文字の力。清水穣評「北川一成、山本尚志、日野公彦|文字と余白 仮称」展
Yumiko Chiba Associatesで開催された「北川一成、山本尚志、日野公彦│文字と余白 仮称」展を美術評論家・清水穣がレビューする。グラフィックデザイナーの北川一成と、前衛書家の山本尚志・日野公彦らの作品を組み合わせ、書の芸術性にフォーカスした本展を通じて、「文字の力」とは何かを再考する。

文字の力
例えば、イチハラヒロコの作品「はやく来やがれ、王子さま。」(編集部註:本文中の「太字」は、本誌ではフォントを変えて掲載しているものです)は、ゴシック体だからこそ、一種ユーモラスな断言調が生まれ、明朝体にしたら力を失う。同じことは、バーバラ・クルーガーの「I shop therefore I am」にも言え、あれを例えば青字のPalatinoで表現するわけにはいかない。ジェニー・ホルツァーの「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」も電光掲示板の大文字だから成立する。ローレンス・ウィナーの壁文字、オノ・ヨーコの「YES」、ジョセフ・コスースの3つの椅子の辞書からの引用、オン・カワラのTODAY 、高松次郎の「この七つの文字」……どれも特定のフォントでなければ成立しない。コンセプチュアル・アートや言語アートであるなら、その本質であるコンセプトや意味が伝わればそれで十分なはずで、つまり「I shop therefore I am」も「I shop therefore I am」も「I shop therefore I am」も、デカルトの「Cogito Ergo Sum」をもじった消費社会批判の言葉であることに変わりはないはずだ。が、どのアーティストも、必ず特定のフォントを指定し、あるいは特定のレイアウト(正方形、長方形、上下左右の余白… 等々)を決定する。物質に依存しないはずのアートが、文字の外観に左右される。文字がふるう力とはなんなのだろうか。
同じ言葉を異なるフォントで印刷することは、その言葉を様々な声音で発語することに喩えられるだろう。声音とはメッセージを伝えようとする側の色付けであり、すなわちその意味をわからせ、言う通りにさせるための誘導であり政治にほかならない。役所からの「お知らせ」が独特のソフトなゴシック体で印刷されるとき、そこには必ずなんらかの命令(「ご協力のお願い」)が含まれている。ゴシック体・サンセリフ体で印刷された新聞がないのは、楷書やセリフ付き書体(ローマン体)こそが「公」のメッセージの担い手として相応しいという暗黙の了解があるからだろう。フォントやロゴのデザインとは、文字形態の政治をデザインすることであり、文字の力とは、そこに内在する政治力なのである。
言うまでもなく、文字の歴史は印刷活字の歴史に先立ち、文字の形態は筆やペンといった筆記具から導かれたものである。漢字には篆(てん)書、隷書、草書、行書、楷書という段階的な書体の歴史があって、最初の世界帝国・唐の公的書体として正書・真書(=楷書:虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゃん)、褚遂良(ちょすいりょう)……)が成立する。筆やペンの書体、つまり楷書〜宋書〜明朝体、そしてセリフ付き書体のお固い「公」のイメージはここに由来するだろう。反対に、ゴシックやサンセリフの書体は、文字通りsans serif=セリフなし、つまり筆やペンに特有のウロコや太細なしにということで、これは一方では「private(公から「privatus 奪った」という語の原義における)」な書体であるとともに、筆やペンの文字が自動的に帯びる個人差(書き癖)を捨てた「アノニマス」な書体ということでもある。事実、サンセリフ体が出現するのは、19世紀の大都市である。まさに近代の産物であるサンセリフ体の特徴に視認性があるが、それは結果であって、原因ではない。個人を大衆へ溶解させる時代が、文字を図形(直線と円弧)の一種とみなす感性を生んだわけである。

ⒸGRAPH / Issay Kitagawa Courtesy of Yumiko Chiba Associates.
文字形態は大きく「筆やペン」と「それなしの」書体に分かれ、それぞれの政治的効果が「公」と「匿名の私」である、と。さて、日本語は草書からひらがなを、楷書文字の一部からカタカナをつくったが、前者は女文字として、つまり非公共の私的空間の文字として発生し、後者はあくまでも筆文字のかけら(それはツ、シ、ソ、ンを見れば明らかだ)として、漢字に次ぐ公共の文字として用いられてきた。江戸は世界的にも大都市であったが、そこにサン・セリフの世界──アノニマスなプライバシーの世界──はなかったということである。「私的」なひらがなと「公共」の漢字・カタカナだけが存在した日本に、「ゴシック体」(本来のドイツゴシック体のことではなく、サンセリフ体)が渡来したわけで、最初からゴシック体はハイカラでモダン、アートとの親和性が高い(*1)。版で押したような書体であるゴシック体は、版=レイヤーに依存し、レイヤーのデフォルトである矩形に依存している。つまりゴシック体は余白の意識と切り離せない。そしてフォントやロゴのデザインは、文字を図形や画像と見なすところから始まる。図形や画像が、文字として認識されるようになる境界線は、文字の意味が、レイヤー上のその図形・画像の効果によって、政治力を帯び始める境界線であるとともに、「公」↔「匿名の私」↔「私」のあいだの境界線でもある。デザインとは、この境界線の操作であり調整なのだ。
以上で、北川一成の作品を見る準備としては十分であろう。明るい水中を思わせる美しい照明空間の中で、どこかで眼にしたことのある企業のロゴが、繊細な密度を帯びた美しい色面(白をも含む)の上に整然と並んでいる。
さて、北川作品と合わせられた、山本作品は刷毛、日野作品ではダーマトグラフが用いられている。彼らの作品は、70年前の前衛書道から徹底的に距離を取ったがゆえに、ウロコや太細のない線の書であり、ゴシック体と同じ土俵に置かれて、北川作品と対比しやすくなっていた。

山本尚志の書は、任意のピクトグラムに、漢字の断片(片仮名)をぶつける。ピクトグラムは意図的に曖昧で、例えば出展作の2点には、単独の「ヨーヨー」と乱れ打ちの「ヨーヨー(7つ)」が描かれているが、その言葉がなければヨーヨーには見えない。ピクトグラムに上書きされるカタカナは、命名でもあるわけだ。他方で、ヨーヨーは「洋々」「遙々」「やふやふ」かもしれず、それが玩具の「ヨーヨー」であることは、ピクトグラムが指示する。不完全なピクトグラムは「公」にはなりえず、刷毛による線(ゴシック体)が表す「匿名性」は、命名によって打ち消される。命名と指示が、「ここ」の「これ」を「ヨーヨー」にするのだ。ここには、書とは文字の個体化(私有化ではない)であるという認識がある。
日野公彦は日常的に眼にする「文字のある光景」を、ダーマトグラフで簡略化して反復する。それはたいてい広告や店のロゴであるから、北川一成の作品とは好対照である。それは「匿名の私」による文字景の私有化(「公」からの強奪; 誘惑的で誘導的な看板文字の中立化)であり、戯画化(そこで獲得される光景の空虚さ)である。
アート書道については、本欄でも何回か報告してきた(月評第140回など)。いまだに書が現代アートと出会う場所は、70年前と変わらず抽象画=抽象書であることが多く、書が言語芸術であるという側面が抜け落ちている。本展は、むしろその側面に注目し、アート書道を、フォントやロゴのトップデザイナーと組み合わせて、言語芸術としての書を/から、文字の政治術としてのデザインから/を、考察しようとする。アートワールドにとっても書壇にとっても初めての試みとして高く評価したい。

*1──清水穣「中島英樹とゴシック体 コラージュとしてのタイポグラフィー」参照、『Hideki Nakajima 1992-2012』所収、二見書房、2012年。
(『美術手帖』2025年4月号、「REVIEW」より)