顧展ではわからなかった魅力が改めてわかるようになった。とくに、国吉のマチエールの創意工夫については、改めて注目すべきものがあるということが明らかになったといえる」。

展示風景より、国吉康雄《化粧》(1927)福武コレクション

 また、本展では、福武コレクションより多くの国吉の作品を借用している。同コレクションのオーナーである福武總一郎は、本展について次のように述べた。「国吉は素晴らしい作家であり、同時代の藤田と展覧ゆ会ができないかと前々から思っていた。現在、国内では藤田のほうがよく知られている画家だた、国吉のアメリカにおける活躍、そして人となりを知ってもらいたいという気持ちはずっと持っていた。今回の展覧会が実現できたことを本当に嬉しく思う」。

福武總一郎

 展覧会は9章構成。第1章「1910年代後半から20年代初頭:日本人『移住者』としてのはじまり」では、藤田の《二人の少女》(1918)と国吉の《夢》(1922)などを併置。そして第2章「1922年から24年:異国での成功」では藤田の《タピスリーの裸婦》(1923)、国吉の《幸福の島》などを展示している。ふたりがそれぞれの異国で活躍を始め、評価を確立していく時期となるが、藤田はその乳白色の下地の美しさが、国吉は西洋と東洋を融合させた表現が、それぞれ評価されていたことがわかる。

展示風景より、左から《二人の少女》(1918)軽井沢安東美術館蔵、《花を持つ少女》(1918)栃木県立美術館蔵
展示風景より、左から国吉康雄《夢》(1922)石橋財団アーティゾン美術館蔵、藤田嗣治《坐る女》(1921)ポーラ美術館蔵

 第3章「1925年と1928年:藤田のパリ絶頂期と国吉の渡欧」では、国吉がパリに滞在し、油絵の本質に気づいていく時期を紹介。そして第4章「1929/1930/1931:ニューヨークでの交流とそれぞれの日本帰国」では、藤田と国吉が直接交流した、1930年前後の作品を展示している。

展示風景より、左から国吉康雄《水難救助員》(1924)、《二人の赤ん坊》(1923)ともに福武コレクション
展示風景より、左から藤田嗣治《舞踏会の前》(1925)公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵、《五人の裸婦》(1923)東京国立近代美術館蔵

 藤田作品のなかでも、もっとも著名なもののひとつである《自画像》(1929)や、渡仏をきっかけにモデルに向き合い重量感ある肉体を描くようになった《サーカスの女玉乗り》(1930)といった佳作が展示されており、両者の人物画の持つ色彩や構図の比較をしてみるのもおもしろいだろう

展示風景より、左から《ニューヨークのスタジオでポーズをとる藤田(試作品)》個人蔵、藤田嗣治《自画像》(1929)東京国立近代美術館蔵
展示風景より、左から《サーカスの玉乗り》(1930)、《シュミーズの女(籐椅子に座る女)》(1929)ともに個人蔵

 第5章「1930年代:軍国主義化する母国の内外で」、第6章「1941年から45年:日米開戦下の、運命の二人」では、日本が軍国主義化するなかで、ふたりの道が分かたれていった時代を作品で追う。

展示風景より、左が藤田嗣治《自画像》(1936)公益財団法人 平野政吉美術財団蔵

 藤田は30年代初頭から33年にかけて、中南米を経由し日本に帰国。帰国後の藤田はフランス、日本、アジアの風俗などの画題に取り組み始める。そして日米開戦後は、よく知られているように藤田は軍部からの注文を受けて作戦記録画を描くようになっていった。

展示風景より、左から藤田嗣治《十二月八日の真珠湾》(1942)、《ソロモン海戦に於ける米兵の末路》(1943)ともに東京国立近代美術館蔵

 いっぽうの国吉は、開戦後のアメリカでは敵性外国人となった。行動制限を受けるなか、国吉は日本の軍国主義を批判する活動や制作を行うことで、アメリカで必死に生きようとする。会場では国吉が描いた戦争ポスター「敵を撲滅せよ―戦争国債を買おう」の下絵なども見ることができ、国吉がアメリカの民主主義を支持する立場を明確にしていたことがよくわかる。

展示風景より、右が《跳び上がろうとする頭のない馬》(1945)公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵
展示風景より、左が《戦争ポスター「敵を撲滅せよ―戦争国債を買おう」》(1943)福武コレクション

 第7章「1946年から48年:戦後の再生と異夢」と第8章「1949年ニューヨーク:すれ違う二人」は、藤田と国吉、ふたりが戦後歩んだ道を取り上げる。

 戦後、藤田は戦時中の軍部への協力的態度から戦争責任をささやかれるようになる。そうした周囲の雑音から逃れるように、藤田は裸婦や幻想的な情景の制作を行うとともに、フランスへと機関する方法を探るようになっていった。

展示風景より

 いっぽうの国吉は終戦後、旺盛な制作を行うようになり、48年にはホイットニー美術館での個展を開催。これは日本人画家の海外での評価事例として、画期的なものといってよいだろう。いっぽうで、戦後に完成させた名作《祭りは終わった》(1947)はどこか暗さがある絵であり、戦争のあとの国吉の安堵や虚しさを読み取ることもできるだろう。

展示風景より、国吉康雄《祭りは終わった》(1947)岡山県立美術館蔵

 1949年、藤田は希望どおり日本を離れ、フランスを目指す途上でアメリカに立ち寄り、ニューヨークで個展も行った。国吉はこのときの藤田の個展に足を運んだものの、再会することはなかったという。それでも、国吉が互いに置かれていた立場を超えて、同時代の画家として藤田への興味を失っていなかったことがよくわかる。

展示風景より、左から藤田嗣治《ラ・フォンテーヌ》(1949)ポーラ美術館

 最後となる第9章「1950年から53年:藤田のフランス永住と国吉の死」では、国吉の最晩年、そして藤田がフランス国籍を取得した時期を扱う。戦後の藤田は宗教画に傾倒していき、晩年にはカトリックへと改修することになる。

展示風景より、左から国吉康雄《ミスターエース》(1952)福武コレクション、藤田嗣治《二人の祈り》(1952)名古屋市美術館蔵

 国吉は1953年、アメリカ国籍取得の手続きの最中に世を去る。晩年の国吉の作品は、色鮮やかになっていくが、同時にその筆致や人物の表示からは、どこか不安を感じもする。歴史や時代に翻弄される人生の苦悩を味わった国吉の絵は、監修の林が「あと10年生きていたらどんな絵を描いたのか」と語るように、さらなる展開を予感させるものといえるだろう。

展示風景より、左から国吉康雄《夢》(1948)、《安眠を妨げる夢》(1948)ともに福武コレクション

 藤田と国吉と名打たれている本展であるが、むしろ国吉の作品の魅力を、藤田と並べることで再発見できる展覧会といえるだろう。林は本展を「太陽のような藤田の光によって、月のように国吉の絵画の新たな側面が発見された」と表現する。様々な画材を使用し、現代の絵画にも通じる重症的なマチエールを展開していた国吉の魅力を、藤田の名作の数々とともに知ることができる重要な展覧会だ。

展示風景より、国吉康雄《夢》(1922)石橋財団アーティゾン美術館蔵