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2025.8.6

「原爆の図」は何を訴え続けてきたのか。被爆80年で問い直す「記憶」と「継承」

広島・長崎への原爆投下、そして終戦から80年目となる今年。丸木位里、丸木俊が共同制作し、現在修復作業が進む大作「原爆の図」が伝えるものを、あらためて振り返る。

文=岡村幸宣(原爆の図丸木美術館 学芸員・専務理事)

現在の原爆の図 丸木美術館「原爆の図」展示風景
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「八月六日」という題で発表された第1部《幽霊》

 原爆投下から80年目の8月がめぐってきた。80年という歳月は、人間の持ち時間にほぼ等しい。原爆を体験した方がみずからの言葉で記憶を伝える機会は、確実に少なくなっている。しかし、残されたモノは人間より長く世に残り、多くの人とイメージをシェアすることができる。

 丸木位里、丸木俊の共同制作「原爆の図」は、描かれた当初から国内外を巡回して人びとに原爆の惨禍を伝える役割を担ってきた。そして現在もなお、残された記憶をつなぐ役割を果たし続けている。

 埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館は、位里と俊自身によって、「原爆の図」を常設展示する目的で1967年に開館した。開館から50年の節目にあたる2017年に「原爆の図」の保存修復や建物の改修工事を目的にした「原爆の図保存基金」を立ち上げ、国内外に寄付を呼びかけてきた。「原爆の図」の修復は愛知県立芸術大学文化財保存修復研究所に依頼し、今年6月に第2部《火》が、裏打ち紙を貼り替え、屏風を新調するなどの修復を終えて丸木美術館に帰ってきた。第1部《幽霊》は2023年7月に修復済みだが、丸木美術館が収蔵する「原爆の図」は全部で14点あるから、すべての作品を修復するまでの道のりは先が長い。

愛知県立芸術大学による「原爆の図」修復

 原爆の図第1部《幽霊》は、1950年2月、東京都美術館で開催された第3回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に「八月六日」という題で発表された。当時、日本は米軍を中心とする連合国軍に占領され、原爆被害を報道してはいけないというプレスコードが設けられていた。位里と俊は周囲の反対により「原爆」の語を使うのを避けたが、翌3月に日本橋丸善画廊で開催した展覧会では「原爆の図」という本来の題を用いた。半年後には第2部《火》、第3部《水》が完成し、8月に日本橋丸善画廊、銀座三越で「原爆の図」三部作展を開催。「原爆の図」は人びとに衝撃を与え、各地を巡回していくことになる。俊は当時の様子を、次のように回想している。

 まさか全国何百ヵ所もめぐり歩こうとは思っていませんでしたので、原爆の図はカリバリに張ってあったのです。はじめ東京で二、三ケ所移動しただけでトラックのしんどうで画面がすれ、痛みがひどいのにびっくりしていました。
 そこで、九州へ持って来て見せろといわれ、さて、この六尺に四間の大画面三つの大荷物をどうやったものかと案じていました。
 考えあぐねたすえ、軸物になり、さんぱ二十四本。六部できましたので、ろっぱ四十八本の軸物に仕立て上っているのです。
(「のり」、丸木位里・赤松俊子画文集『ちび筆』、42-43頁、室町書房、1954)

 移動展示のため機動性を重視して軸装された「原爆の図」は木箱に収められ、手持ちで運ばれた。さらに位里と俊やほかの画家の手で「原爆の図」三部作は再制作され、オリジナルとともに巡回展に活用された(再制作版は広島市現代美術館蔵)。1950年から53年までのあいだに、開催日時や会場が判明している展覧会だけで約170ヶ所、170万人以上が観たと推測される。被爆写真の公開すら禁じられていた時期に、「原爆の図」は原爆被害の視覚的なイメージを人びとに伝え、広く社会に知られていった。

1952年8月、東京・武蔵野市の平山博物館原爆の図展