2026.1.17

「生誕151年からの鹿子木孟郎 ―不倒の油画道―」(泉屋博古館東京)開幕レポート。写実を貫いた「不倒」の画家の四半世紀ぶりの大回顧

近代日本洋画において、写実表現を生涯貫いた鹿子木孟郎。東京では四半世紀ぶりとなる回顧展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ―不倒の油画道―」が、泉屋博古館東京で始まった。※撮影は主催者の許可を得ています。

文・撮影=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、右から2番目は《ノルマンディーの浜》(1907)
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 泉屋博古館東京にて、特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ―不倒の油画道―」が開幕した。会期は4月5日まで。

 本展は、近代日本洋画において本格的な写実表現を追求した画家・鹿子木孟郎(1874〜1941)の生誕150年を記念して開催される大規模な回顧展であり、東京では約四半世紀ぶりの開催となる。企画は同館館長の野地耕一郎が務めた。

 鹿子木は現在の岡山市に生まれ、14歳で洋画家・松原三五郎の天彩学舎に学び、のちに上京して小山正太郎の画塾・不同舎に入門。1900年には欧米留学に旅立ち、パリのアカデミー・ジュリアンでは、19世紀フランス・アカデミスムの巨匠ジャン=ポール・ローランスに師事した。帰国後は、関西美術院の設立や自らの画塾の運営を通じて教育活動にも尽力し、日本近代洋画の展開に大きな足跡を残している。

 本展は、鹿子木が初期に学んだ素描から、フランス留学時代の作品、帰国後に関西で発表した油彩画、さらに象徴主義へと接近した晩年の試みまで、その画業を網羅的に紹介する。文展や太平洋画会など主要展覧会への出品作をはじめ、師ローランスの作品、今回の調査で新たに確認された新出作品を含む約130点が展示されており、質・量ともに過去最大規模の構成で鹿子木芸術の全貌に迫る内容となっている。

 野地は本展について、「鹿子木孟郎の画業を、黒田清輝中心の美術史とは異なる語り口で見直す試み」と語る。印象派以後の潮流とは距離を保ち、写実の厳格さを生涯手放さなかった鹿子木の絵画は、写実表現が再評価されつつある今日の美術状況において、むしろ新鮮な輝きを放っている。

展示風景より、右は《野菜図》(1888)

 第1章では、鹿子木の画業の原点となる初期の歩みが紹介される。会場には、14歳の頃に描かれた《野菜図》(1888)をはじめ、不同舎時代の鉛筆素描が並び、若年期から基礎技術の習得に真摯に向き合っていた姿勢がうかがえる。対象を誇張することなく、丁寧に観察し描き出すその態度は、後年に至るまで一貫して鹿子木の制作を支える軸となっていく。

展示風景より、右は《日本髪の裸婦》(1899頃)

 第2章では、1900年に出発した最初の欧米留学に焦点が当てられる。鹿子木は渡米後、水彩・素描展を開催し、その売却益をもとにヨーロッパへ渡り、パリのアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスの教室に入学。西洋絵画の根幹である人体デッサンや油彩による裸体写生を徹底的に学ぶなかで、歴史画における群像表現に強い感銘を受け、全身像の習得に力を注ぐようになった。

展示風景より、右の2点は《男性裸体スケッチ(椅子)》(上)、《男裸体習作(背面) 》(下、いずれも1902)

 会場に展示される《男裸体習作(背面)》や《男性裸体スケッチ(椅子)》(1902)からは、アカデミーでの厳格な訓練の成果が伝わってくる。帰国後、鹿子木は京都に「鹿子木室町画塾」を開設し、後進の育成に力を注ぐいっぽう、自身の作品も積極的に発表した。《自画像》(1903頃)には、画家としての自信と確立されつつあった地位が率直に表れている。

展示風景より、《自画像》(1903頃)
展示風景より、左は《〈嵐の海〉模写(原画:クールベ作)》(1901-03頃)
展示風景より、右は《黄昏》(1905)

 第3章では、2度目・3度目の留学を通じて、写実表現をさらに深化させていく鹿子木の姿が提示される。ローランスの直接指導を継続的に受けながら油彩写生の技術を磨き、サロン入選や受賞を重ねた鹿子木は、国際的な評価も獲得していった。

展示風景より、《ノルマンディーの浜》(1907)

 《ノルマンディーの浜》(1907)は、着衣人物の群像表現を課題とし、漁夫一家の日常を描いた作品で、1908年春のサロン入選作である。帰国後の第2回文展にも出品され、日本近代洋画史における重要作と位置づけられている。

 最終章では、鹿子木の晩年の制作に焦点を当て、写実を基盤としながら精神性や象徴性を帯びた表現へと展開していく過程が示される。第3次留学で出会った象徴主義の影響は、対象の外形のみならず、その内奥に潜む観念や存在感を捉えようとする姿勢として現れていく。

展示風景より、左は《木の幹》

 《木の幹》は、写実的な描写を保ちながらも、青空との対比によって一本の幹の存在感を際立たせ、対象の本質に迫ろうとする試みが見て取れる作品である。また、本展のキービジュアルとなっている《婦人像》では、人物のみならず背景となる室内の描写も丁寧に描き込まれ、たんなる肖像画を超えて、女性の内面や当時の生活様式を想起させる。

展示風景より、右は《婦人像》

 本展では、鹿子木の画業だけでなく、彼を支えたパトロンとの関係にも光が当てられている。1900年に渡欧を決意した鹿子木は、住友家15代当主・住友春翠の支援を受けてパリでの留学を継続。その返礼として、鹿子木は師ローランスの作品や、自作・模写作品を住友家に紹介・提供した。

 会場では、鹿子木が仲介し住友家にもたらした師ローランスの《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》(1877)が紹介されており、師弟関係とパトロン・住友家との結びつきを象徴する存在ともいえる。

展示風景より、ジャン=ポール・ローランス《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》(1877)

 本展は、たんなる周年記念にとどまらず、近代洋画の評価軸を問い直す契機ともなる。改めて鹿子木孟郎の絵と向き合うことで、描かれた対象の静けさのなかに潜む、時代や命の脈動に気づかされるだろう。