2025.6.10

追悼 刀根康尚──大友良英による追悼文

実験的な音楽表現で知られ、音楽と美術の境界を超える活動を行ってきたアーティスト・刀根康尚が2025年5月12日に亡くなった。親交のあった音楽家・大友良英による追悼文を掲載する。

文=大友良英

刀根康尚 撮影=丸尾隆一(YCAM)写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]
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 恐らくほとんどの音楽家は、なんらかの方法で自身がつくり出す音の美的な価値判断をしながら演奏や作曲をしている。わたしとて例外ではない。自分の演奏を美的な価値判断に合わせてどう鍛え上げていくかで日々過ごしていると言っても過言ではないだろう。その意味で音楽家は美術家よりはずっと身体的でプリミティブな存在だ。

 美術は遥か以前から、この美的価値判断そのものに強い意思を持って疑問を投げかけることから創作を始めるようになっていった。現代の音楽はそんな美術の発想に強い影響を受けているけれど、わたしに言わせれば、たんに美的価値判断を時代に応じて更新してきたに過ぎない。無意識に美的な判断をすることへの距離をとったのが今の美術、そんな面倒臭いことはせずにその時代にカッコいいもんならOKとしたのが今の音楽。かなり雑で乱暴ではあるけど、わたしはそんなふうにとらえている。

 そんななかで、1960年代から今日に至るまで徹底的に現代美術的な発想で音楽をつくり続けてきたのが刀根康尚だ。その立ち位置は音楽家であるのか美術家であるのかすらわからないし、当然その作品は美術とか音楽といったカテゴリーを最初から超えてしまっている。

 こんなことを言うと、「境目なんてものは、もともとないもの、ゴチャゴチャが当たり前」。そんな答えが返ってきそうだ。

 刀根さんがこだわり続けたのは複製とメディアだった。

「複製っていうのは、再現手段ですよね。でも、複製を手段としてではなくて、複製そのものがアートになり得るんじゃないか、と」

「基本的にはメディアをどう使うかということなんです。メディアは手段であるというふうに考えないで使う」(ともに拙著『音楽と美術のあいだ』より)

 初期にはテープレコーダーを、また80年代以降はCDやmp3等のデジタル複製技術を、さらには最近ではAIを使い、その技術を生んだ製作者の意図とは異なるバグのようなものを拡張、あるいは暴走させることで刀根さんは作品をつくり続けた。その探求はデジタルやアナログのテクノロジーだけではなく、最古のメディアでもある文字の解体にも向かっていた。

 当初の目的を失い暴走する複製機械が出す音は、徹底的に無機的でありながらこれまでのどんな音楽よりも暴力的でもあった。刀根さんがノイズの元祖として、世界中のノイズメーカー達からリスペクトされている所以だ。でも、その刀根さん自身は、出てくる音の結果を美的な判断に委ねることを拒否し続けてもいた。

 刀根さんは1935年東京生まれ。60年に日本初の即興演奏集団「グループ音楽」を小杉武久や水野修孝らと結成。62年にはフルクサスに参加、日本初のコンピュータ・アート・フェスティバルを65年に企画。『美術手帖』の編集委員などを経て72年に渡米。それ以降、ニューヨークを拠点に今日に至るまで数多くの作品をつくり続けてきた。このあたりのことは読者の皆さんもよくご存知だろう。

 刀根さんとの出会いは2001年。わたしが自分なりの道を歩むことができたのは、刀根さんが切り拓いた道があったからと言っても過言ではない。その刀根さんと出会えたことが何より嬉しかった。それ以降は、ニューヨークや東京などで何度か共演をし、ともに時間を過ごしてきたけれど、何より大きかったのは2017年にわたしが芸術監督を務めた札幌国際芸術祭において刀根さんの作品を紹介する機会をつくれたことだ。それに先立ち、ニューヨークで長時間の対談したことも忘れられない(この対談は拙著「音楽と美術のあいだ」に収められている)。

 この時期、すでに長距離のフライトが厳しい状況だった刀根さんの意思を汲みつつ、札幌では薮前知子のキュレーションで刀根さんのAIのコンサートが行われた。タイトルは「AI deviation」。照明等一切の演出もない地明かりステージにはラップトップが無造作に置かれ、同じく地明かりの会場にはひたすら暴走する刀根さんのAIからの爆音が放たれ続けた。最後には、当時まだ不完全だったAIが延々と同じシークエンスを繰り返し出し、テクニシャンの伊藤隆之が電源を切って強制終了。通常のホールなのにコンサートの体をまったく成しておらず、この徹底して無造作な感じがめちゃくちゃかっこよかった。

刀根康尚《AI Deviation ライブ》(札幌国際芸術祭2017でのライブパフォーマンス)
提供=札幌国際芸術祭実行委員会
刀根康尚《AI Deviation ライブ》(札幌国際芸術祭2017でのライブパフォーマンス)を聴く大友
提供=札幌国際芸術祭実行委員会

 刀根さんは説明の文章にこんなことを書いている。

AI Deviationは、ヴァーチュアルなYasunao Tone(略称〜V.Y.T)が演奏を行いますが、このV.Y.T. はフィジカルに存在するYasunao Toneを否定するべく出現するのであり、絶対的にヴァーチャルであることによって、あらゆる現前するYasunao Toneという主体はV.Y.Tと、このヴェニューにおける観衆との協働によって乗り越えられ、作者という現前の不在が可能であるような自律的な分野を創出するのです。

 刀根さんは、最後まで徹底して、音楽家の美的な価値観を嘲笑っていたと思う。でもこの不安定なAI作品の音ですらも刀根さんそのもので最高にカッコよく聴こえてしまう矛盾。こんなことを言うと、きっと、あの独特の江戸弁で「馬鹿に付ける薬はねぇな......」なんて笑いながら返されそうだけど、でも、こんなメチャクチャなもんに身体でカッコよさを感じる世代が出てきてしまったのは刀根さんの功績(責任?)だとも思っている。