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2026.6.11

地域レビュー(東京):齋木優城評「六本木クロッシング2025展」、「マルチプル_セルフ・ポートレイト」

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューシリーズ。本記事では、齋木優城(キュレーター)が今年東京で開催された2つの展覧会を通じて、暴力や戦争が現実として加速する同時代のなかで、現代美術がいかに現在と向き合いうるのかを考察する。

文=齋木優城

「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(森美術館、東京、2025-26)の展示風景より、北澤潤《フラジャイル・ギフト・ファクトリー》(2025) 撮影:竹久直樹 写真提供:森美術館
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戦争の時代に、美術は何を語りうるのか

 2025年2月28日、イラン南部にあるシャジャレ・タイエベ小学校がトマホークミサイルによって攻撃され、少なくとも168人の死亡が確認された。この攻撃はアメリカおよびイスラエル軍による作戦行動であると報じられており、両国はイランの核の脅威を排除すべく弾道ミサイル能力を破壊し、イラン国民を専制的な神権政治体制から解放することを作戦の動機として主張している(*1)。

 この地域レビュー連載では、展覧会の情報とともに同時代の空気感を記述することを続けてきた。しかし、この数ヶ月、世界はもはや「空気感」などという抽象的な表現に留まれないほどの濁流に呑み込まれている。剥き出しの暴力が日常を侵食する戦時下の相貌が呈される世界情勢のなか、現代美術は何を提示しうるのだろうか。

北澤潤、ひがれおの展示、六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(森美術館)より

 「六本木クロッシング」は、森美術館の主催により3年ごとに共同キュレーション形式で開催される現代美術のグループ展であり、今年は21組の作家が紹介された。すべての作家について言及することはできないが、この展覧会のなかでもとくに印象に残った第3のセクション「ともにある時間」について、書き残しておこうと思う。このセクションではアメフラシ、北澤潤、Multiple Spirits、宮田明日鹿、ひがれおらの作品が展開されおり、それぞれの作家が東京や日本といった場所に限定されない様々な地域・コミュニティに根差した活動を行っていることが紹介されていた。

「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(森美術館、東京、2025-26)の展示風景より、北澤潤《フラジャイル・ギフト・ファクトリー》(2025) 撮影:竹久直樹 写真提供:森美術館

 展示室の一角に展示されていたカラフルな戦闘機は、北澤潤《フラジャイル・ギフト・ファクトリー》(2025)である。この作品は、2020年頃からインドネシア・ジョグジャカルタに暮らす北澤が21年より開始したプロジェクト「フラジャイル・ギフト」の派生として展開されたものだ。翼を広げた巨大な戦闘機の姿とは裏腹に、その機体は布でつくられ、竹で組まれた手づくりの足場に支えられている。機体をかたちづくる色とりどりの布は、バティックと呼ばれるインドネシアの伝統的な染色技法を用いて染められている。この技法はいわゆるろうけつ染めの一種であり、会場内にはバティックに使われる道具たちも一緒に展示されていた。作品タイトルの通りまさに「フラジャイル」な素材である手染めの布と、軍事的で重厚なイメージを持つ「戦闘機」というモチーフは、ちぐはぐなコントラストをなしている。機体が布や竹といった軽い素材でつくられているのは、インドネシア現地の凧職人たちと北澤の協働作業によって、この作品が実際に空を飛ぶ凧として設計されているからである。

 日本は1942年から45年までの3年間、インドネシア(当時のオランダ領東インド)を統治下に置いており、現地ではいまも日本統治下の記憶が人々の心に色濃く残っている(*2)。この戦闘機型の凧は、北澤がインドネシアの空軍博物館で出会った日本の「隼(中島キ43)」をもとに制作された。北澤は、バリで伝統的に行われる凧揚げ祭りで見た龍のかたちの大きな凧と、この戦闘機の姿を重ね合わせたという(*3)。戦闘機「隼」は日本軍のインドネシア侵攻時に主力機として使用されたが、後にその機体表面を塗り替えてインドネシア独立戦争においても使用された経緯をもつという。インターネットでインドネシアの「隼」について画像検索してみると、機体全体は森と同化する深い緑色、翼の下に備え付けられたタンクは空と同化する青色に塗られ、プロペラはグレーに、尾翼は国旗を連想させる赤と白に塗分けられている。《フラジャイル・ギフト・ファクトリー》で展示されている凧もまた、緑、青、グレー、赤という4つの色で構成されているが、それぞれの色は本物の「隼」に比べてずっと明度が高い。同じ色を異なる彩度で塗りなおすことで、「色」が持つ役割は自然と同化し攻撃を仕掛けやすくするため、凧として空を飛んだときに鮮やかに映える祝祭的な要素へと変化している(*4)。また、これらの布に染められているのは、日本植民地時代の記憶をもつ人々の言葉や当時の記録写真をなぞったイメージである。北澤は全4回のワークショップを実施し、言葉の一つひとつや色彩の意味を確かめながらバティック染めを行った。植民地政治のなかでインドネシアへと持ち込まれた戦闘機が、現地の職人の協力によって凧へと生まれ変わる過程は、植民地主義の歴史に向き合いながら個人の証言を見つめ直す有機的な実践である。

北澤潤の語りによる同プロジェクトのドキュメンタリー映像が本展で上映中の様子 撮影:竹久直樹 写真提供:森美術館

 展示室では、北澤本人の語りによる同プロジェクトのドキュメンタリー映像も見ることができた。凧づくりを手がける現地の団体との交流や職人へのインタビュー、そしてインドネシアでのテスト・フライトの様子は、作家自身が地元のコミュニティーと接する真摯な態度を捉えたものである。この映像を通して北澤はインドネシア語で話しており、日本語と英語での字幕が付いていた。このことは、作家自身が現地の人と密に協働することで、作品づくりのなかにある「語り」を共有していることを強く印象づけた。

 いっぽう、ひがれおの展示スペースには、沖縄生まれの筆者にとっては馴染みのある人形がずらりと並んでいた。これらの人形たちは、戦後の沖縄で米軍向けの土産物として人気を博した「琉球人形」である。琉球王国を思わせる華やかな紅型や花笠を着用したり、琉球舞踊の場面を再現した琉球人形は、沖縄の女性たちによってつくられてきた。戦後の戦災未亡人となった多くの沖縄女性たちにとって、人形づくりは手に職をつけ経済的に自立するための産業であり、琉球政府の主催による技術研修も行われていたという(*5)。ひがれおは、土産物としての人形が沖縄で生産された背景に着目しつつ、いまでは人気が衰えてしまった琉球人形たちを自らの手で収集し、再提示するプロジェクト「琉球人形あつめ」を行っている。今回の展示においては「琉球人形あつめ in 内地」という副題が付けられていた(*6)。

「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(森美術館、東京、2025-26)の展示風景より、ひがれお《琉球人形あつめin内地》(2025) うちなーぐち表記協力:比嘉靖和、與儀幸太郎 撮影:竹久直樹 写真提供:森美術館

 とくに印象的だったのが、展示台の後方にぽつんと置かれた透明の扉《堺(さけー)》である。扉のノブには房飾りがついているいっぽうで、扉の表面には「U.S. MARINE CORPS FACILITY」という大きな文字に始まり、「UNAUTHORIZED ENTRY PROHIBITED AND PUNISHABLE BY JAPANESE LAW.  無断で立ち入ることはできません。違反者は日本国の法律に拠って罰せられる。」という物々しい注意書きが綴られている。これは沖縄県内に多数存在する在日米軍基地のフェンスに掲げられた文言である(この文言は脚色されたものではなく、現在も沖縄県内の米軍基地のフェンスには同内容を記した看板を多数見ることができる)。この注意書きは沖縄県ひいては日本側へのメッセージでありながら、その表記はつねに英語が先立ち、後ろに日本語訳が追いかけ、しまくとぅば(琉球諸語)はそこに存在しないかたちとなっている。この透明な扉を覗こうと作品の横に立つと、その向こうに紅型を纏った琉球人形が見える。英語が日本語より優位にあり、なおかつ現地の言葉は抹消された「基地の文法」越しに琉球人形を眺める行為は、アメリカから沖縄へと向けられてきた、そして日本から沖縄へと向けられてきたまなざしとその制度化を暗喩するようでもある。

ひがれお《堺(さけー)》(2025)の展示風景 撮影:筆者

 特筆すべきは、ひがれお作品のキャプションはすべてしまくとぅば、日本語、英語の順でタイトルが表記されていたことであろう。3つの言語をキャプションに含め、そのなかでもしまくとぅばを先頭に置く実践は、我々に美術館のなかで求められるある種の定型と、その定型が内包する権力勾配について再考を促すものである。さらに、先に言及した作品《堺(さけー)》が英語を筆頭に日本語訳を付記し、しまくとぅばについては無視する構造になっていたことと照らし合わせると、このキャプションはそれと真逆のものになっている。展示を構成するうえでの主要な言語としてしまくとぅばを位置づける試みによって、標準語励行運動の憂き目にあった言語に再び光が当たっているのだ。

 ここで、筆者はひがれおのキャプションと、北澤の作品内で上映されていたドキュメンタリー映像の類似性に思いを馳せた。北澤がインドネシア語をメインの言語として用い、日本語と英語を字幕へと退かせた点は、移住者と地元住民、ともすれば過去の支配−被支配という、非対称性を帯びかねない関係性を自覚的に転倒させる態度を象徴していたようであった。このことは、周縁化された言語を記述の中心に置き、美術館という権威的空間においてマジョリティの言語的自明性を揺さぶったひがれおと共鳴しているだろう。六本木クロッシングを主催するのが、東京の大手ディベロッパーが手がけた森美術館であることとも相まって、北澤とひがれおの作品が同じ展示室のなかで展開されていたことは、同展のなかでもとくに印象に残るものであった。

*1──Osuh, C. (2026). Iran war timeline: civilians bear brunt of US and Israel’s weeks-long campaign. The Guardian. https://www.theguardian.com/world/2026/mar/22/iran-war-timeline-civilians-bear-brunt-of-us-and-israels-month-long-campaign, [Accessed 4 Apr. 2026].
*2──統治時代、日本は大東亜共栄圏構想のもと、インドネシアに対してプロパガンダなどの活動を行ったものの、独立を望むインドネシア国民からは大きな反発があった。現在でも、インドネシアでは日本占領下の慰安婦(Ianfu)問題などを調査するコレクティヴ・ARSIPARIAが活動するなど、植民地政策下における両国の関係性が批判的に問い直されている。齋木優城 (2025)「ジャカルタのアートシーン:Gudskulへの訪問から。ルアンルパらが運営する美術学校に見るコミュニティのかたち」 Tokyo Art Beat. https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/gudskul-report-202512 [Accessed 4 Apr. 2026].
*3──北澤潤 (2022). statement — junkitazawa.  Junkitazawa.net. https://junkitazawa.net/statement_japanese  [Accessed 4 Apr. 2026].
*4──森美術館のFlickerページでは、北澤によるワークショップの写真記録を見ることができる。森美術館 (2026)「北澤潤 オープン・ファクトリー 」 Flickr. https://www.flickr.com/photos/moriartmuseum/albums/72177720332726525/ [Accessed 4 Apr. 2026].
*5──琉球朝日放送 報道制作局 (2008)「Qリポート 琉球人形が架け橋」 QAB NEWS Headline、https://www.qab.co.jp/news/200802152744.html [Accessed 4 Apr. 2026].
*6──「内地」という表現は、もともと植民地政策のなかで日本の共通法が適用される土地とそうでない場所を分けるため内地/外地という区別を設けた際に生まれた日本語の概念である。しかし、現在では沖縄県以外の日本の場所(本州、北海道、四国、九州)を意味する言葉として沖縄で広く使われており、日本語が沖縄に流入したことで発生したウチナーヤマトグチ表現として捉えることができる。

ユアサエボシの展示、マルチプル_セルフ・ポートレイト」より(東京都現代美術館

 続いて紹介したいのは、2025年に開館30周年を迎えた東京都現代美術館のコレクション展「マルチプル_セルフ・ポートレイト」である。このコレクション展においては、森村泰昌ユアサエボシ松井えり菜の3名は同館収蔵作品のほか、借用作品を交えた特別構成の展示が展開されていた。さらに、同コレクション展は「セルフ・ポートレイト」、すなわち自画像あるいは自写像という切り口から、ミヤギフトシ横山裕一、開発好明、豊嶋康子、郭徳俊、アンディ・ウォーホルらといった作家の収蔵作品が紹介されていた。なかでも、とくに松井えり菜の近年の作品群には、妊娠・出産と子育ての経験が自己認識に変化を与える様子が自画像を通じてユーモラスに表現されており見応えがあった。

 同コレクション展のなかでも異色の展示構成となっていたのが、ユアサエボシ(1983〜)の作品群である。ユアサは、大正生まれの架空の三流画家「ユアサヱボシ(1924〜1987)」に擬態して作品を発表している(*7)。会場内には「架空の三流画家 ユアサヱボシの略歴」と題された年表が堂々と掲示してあり、非常に詳細なヱボシのプロフィールが明かされていた。架空の年表によれば、ヱボシは1924年に千葉県東葛飾郡に生まれ、16歳で福沢一郎絵画研究所の門を叩き、エルンストの作品を見て画家を志す。その後、山下菊二と出会い、戦時下で画材が入手できないなか、雑誌の挿絵を利用したコラージュをつくり始める。ヘルニアのため徴兵検査には不合格となり、進駐軍の米兵との関わりからアメリカに興味を持ち戦後は渡米。その後はシェル美術賞の佳作入選などを経るも、1985年にアトリエ兼自宅が全焼し、そのときのやけどがもとで1987年にその63歳の生涯を閉じる……。なんの前提もなしに読めば、まるで本当にそんな画家が実在していたかのような錯覚に襲われるほど、ヱボシの人生に関して詳細な設定が共有されている。「ありえたかもしれない過去」をするユアサの活動は、徹底してスペキュラティブな実践であるといえよう。

「開館30周年記念 MOTコレクション マルチプル_セルフ・ポートレイト」展(東京都現代美術館、2025)の展示風景より、左はユアサエボシ《軍装姿の自画像》(2022、高松市美術館蔵) Photo by Masaru Yanagiba 写真提供:東京都現代美術館

 例えば、《軍装姿の自画像》(2022、高松市美術館蔵)は、書き割りのジャングルを背景に、測量ポールを持ち、ビニールマスクをつけたヱボシが軍服姿でポーズをとった作品である。架空の年表からわかるように、ヱボシは徴兵されず戦地には赴かなかったという設定のため、この作品には二重の嘘が含まれているといえる。会場に設置されたキャプションによれば、ヱボシが手にするポールは彼が一時期従事していた道路工事関係の仕事を示唆するものであり、ビニールマスクはテレピン油のアレルギーのため、福沢一郎研究所で身に着けていたものだという。ヱボシにとってみれば、近しい存在だった山下菊二が徴兵され戦場を体験する様子(*8)などを実感していたわけで、その心境は複雑だったのかもしれない。ビニールマスクの下の表情は無機質で、徴兵検査に不合格だったことへのコンプレックスや罪悪感が滲んでいるようにも、戦地へ赴くことへの恐れと緊張が見てとれるようでもある。

ユアサエボシ《GHQ PORTRAITS》(2017)の展示風景 撮影:筆者

 さらに、《GHQ PORTRAITS》(美術館内のキャプション上では実際の制作年である2017年の作品と記載されているが、ヱボシの架空年表上では1945年頃の作品であることが拝察される)では、糊口をしのぐべく進駐軍の米兵相手に描いたという設定の似顔絵が18点展示されていた。これらの似顔絵はすべて瓦に描かれ、一部は経年劣化によって変色したり、欠けている部分もある。これらは「2016年にワシントン州にあるダニエル・ボリアン(54)の自宅屋根裏で偶然発見された作者不明の似顔絵」であるという設定も付随しており、似顔絵の脇にはそのことを報じる新聞記事、それぞれの似顔絵のモデルとなった兵士の名前の一覧表までが掲示されていた。当然、これらすべての情報は虚構である。しかし、ユアサはインタビューのなかで、合成繊維に似顔絵を描いた「きぬこすり絵」という土産物が、戦後アメリカ兵を相手に流通していたことも実際にあると述べており、虚構と現実が巧妙にリンクする状況がつくり出されている(*9)。考えてみれば、先のセクションで言及したひがれおの「琉球人形」も、沖縄に進駐した米兵向けの土産物として流行していたものなのだ。ユアサとひがれおの作品は偶然にも重なり合い、たんなる旅の記念品ではなく、ある種のコロニアリズムや権力関係を象徴する品としてのスーベニールの存在が示唆されている。

「開館30周年記念 MOTコレクション マルチプル_セルフ・ポートレイト」展(東京都現代美術館、2025)の展示風景より、ユアサエボシの作品群 Photo by Masaru Yanagiba 写真提供:東京都現代美術館

 ユアサの一連の作品を「ありえたかもしれない過去」として鑑賞するうちに、筆者の頭のなかにはひとつの懸念が湧いてきた。これは「過去」なのだろうか? 私たちは実際に、戦禍の時代を生きている。展示室を出てニュースを開けば、新たな地域への攻撃が始まっており、数えきれない命が奪われている。この展示室のなかで、鑑賞者は疑うことなく「戦前生まれの架空画家」という設定に第二次世界大戦を思い浮かべ、過去の戦争と現代を生きる私たちの姿を重ねている。しかし、ヱボシが歩んだ虚構の人生は「ありえたかもしれない過去」から「すぐそこにあるかもしれない未来」へとその位相を反転させているのではないか。ユアサが編み出した虚構の歴史は、2026年現在の政治的緊張のなか、もはや予言的なシミュレーションのようにも見えてくる。世界のあらゆる土地での戦禍がリアルタイムに報道され、刻一刻と変化する戦況をスマートフォンひとつで追える現在、作品と対峙する私たちの心境は揺さぶられ続けている。「みんなが戦地に行っている」ことをインスタグラムのストーリーズで知る未来があるのだとしたら、私もヱボシのように一抹の罪悪感を抱くのかもしれない。自分自身に問いながら帰る道すがら、東京の空には戦闘機も凧も、まだ見えない。

*7──本稿においては、1983年生まれの作家自身を「ユアサエボシ」あるいは「ユアサ」、1924年に生まれたとされる架空の三流画家を「ユアサヱボシ」あるいは「ヱボシ」と表記することで区別する。実際に、東京都現代美術館の展示においても略歴に記された架空画家の名前は「ユアサヱボシ」であり、存命作家であるユアサとは異なる人物として記述されていた。なお、美術館内でのキャプションはあくまで「ユアサヱボシ研究家」によって書かれた、ということになっている。
*8──塚本麻莉(2026)によれば、山下はアジア太平洋戦争の際に中国戦線に送られ、戦地で日本軍の残虐行為を目撃した。このような経験は山下の画業に大きな影響を与え、後に社会的な作品を描くことへとつながっている。塚本麻莉(2026)「地域レビュー(四国):塚本麻莉評「神山アーティスト・イン・レジデンス2025」、「コレクション展 戦後80年─画家と戦争」(徳島県立近代美術館)」美術手帖、 https://bijutsutecho.com/magazine/review/31971 [Accessed 6 Apr. 2026]
*9──安原真広(2019)「現代美術を揺さぶる妄想の力。ユアサエボシインタビュー」 ウェブ版「美術手帖」、https://bijutsutecho.com/magazine/interview/20892 [Accessed 5 Apr. 2026]