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2025.6.6

アナザー・グリーン・ディレクター 来たるべき緑世界。椹木野衣評「浮茶:利休とバーのむこう」

東京・四ツ谷にあるMikke Gallery・Studio・Windowで開催された「浮茶:利休とバーのむこう」を美術批評家・椹木野衣が評する。「浮茶」とは何か。そして、アートディレクター・緑川雄太郎によって設えられたこの空間での「浮茶」体験とはどのようなものだったのか。緑川とともに茶室で過ごした時間を振り返りながら、椹木が考察する。

文=椹木野衣

展示会場の様子。時折、霧のような水蒸気が立ち込める
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アナザー・グリーン・ディレクター 来たるべき緑世界

 本当にここでよいのだろうか、と訝しくも思いながらエレベーターでギャラリーが入るフロアのボタンを押し、扉が開くと、真っ白な空間があった。が、いわゆるアートの展示空間の典型としてのホワイトキューブとはだいぶ違っている。アートが好む白さとは似て非なるこの白さを生み出していたのは、自然光と霧だった。純粋なホワイトキューブはその自律性を確保するため、外光の入射や外の景色が窓から見えることを嫌うけれども、展示空間に一歩足を踏み入れるやいなや目に飛び込んできたのは、部屋の横幅いっぱいに取られたパノラマを思わせる比率の大きな窓に映る、昼下がりの四ツ谷駅前に並ぶ都心のビル群にほかならない。ただし、それらの景色はスモークマシンが発する霧によって乳白色のベールがかけられている。さらに、アートが視覚に特化する芸術であるなら余計な要素であるはずのほのかな香りや音響も、そこでは大きな役割を果たしていた。しかし人はいない。まったくの無人である。ひとまず「こんにちは」と誰に声を掛けるでもなくわたしは言葉を頼りに発してみた。すると、少しして今回のお茶会「異次元のお茶」の招き主、アートディレクターの緑川雄太郎が、やはり霧で霞んだ視野のなかから姿を現した。

 アートディレクターといっても、広告デザインなどの世界でいうところの、いわゆる「AD」ではない。緑川の場合は文字通りのアートディレクターであって、その場で必要とされる「アート」そのものをディレクションする役割を担う。ディレクションということならキュレーターでよいのではないか、と考える人もいるかもしれない。けれども、これまでの活動を振り返ってみても、緑川は展覧会に必ずしも「キュレーター」として関わってきたわけではなかった。典型的なのが、ほかでもない今回の展示だ。確かに会場はギャラリーではある。しかし、この空間をディレクションする当人が場をしつらえ、訪れる人たちが希望するお茶を立てて振る舞うこの機会を、いったい「展覧会」と呼んでよいのだろうか。もしも展覧会でないのであれば、やはりこれは「キュレーション」ではない。かといって緑川自身が「アーティスト」として空間をつくり出しているわけでもない。緑川が設けたこの空間は、キュレーターにもアーティストにも属していない。むしろそのはざまにあって、普段は見えない「オブスキュアobscure」な次元を「浮上」させている。それなら、やはり「アートディレクター」と呼ぶしかないではないか。

床に置かれたデバイス

 「こちらへどうぞ」と、床に踏石を見立てて点々と置かれたドット状のデバイス──そのそれぞれがスマホをかざすことで「浮茶」のサイトへと「飛ぶ」ことができる──と、石庭の灯籠を連想させる透明なアクリルガラスでかたどられ淡く発光するオブジェ(映画『2001年宇宙の旅』に出てくる「モノリス」を思わせる)に導かれながら第二室へと向かうと、第一室とは対照的に真っ暗な、いわば「ブラックキューブ」があり、そこが「茶室」だった。茶室の中央には円盤状で床面と一体化しそうなほど低い座面があり、お茶の振る舞い主と対面するのであろうそこに様々な、だが見慣れぬ茶道具が置かれている。第二室にあるのはそれがほぼすべてで、さらに言えば、この空間を外界と隔てているのは色彩の違いや明かりの有無だけではなく、入室時に「靴を脱ぐ」という「行為」である。しばらくして湯が沸くと、わたしとアートディレクターは二人で円盤の上に座して対面し、4時間に及ぶ「浮茶──異次元のお茶」が始まった。

入り口に設置されたディフューザー

 緑川がしつらえた「浮茶」には、定められた形式としての作法のようなものはない。無礼であってはならないが、許容される範囲で自由であってよい。許容される範囲での自由というのは矛盾した表現のように聞こえるかもしれないが、「浮茶」をたしなむ所作を委ねられているという点では確かに自由だ。茶菓子は振る舞われないが、それにかわり緑川が準備した各種の「香水」が備えられている。そもそもお茶においては茶葉そのものが内包する香りを開くのが肝要だが、体験そのものは沸かした湯の温度やお茶の立て方、器、まわりの環境、招き手となにを話すかによって大きく変化する。お茶の席に強い香りを発する香水は本来なら禁物だが、緑川はそれぞれの香源を化学の実験に使うような器に厳重に封じ、お茶のあいまにわずかだけ客に嗅がせる。茶道ではありえない所作だが、すると一瞬の濃厚な香りが触媒となって、自分でも思いもしなかった過去の記憶が幻のように呼び覚まされるのだ。

展示会場の様子。来場者やその日の空気感にあわせてお茶を選び、緑川が振る舞う

 香りが過去の記憶を「浮上」させるというと、誰もがプルーストの長大な小説『失われた時を求めて』を連想するところだろう。事実わたしたちもそこにほとんど形式的にふれた。しかし肝心なのは、緑川の「浮茶」によってじつのところ「なに」が浮上したかのほうだ。緑川の「浮茶」は「利休とバーのむこう」と副題を掲げている。そもそも「浮茶」とは「なに」なのか。「侘茶」の大成者である利休による茶の振る舞いを、ニューヨーク近代美術館での展示形式をホワイトキューブとして画定する礎をつくったアルフレッド・バーを経由して「浮かび上がらせること」、それが緑川のねらいであるのはもちろんだが、肝心なのは「のむこう」のほうだ。利休とバーをホワイトキューブで出会わせることで浮上した「どこでもない空間」の「むこう」にあるのはいったい「なに」か。

 この「なにか」を抽出するために準備されたのが、より大きな自由度を備えた中国茶の超作法の次元であり、そこから強制的に異次元の記憶を絞り出すのが、限定的に使用される強い香りの作用を持つ「香水」なのだ(自由度、というなら緑川は第一室に茶道とはかけ離れた一対となるヨガマットを準備しており、2度目、3度目の湯を沸かすあいだ、「浮茶」に招かれた者はヨガマットに寝転んで忘れていた記憶を呼び戻してもよい)。

BYNAM、IDLE、ZOOLOGISTらによって調香された「アートパフューマリー」。コミュニティの香り「Scents of Community」や人口問題の香り「CBA」など、ストーリー性のある革新的な香りが並ぶ

 わたしと緑川とのあいだでいったいどのような「のむこう」が再浮上したか、それについてこの場で詳細に語るのは野暮というものだろう。ざっくばらんに挙げれば、わたしたちは緑川が最初に手がけた展覧会「自殺展」(2008)、夢の空間の四次元性=夢のなかでどのように「目を覚ます」か、日本における「美術」の起点には岡倉天心がいて、その天心がほかでもない『茶の本』を、しかも英語で書いたことの意味(浮茶?)、奇しくも緑川が「異次元のお茶」の着想源のひとつと考え、偶然、緑川がわたしを「浮茶」に誘った前後にある縁を通じてわたしも見ることになった映画『メッセージ』(2016、原題は“Arrival ”つまり「到来」)などについて語り終えると、すでに日は落ち、街は宵闇に包まれていた。お茶会が始まってすでに4時間が経過していた。それは決して「時計」で計れるようなたぐいの時間ではなかった。

 先にわたしは「浮茶」を通じて「浮上する」のは「オブスキュア」な「なにか」だと書いた。念頭に置いていたのは、かつて同じ概念を音楽を通じて提示し、その延長線上に「香水」の開発に至ったブライアン・イーノのことだ。そういえば、イーノの構想する「異次元のお茶」は、すでに1975年のアルバム『アナザー・グリーン・ワールド』で予告されていた。茶の原材料である茶葉も「グリーン・ワールド」なら、お茶を立てる緑川自身も「グリーン・ワールド」のディレクターではなかったか。それなら、イーノがみずからを「ノン・ミュージシャン」と呼ぶように、緑川が名乗る「アートディレクター」とは、イーノの呼ぶ「ノン・ミュージシャン」(音楽家にはできない音楽が存在する)としての「ノン・アーティスト」のことかもしれない。

内田洋子、鈴木滋子、mayu yamadaらによるガラス作品を茶器に見立てて展示

『美術手帖』2025年4月号、「REVIEW」より)