「没後20年 東野芳明と戦後美術」(富山県美術館)開幕レポート。現代美術の伴走者の足跡を珠玉の収蔵品とたどる
富山市の富山県美術館で、美術評論家・東野芳明(1930〜2005)の歩みを紹介する展覧会「没後20年 東野芳明と戦後美術」が開幕した。会期は4月6日まで。
文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

富山市の富山県美術館で、美術評論家・東野芳明(1930〜2005)の歩みを紹介する展覧会「没後20年 東野芳明と戦後美術」が開幕した。会期は4月6日まで。担当は同館学芸員の遠藤亮平。

東野芳明は1930年東京生まれ。54年東京大学文学部美学美術史学科卒業。同年、『美術批評』の新人評論募集で第1席を受賞する。1950年代末に渡欧・渡米した東野は、そこで目にした欧米の「現代美術」をいち早く国内に紹介することに努め、60年代以降は「反芸術」と称した同世代の芸術家たちの伴走者として活動を後押しした。

本展は9章構成で、各章のテーマに沿って東野の著作を引きながら、その批評と思想をたどるものだ。第1章「『グロッタの画家』まで」では、東野が「パウル・クレエ試論」で『美術批評』の新人評論募集の第1席を獲得し、怪奇・幻想的な画家を取り上げのちに初の著書となる『グロッタの画家』までの歩みを紹介。

パウル・クレー、サルバドール・ダリ、マックス・エルンストといった西欧の画家から、前田常作、小山田二郎、小野忠弘、利根川光人といった当時の日本の前衛画家までを展示し、東野の初期の仕事を振り返る。

第2章「『パスポート・NO.328309』 初渡欧・初渡米」では、東野とアメリカ現代美術の出会いをたどる。ヴェネチア・ビエンナーレ展の副代表としてヨーロッパを訪れて1年半を同地で過ごし、さらにアメリカ現代美術の現場を見るために渡米をする。アメリカではジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグらと邂逅し、以降の東野のアメリカ現代美術への興味を決定づけることになった。

第3章「『現代美術 ポロック以後』 ヤンガー・ジェネレーションの冒険」では、帰国後に東野が連載を始め、のちに『現代美術 ポロック以後』(美術出版社)として単著になった、同時代の芸術家に焦点を当てた本格的な作家論を紹介。

ここではジャクソン・ポロック、アントニ・タピエス、ルイーズ・ネヴェルスン、ジャン・デュビュッフェ、ルーチョ・フォンタナ、ジャン・フォートリエなど、当時東野が着目した作家たちの作品が富山県美術館のコレクションから紹介されている。いずれも、いまとなっては歴史的作家だが、東野の時代はまさに同時代の作家たちだった。こうした欧米の動向を日本で紹介するのも東野の重要な仕事であり、ラウシェンバーグ、フォートリエ、ジャン・ティンゲリーらが日本で個展を行う際は、東野が重要な枠割を果たした。

また東野は、同い年ということもあり、とくにジャスパー・ジョーンズを重要な作家として扱い個人的にも親交を結んだ。本展ではふたりの親交を伝えるかのように、各章の数字に沿ってジョーンズの「黒の数字」シリーズ(1968)が展示されているので、こちらも注目したい。


第4章「『アメリカ「虚像培養国誌」』60年代アメリカ/日本」は、東野が現代美術の中心地であるアメリカに幾度もわたり、60年代の観念的な傾向を強めるアメリカ美術を鋭く批評した事例を紹介。

何よりもこの時代のアメリカ現代美術の代表ともいえるのが、アンディ・ウォーホルだ。東野はウォーホルらの活動を紹介するいっぽうで、美術とデザインの境目があいまいになっていく時代の空気をそのテキストでとらえた。東野は当時、デザイナーから美術家になろうとする横尾忠則などを例に挙げながら次のように書く。
「デザインと美術の固くるしい差別を一度御破産にして、どちらも芸術として、あるいはどちらもデザインとして眺めなおして見る方が必要なのではあるまいか」(東野芳明「美術とデザインの間」『色彩と空間展』テキスト、1969)
会場に並んだ、フィリップ・キングや山口勝弘の作品を見ながら、いまもこのときの提示の有効性が確認できるだろう。

第5章「『マルセル・デュシャン』 現代美術の原基」は、東野が生涯にわたって研究を続けた、現代美術の始祖とされるマルセル・デュシャンを特集。東野がどのようにデュシャンをとらえ、実際に交流をしていたのかを知ることができる。

第6章「『つくり手たちとの時間―現代芸術の冒険―』 東野芳明と芸術家たち」は、東野が国内外の芸術家と深い親交を結び、近傍からその制作を見つめた事例を紹介。
草間彌生、ブリジット・ライリー、石岡瑛子、斎藤義重にいたるまで、東野はときに自らが展覧会を企画することでアーティストたちの評価を世に問うてきた。特定の分野やジャンルにとらわれない、時代精神として現代芸術を見つめたその視座が伝わってくる。

第7章「『曖昧な水』のように」は、70年代以降、東野が強い興味を示し続けた「水」に着目。水にまつわる芸術、文学、哲学などあらゆる事象に関心を抱いていた東野は、素潜りに熱中して水中写真の撮影を行い、作品も残すなどユニークな実作も行っている。

第8章「東野芳明旧蔵作品」は、富山県美術館が所蔵する、東野旧蔵の書籍や作品、資料を紹介。90年に東野は病に倒れ、自宅に保管していた旧蔵品は富山県美術館の前身である富山県立近代美術館(1981〜2016)が収蔵した。東野と芸術家との交流をいまに伝える品々が展示室には並ぶ。

最後となる第9章「東野芳明と富山県立近代美術館」は、東野が開館前より相談役を引き受けていた富山県立近代美術館の歴史を振り返る。当初、富山県は初代館長を同県出身の瀧口修造に打診したものの辞退。そのあとを継ぐかたちで瀧口を慕う東野が相談役を引き受けた。

東野は現代美術を軸とする同館の開館にあたって、次のようなテキストを寄せている。
20世紀もあと20年あまりになった現在ですら、まだモダン・アートが「わからない」という声の強いこの国で、この美術館に寄せられる期待は、はかりしれないものがある。
(東野芳明「カタルニアの星 ジョアン・ミロ 県立美術館との出会い」抜粋『北日本新聞』、1978年3月30日)

また、東野は同館を舞台に開催された富山国際美術展の実行委員やコミッショナーも務めた。なかでも、辰野登恵子、矢野美智子、吉澤美香らが参加した第2回展においては、次のテキストを寄せている。
女は、男の視線の中で、見られる対象として培養されてきたし、女が自立して、なにかを表現しようとすると、”女らしさ”とか、あるいは”女の表現は非理知的で情熱的で肉感的だ、という、評価の囲いが最初から与えられ、その囲いのなかで愛玩されてきた。
(中略)
いま、女性たちは、男の視線の射程から限りなく遠ざかろうとしている。あるいは、男の視線を揺さぶり、混乱させ、宙吊りにしようとしてる。封印されてきた未知の可能性を思い切り展開しようとしている。これは”女らしさ”だとか”情念的”といったレッテルとは全く関係がない領域だし、といって、男に追い付き、追いこせというつま立ちでもない。
(東野芳明「富山ナウ'84―日本セクション」抜粋[『第2回富山国際現代美術展』図録収録])
以上、すでに30年以上も前に書かれたふたつのテキストで東野が投げかけたことについて、現代における美術はどのような答えを導けているのか。いまいちど考える必要があるかもしれない。
本展は欧米を中心に現代の美術を果敢にとらえようとした東野の生涯に沿うかたちで展開するが、その流れを的確に追うことができている富山県美術館の潤沢なコレクションには驚かされる。東野の撒いた種がどうなったのか、その答えは本展に並ぶ圧倒的なコレクションの量と質が雄弁に語ってくれるはずだ。
