• HOME
  • MAGAZINE
  • NEWS
  • REPORT
  • 「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」(高知県立美術館)レポー…
2026.3.21

「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」(高知県立美術館)レポート。地方の前衛の貴重な記録と、現代に持ち帰るべきもの

高知出身の美術家、高﨑元尚と浜口富治の活動をたどりながら、1960年代の高知で起きた前衛美術運動の実像に迫る展覧会「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」が高知県立美術館で3月31日まで開催されている。

文・撮影=安原真広(編集部)

右が高﨑元尚《装置67》(1967)、左が《装置》(1964/1996)。比較すると高﨑の代表作「装置」シリーズが立体的に展開していったことがわかる
前へ
次へ

 高知市の高知県立美術館で「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」が開催されている。会期は2月28日〜3月31日。担当は同館主任学芸員の塚本麻莉。

 本展は戦後高知の前衛美術運動を牽引した2人の作家、高﨑元尚(1923〜2017)と浜口富治(1921〜2009)の活動を軸に、高知で生まれた前衛美術運動とその終焉までをたどることで、日本の戦後美術史の一局面に光を当てる試みだ。

 高﨑と浜口、高知の前衛を紹介するうえで、なぜこのふたりに焦点を当てたのか。担当の塚本は本展の図録に次のように記している。「本展がこのふたりを軸に据えたのは、作家活動が際立っていたことに加え、彼らが一貫して高知に拠点を置き、そこで起きた前衛美術運動の立ち上がりから、その変質に至るまでを当事者として関わり、かつ対照的な道を歩んだからだ(*1)。

会場入口

プロローグ

 展覧会はプロローグと7章で構成。高知の市街地は、45年7月の米軍による大規模空襲、そして46年12月の昭和南海地震で大きな被害を受けた。プロローグではこうした歴史が、山六郎と中村博のふたりの地元の洋画家の作品とともに紹介される。この街が急速な復興を遂げるなか、中村と山脇信徳のふたり、そして高知新聞社によって立ち上がったのが「高知県展」だった。

 塚本は高知の前衛の特徴として、つねにこの「高知県展」が活動の中心にあったことを指摘する。同展は一般に向けて広く作品を公募して審査する、いわゆる公募団体展であるが、いっぽうで行政ではなく民間企業と画家によって立ち上がったことに特徴がある。「前衛」という県展という権威と相容れないはずの芸術運動が、県展の内部で成立していたことは高知の前衛の特異な点だ。これを念頭に、以降の前衛の作家たちの活動を見ていきたい。

左から中村博《繊細教会》(1946)、山六郎《廃墟の高知市》(1946)。高知県展を立ち上げるために重要な役割を果たしたふたりの画家の作品。いずれも戦災で大きな被害を受けた高知市街の様子を題材にしている

 *1──『高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治』(ART DIVER、2026)頁149-159塚本麻莉「高知の前衛とはなんだったのか──高﨑元尚と浜口富治の実践を手掛かりに」

第1章「高﨑元尚:1950ー60年代初頭の展開」

 第1章「高﨑元尚:1950―60年代初頭の展開」は、まず高﨑に焦点を当てる。高﨑は1923年に現在の香美市に生まれた。高校卒業後は上京し、早稲田大学専門部工科建築科で学ぶが、在学中に美術に転向。42年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科に進む。しかし、学徒出陣で召集され、復員後に卒業するも、職を転々としたのち51年頃に高知に帰郷する。

 帰郷後の高﨑は、彫刻よりも絵画に関心を寄せるようになる。フィンセント・ファン・ゴッホやピエト・モンドリアンからの影響を受けつつ、やがて抽象表現へと向かい、それを「高知モダンアート研究会」などを組織することで普及させようとする。会場で見られる《かかし(A)》(1958)や《朱と緑》(1959)といった作品は、当時の高﨑の抽象絵画への意識をうかがうことができる。

左から高﨑元尚《朱と緑》(1959)、《かかし(A)》(1958)、《作品》(1958/2000)。赤と緑という補色関係にある2色を組み合わせた幾何学を描いている

第2章「浜口富治:1950―60年代の初頭の展開」

 第2章「浜口富治:1950―60年代の初頭の展開」では、浜口の初期の活動を辿る。浜口は1921年に現在の香美市に生まれ、幼い頃より絵を描くことを好んでいたが、42年以降は陸軍で軍隊生活を送る。復員後に前述の県展創始者のひとりである山脇に師事して絵画制作を本格化。具象画から抽象画へと作風を変化させていった。

 浜口の評価を決定づけたのが、実際の刃物を使用した絵画だ。浜口は第12回読売アンデパンダン展(1960)で刃物のシリーズを出展、評論家たちからも「反絵画」の実践として肯定的な評を受ける。会場で展示されている作品はサビが出てしまっているが、発表当初、キャンバスから突き出た刃物は輝いていたといい、第14回読売アンデパンダン展(1961)では同シリーズが危険であることを理由に出品を拒否されたこともうなづける。

左から浜口富治《裏町(朝)》(1950年代)、《出発》(1958)、《怒鬼》(1960)。年代を追うごとに抽象度が高くなっていっていることがわかる
左から《作題不詳》(1960年代)、《海の残骸》(1961)。現在は錆びて黒くなっているが、発表時は刃の部分が銀色に輝いていたという

第3章「高知の前衛:1950―60年代」

 第3章「高知の前衛:1950―60年代」は、高﨑と浜口、そのほかの作家たちたがいかに高知の前衛をかたちづくっていったのかを、具体的な作品を見ながら辿っていく章だ。

 高﨑と浜口は1962年に「前衛土佐派」を立ち上げる。これは、高﨑が組織した「高知モダンアート研究会」と、浜口を中心に60年に立ち上がった「新象会高知グループ」が合流するかたちで成立したものだ。先にも述べたように、この「前衛土佐派」は公募団体展や県展へのアンチテーゼとしてではなく、あくまでその内部で活動する集団とみなされていた。

 また、高﨑と浜口、そして「新象会高知グループ」の一部メンバーによって立ち上げられた運動「0グループ」も「前衛土佐派」の前身に位置づけられる。「0グループ」は1961年に「0」と書かれた新聞紙を貼ったボール紙からメンバー7名が顔を出し、高知の中心街でパフォーマンスを行った。会場ではその記録写真を見ることができる。イデオロギーや政治性を主張するわけではなく、自分たちの足跡を残してやろうという、若い前衛作家たちのその確信に満ちた表情は、のちに結成される「前衛土佐派」の性格を端的に表しているようだ。

 高知県展では、こうした前衛の勢いと足並みをそろえるように、抽象画がリードする状況が生まれていく。保守的な県展を外部から前衛が打ち崩そうとするのではなく、県展のなかで新旧の対立が生まれていたことは非常に興味深い事実だ。

0グループ「理由なくデモして街を歩く」(1961年7月、高知市帯屋町界隈でのパフォーマンス風景の記録写真)。上段左から浜口富治、堀槇吉、寺尾孝志、高﨑元尚、下段左から森田昭一、須藤康夫、坂田和
左から谷平務《切腹》(1964)、高﨑元尚《マリンスノウ》(1962)、浜口富治《ノアノア・ラ・メール》(1962)。いずれも前衛土佐派展に出展された作品

 また、前衛の作家たちは高知の街中にも様々な文化的コミュニティを発生させていく。喫茶店文化が根強く、また美術館や画廊の数が限られている高知という土地で、前衛の作家たちは喫茶店を作品発表の場として見出した。こうした喫茶店は地元の文化人が集う場でもあり、とくに50年代の高知では前衛詩が盛り上がったこともあり、美術と詩のジャンル横断的な交流が発生していた。坂本稔や岡崎功といった詩人が刊行した『MES』などの詩の同人誌に、前衛の美術家たちによる展覧会評や作品画像が掲載されていたことも、本展では丁寧に紹介されている。

上段が『MES』の前身となった『POP』、中断と下段が『MES』。ローカルな批評の場としても機能しており、当時の高知美術の美術の動向をいまに伝える

第4章「行為と挑戦:浜口富治の実践」

 第4章「行為と挑戦:浜口富治の実践」では、60年代の浜口の活動を紹介する。自然環境を作品の制作や発表の場としてとらえる「ランドアート」は、60年代後半からアメリカで盛んになったことが知られているが、浜口はそれよりも早い時期に、足摺岬の岩礁を赤く着彩する「赤い岩礁」運動を構想していた。

 さらに、架空の美術館のこけら落とし展の案内を各所に送る《絵のない(意識の)画題》(1961)や、第15回読売アンデパンダン展(1963)初日に、東京都美術館の食堂までトランクに入れて運んだ電気で動くオブジェによる「動くオブジェ巡回移動展」などを実施。これらの表現は、批評家・詩人の瀧口修造や、美術家・松澤宥との交流のなかで、より深化していくことになる。

右が浜口富治《足摺岬における「赤い岩礁による私的反抗」》(1961頃)、左の2点は《作題不詳》(1961頃)。高知から望む太平洋を作品のモチーフとしたもので、コンセプトはランドアートと異なるものの、類似する作品表現が先行して表れていることに注目
右の封筒と手紙が浜口富治《絵のない(意識の)画展─無意識のあそび 浜口富治個展─》(1961)。架空の展覧会のステートメントが書かれた紙と封筒で構成されている
浜口富治「動くオブジェ巡回移動展」のために制作されたオブジェ群と旗(いずれも1963)。中央のトランクに入れて持ち運ばれ、東京の様々な画廊でも展示された

第5章「偶然と制御:高﨑元尚の実践」

 第5章「偶然と制御:高﨑元尚の実践」は、高﨑の60年代の活動を追う。61年より、高﨑はジャズに着想を得たという「アクション」シリーズを制作し始めたものの長続きせず、やがて複数の色彩を碁盤の目状に塗り分ける連作を制作。高﨑はこの表現を自分のものにするのことにも苦労し、彩色したキャンバス片を並べながら配置を試みているうちに、キャンバスが湿度によって反り返ることに気がつく。この反ったキャンバス片を敷き詰めることで生まれたのが、高﨑の代表作となる「装置」シリーズだ。

 遠景として見ると不思議な像が浮かび上がり、いっぽうで近づいてみるとキャンバス片それぞれの反りに個性が見出だせる本作は、美術館に収蔵されるだけでなく、レストランなどにも展示されていた、高知の市民には馴染み深いシリーズだ。さらに67年、高﨑は関西を拠点とする「具体美術協会」に加入。具体のメンバーとの交流を深めていった。

右が高﨑元尚《装置67》(1967)、左が《装置》(1964/1996)。近づいて斜めから見ると方形それぞれが様々な表情を見せていることがわかる
高﨑元尚《装置》(1967)。方形部分に塩化ビニールを使用し、普段は高知県銀行協会ビルのエントランスに設置されている。方形キャンバスの剥がれという偶然性は規格化されたものになったが、空間との調和も生み出した

第6章「前衛の終焉」

 第6章「前衛の終焉」では67年に高知の前衛が実質的に終焉した経緯を紹介する。1966年に岡山の作家をたちの呼びかけにより「汎瀬戸内現代美術展」が開催され、浜口と高﨑も参加した。これに触発された前衛土佐派は、翌年、高知と大阪以西の作家による「南日本現代芸術展」を構想。中心と周縁という構図を打ち崩そうとする意気込みが感じられる本展は、しかし運営方法や経理、賞の選考などを巡り、前衛土佐派のなかでトラブルが頻発。最後は暴力沙汰まで起きたという。これを最後に、前衛土佐派の活動は終わりを迎えることとなった。

「南日本現代芸術展」(1967)の資料

第7章「前衛の先で:洋画と現代美術」

 最後の第7章「前衛の先で:洋画と現代美術」では、その後の浜口と高﨑の活動を紹介。1970年、浜口は実質的に県展の洋画部門の作家を集めた洋画展「現代美術 手とエスプリ展」を企画し、以降は絵画へと回帰していく。県展で要職を務め、指導的立場を担いながら、江戸時代末期から明治にかけて多くの芝居絵屏風を描いた地元の画家・絵金(弘瀬洞意)への興味を作品で表現するようになっていった。

 いっぽうの高﨑は、浜口とは異なる道を歩むことになる。土佐中学・高等学校の美術教師を務めながらも、「現代美術の実験」と題したシリーズを展開し、あくまで前衛性を追い求めるかたちでの作品発表を続ける。1972年の《プレゼント》に端を発する「破壊」シリーズは、黒塗りの段ボール箱を積み上げて構造体をつくり、それを会期終了後にバットや手で叩き壊すことで完成するもので、その破壊行為は高﨑の教え子たちが担った。その後、10年にわたり高﨑は破壊をテーマにした作品を発表し続けていく。

浜口富治の洋画展「現代美術 手とエスプリ展」(1972)の展示案内資料
左壁の写真が高﨑元尚の《プレゼント》(1972)の黒い構造物の写真、右の映像は構造物を楽しそうに壊す高校生たちの様子を記録したスライド

 以上のように、高知の前衛は県展を主軸にしながら、前衛の通例にならうように最終的に挫折をむかえ、各々の活動へと回帰していくことになる。担当の塚本はこの高知の前衛の特徴について次のように指摘する。「本展をひと通り見れば、女性作家がほとんど表に出てこないことに気がつくでしょう。すべての前衛土佐派展に出品した入交京子は、その数少ない例です。また、男性作家たちの裏方にいた家族を中心とした女性たちにも注目してほしい。本展の図録はそんな思いを込めて制作しました」。本展の図録には、高﨑の妻・佳恵と浜口の長女・知暁へのインタビューが掲載されているが、ふたりの談話からは高﨑と浜口の「前衛」が、家族を巻き込んだものであり、妻や娘の献身によって成り立っていたことがよくわかる。このような背景を持つ男性作家を中心とした前衛運動が、やがて暴力沙汰のなかで解散していった過程は、現代のアート・コレクティブが抱えることの多い課題とつながっているように思えてならない。

入交京子《作品》(1966)。第20回高知県美術展覧会に出展された作品

 本展は、県展という団体の内部で「前衛」を志向した高知の前衛の歴史を、豊富な資料や作品で紹介する貴重な展覧会だ。同時に、美術の情報と人材が集まる大都市と地方との距離が作家にもたらすプレッシャー、団体が内包する権力の勾配、そしてジェンダーの不均衡などの問題提起が、要所で浮かび上がっている。地方の戦後美術の動向を丹念に紹介し、その渦中にいた作家を再評価するだけにとどまらず、そこから現代にも通じる問題意識を導き出す展覧会にもなっていることにアクチュアリティを見た。