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2026.3.13

「貧」しくて「おいしい生活。」変わらない 清水穣評「井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s」展

渋谷区立松濤美術館で開催された「井上有一の書と戦後グラフィックデザイン1970s-1980s」展について、美術批評家・清水穣が評する。「書」というジャンルを超えた前衛美術の文脈で評価を受ける井上有一──彼の書を積極的に起用した戦後の日本のグラフィックデザインとの相関関係を考察する。

文=清水穣

「井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s」展(渋谷区立松濤美術館、2025)の展示風景より 写真提供=渋谷区立松濤美術館
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 2016年、金沢21世紀美術館での井上有一(1916〜85)の回顧展は、この書家がすでに一人の現代美術家としての評価を確立したことの歴史的な証左となったが、25年の本展もまた、小規模ながら歴史に残る井上有一展となるだろう。あまり目にする機会のない初期作品がふんだんに展示されているのみならず、鋭い視点から今日の井上有一受容の始原が解き明かされており、教えられ、また考えさせられるところの多い展覧会だった。

「井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s」展(渋谷区立松濤美術館、2025)の展示風景より 写真提供=渋谷区立松濤美術館

 写真のモダニズムは、リアリズムに沿って展開するが、それは、人間の色眼鏡(価値観、偏見、美意識、慣習……等々)によって覆い隠されている通常の現実の、その覆いをカメラアイの力によって剥ぎ取ることで、世界の真の「ありのまま」を暴露することである。つまり、通常の現実社会の外部ないし彼方に「ありのままの現実」が潜在しているという、大きな二元論(社会システム vs その外部)を前提としている。前者は、一般に美醜、貧富、大小、高低、内外、強弱……といった小さな二項対立で構成されているから、この大きな二元論は、(A vs B)vs Cと書き換えられ、リアリズムとは、「割り切れない」もの、つまり3番目のCを目指す運動である。

 ここでCは、定義上、内部から「それとは異なるもの」として一方的に外へ投影されるほかない存在である(「オリエンタリズム」)から、「大きな二元論」は対称的ではない。しかしまた、Cは対立するAとBの外に立つ、いわば中立的な裁判官の立つ場であり、この場所を占拠した者は、A vs Bの社会に対して、なにが「ありのまま」であるかを裁定する暴力をふるう。言い換えれば、植民地化されるとは、この大きな二元論で洗脳されるということだ。支配者は植民地をCとして投影するとともに、植民地に対するCとして暴力を振るう。リアリズムのディスクールは、じつは植民地主義と同根なのであり、「ありのまま」という言葉は、アジアやアフリカを植民地化した、すなわち現地の伝統社会を徹底的に破壊したあとで、支配者の口から発せられた言葉なのである。

 「ありのまま」、それは戦後日本に呪いのようにかけられた言葉でもある。それが呪縛となったのは、端的に敗戦後の日本から「ありのまま」が奪われたからである。逆に言えば「ありのまま」の日本とは、占領と新憲法(マッカーサーと裕仁天皇による協定)、それに続く日米安保体制・日米地位協定に規定された社会であった。「ありのまま」とはソフトに植民地化された状態にほかならない。そういう日本の写真とは、奪われた「ありのまま」をめぐる、強迫性障害のようなものとみなせる。

 井上有一は強迫性障害ではなかったが、たとえば「書を解放せよ。書家よ、裸になれ。一度、一切の技術を捨てて、素朴な人間になろうではないか」「「原始に還れ」「子供に還れ」それは、いまや、世界の前衛美術家の合言葉とも言えよう」といった彼の言葉を読めば、それがリアリズム写真に通じていることは明らかであろう(裸、原始、子供=ありのまま=Cの場所)。外へ出よ、の代わりに有一は「底を抜け」と言う。ただし、有一の「ありのまま」とは、水木しげる(1922〜2015)の失われた左腕のように、東京大空襲で死に損なったという深いトラウマに由来していた。

井上有一 不思議 1956 和紙に膠墨 97×187cm 京都国立近代美術館蔵 ⒸUNAC TOKYO

 さて、だいたい1960年代後半頃を分水嶺として、戦後社会は産業資本主義社会から情報資本主義社会へと移行する。いわゆるモダンからポストモダンへのこの移行期、モダニズムが希求してきた「外部」は、不可逆的に資本の流動に取り込まれていった。ポストモダンとは、「外部」「ありのまま」「リアル」なものこそが売れる社会であり、それゆえ商品を「ありのまま」「リアル」に提示するコピーライターが主人公となる世界でもある(『奥さまは魔女』米ABCテレビ、1964〜72)。が、そういう「豊かな」社会が敗戦国日本に訪れるのは、早くて70年代後半、実質80年代、糸井重里をはじめとする花形コピーライター、アートディレクターとセゾン文化の時代である。「ありのまま」をめぐる作家たちの強迫観念は、格好のキャッチコピーとして、広告業界に収奪されていった。その最たる例が井上有一の書だ、これが本展の教えである。「おいしい生活。」は、よりによって井上有一の「貧」とともに提示されたのだから。2025年の現在、井上有一はグローバルに認知される作家となっているが、そもそも彼の書が広く知られるようになったのは、海上雅臣の努力に勝るとも劣らず、セゾン文化の「おかげ」なのだ。

 「おいしい生活。」は戦後日本人の抑圧の完成──日本が先述の協定に由来するソフトな植民地支配の下にあることを意識しなくなること──を表すキャッチコピーであった。それに合わせてまさに「貧」を選んだ井上嗣也(AD)と糸井重里(コピーライター)は、この痛ましくも滑稽な倒錯に、完全に意識的であっただろう。糸井が、最晩年の井上有一に親しげにインタビューする様は、まるで優しい死神のようだ。死神が有一を連れ去った後、その「裸」で「ありのまま」の書は、理想的商品として、広告業界トップのハイエナたちに次々と貪られていった。かつて浅田彰は彼らを「歯を食いしばった道化たち」と呼んだが、抑圧とは何かを耐えている状態ではない。彼らは、平和(=ピース)日本の「ピー」をしていたのだろう。昭和の「おいしい」は、戦前の「天皇陛下万歳」と何も変わらない。展示のひとつに、当時議論を巻き起こした「まず、総理から前線へ」というキャッチコピーの反戦ポスターがあったが、議論(「◯◯は問題です」)というものが、しばしば真実を隠す装置であることをよく表している。このコピーは「まず、陛下から前線へ」を隠すためのものにすぎないからだ。「おいしさ」と「貧しさ」の共存は、昭和末期の日本人の二重思考にほかならない。

井上有一 噫横川國民學校 1978 和紙にボンド墨 145×244cm 群馬県立近代美術館蔵 ⒸUNAC TOKYO

 最後に《噫横川國民學校》(余計な展示品を省いて、最後の部屋に《東京大空襲》(1978)を入れてほしかったが)について。有一が33年前のトラウマを作品化したのは1978年であった。記念碑、記念日、記念行事、記録写真の反復のなかで、歴史はそのトゲを摩耗させ、忘却されていく(*)。社会が「外部」をなめらかに流通させはじめたことに、有一が警戒心を抱き、それに抵抗したとしても不思議ではない。そのとき彼は自分の「ありのまま」「リアル」のルーツを解放する。それは最初、叙事詩にふさわしく疑似漢文で始まるが、徐々にひらがなとカタカナ、つまり日本語の音へ、絶叫と呪詛へと分解していく。最晩年の有一の書は漢字ではなく、日本字(?)のコンテ書である。漢字の一字書は「おいしい」商品になってしまったが、この絶叫と呪詛において、井上有一は「生きている」。他方、彼の「貧」を「おいしい生活。」として掲揚してから早40年以上、令和の植民地は先進国から転落して、文字通り貧しい格差社会となった。

──忘却はすでに1955年に始まっていた。例えば福田須磨子の次のような抵抗詩。「原子野に屹立する巨大な平和像/それはいい、それはいいけれど/そのお金で、なんとかならなかったかしら/〝石の像は食えぬし腹の足しにならぬ〞/さもしいといって下さいますな、/原爆後10年をぎりぎりに生きる/被災者の偽らぬ心境です。/……平和!平和!もうききあきました」。そして66年、東松照明は書きつける。「長崎には、〈11時02分〉で停止した時と、1945年8月9日11時02分を起点とする現在進行形の時間がある。この二つの時を、ぼくたちは、決して忘れてはならぬ。……広島と長崎が体験した8月の恐怖を、原爆症の烙印を押されて苛酷な時を過ごす被爆者の怒りを、歴史のヒダに埋めてはならぬ」。東京大空襲にまでこの忘却が及んできたのが、70年代だったのだろうか。そういえば古井由吉が大空襲のトラウマに言及したのは70年の『円陣を組む女たち』、作品化した画期は77年の短編「赤牛」だという。

『美術手帖』2026年1月号、「REVIEW」より)