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2026.5.8

ヴェネチア・ビエンナーレが開幕。日本館で荒川ナッシュ医が「赤ちゃん」を通して問いかけるケアと未来

第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示として、荒川ナッシュ医による「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」が5月9日に開幕する。クィア・ペアレンツとして双子を育てる荒川ナッシュ自身の経験を起点に、ケアと未来、そして国家や歴史との関係を問いかける本展の様子をレポートする。

文=王崇橋(編集部)

第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館、荒川ナッシュ医「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」の展示風景 撮影:Uli Holz 提供:国際交流基金
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「ケア」を身体で体験する空間

 第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示として、荒川ナッシュ医による「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」が5月9日に開幕する。

 本展は、2024年に代理出産を介して双子の親となった荒川ナッシュが、自身のクィア・ペアレンツとしての経験を起点に構想した参加型インスタレーションだ。「ケア」という行為を通じて、未来を生きる子供たちのためにどのような世界を残すのかを問いかける。キュレーションを手がけたのは、高橋瑞木(CHAT紡織文化芸術館館長兼チーフ・キュレーター)と、堀川理沙(シンガポール国立美術館シニア・キュレーター兼キュレトリアル&コレクション部門部長)。

 日本館に足を踏み入れると、まず来場者を迎えるのは、色とりどりのベビー服を着て、ミラーレンズのサングラスをかけた赤ちゃん人形たちだ。希望者はそのうちのひとりを抱きかかえ、展示空間を巡ることになる。人形の重さは、生後3〜4か月の乳児とほぼ同じ約5.5キロ。来場者は鑑賞者だけではなく、「ケア」を実践する身体として展示に組み込まれていく。

色とりどりのベビー服を着て、ミラーレンズのサングラスをかけた赤ちゃん人形たち 撮影:Uli Holz 提供:国際交流基金

 荒川ナッシュは美術手帖の取材に対し、「赤ちゃんの人形を抱いた瞬間に、人の表情や態度がすごく柔らかくなる」と語る。「その変化を見るのが面白いんです。みんな本当に自然に優しくなる」。

 館内では、荒川ナッシュの双子の子供や、クィア家庭に生まれ育った子供たちの声を用いた、サージ・チェレプニンによるサウンド作品が空間全体に響き渡る。さらに、「My Twins’ First Film」と題された映像作品も展示される。「自分たちの子供に最初に見せたい映画」というコンセプトから出発した同作では、ディアスポラ的な存在や境界上にいる人物を主人公、あるいは監督とする映画を、荒川ナッシュの子供たちが鑑賞する様子が映し出されている。

 展示の終盤、来場者は抱いてきた赤ちゃん人形のおむつを替える。その際、おむつに印刷されたQRコードを読み込むことで、占星術師・ライターの石井ゆかりによる、それぞれの赤ちゃん人形の「誕生日」をテーマとした「オムツの詩」を受け取ることができる。

赤ちゃん人形のおむつを替える荒川ナッシュ 撮影:筆者

 この「誕生日」こそ、本展の重要な核となっている。それぞれの「誕生日」の日付は、日本で女性参政権が認められた日、フィリピンで日本軍による暴力が起きた日、あるいは荒川ナッシュ自身のディアスポラとしての経験に結びつく日など、様々な歴史的意味を持っている。「なかには非常に重い歴史を伴う日付もあります。それらの出来事をどう未来へ伝えていくのかがテーマになっています」と荒川ナッシュは語る。

 会場入口には、荒川ナッシュが内覧会前日に手書きしたメッセージも掲げられている。そこには、クィア・ペアレントとして子供を授かるまでの過程や、そのなかで感じたプレッシャーについても率直に綴られている。

 荒川ナッシュは、「クィア・ペアレンツとして子供を育てる事例は、まだ社会のなかで十分に可視化されていない」と話す。「だからこそ、そうした存在のプレゼンテーションを増やしていくことが重要だと思っています」。

日本館という制度を問い直す

 本展はまた、「日本館」という制度そのものを問い直す試みでもある。荒川ナッシュは福島県生まれの日系アメリカ人であり、現在は米国籍を持つ。日本国籍を持たない作家が日本館で個展形式の展示を行うのは今回が初となる。

 キュレーションを手がけた⾼橋瑞⽊は、「日本人のディアスポラは昔から存在していましたが、その存在は十分に可視化されてこなかった」と指摘する。

 「今回、荒川ナッシュさんが日本館代表に選ばれたことには大きな意味があります。同じような背景を持つアーティストはほかにも数多く存在していますし、そうした人々を排除するのではなく、その存在に目を向けることが重要です。日本の外側にいる人々との対話から、日本に住む人たちも多くを学べるはずです」。

 また高橋は、「荒川ナッシュさんが親になったとき、自分の腕に赤ちゃんを抱き、『この子たちをどう育てるのか』『何を教え、どんな未来を渡していくのか』と考えるなかで、新たな責任を強く感じたことが、本展の出発点になっています」と説明する。

来場者が赤ちゃんを抱き、日本館の階段を上り下りしながら展示を巡ることができる 撮影:Uli Holz 提供:国際交流基金

 高橋とともにキュレーションを担った堀川理沙も、「ケアとレイバー(労働)」も本展の重要なテーマのひとつだと語る。来場者が赤ちゃんを抱き、日本館の階段を上り下りしながら展示を巡る行為は、次第に身体的な負荷として実感されていく。

 「来場者は赤ちゃんを抱えながら、日本館の回遊性を身体的に体験し、詩を読み、また戻ってこなければならない。それはかなり身体に負担がかかるんです。荒川ナッシュさんは、ケアというものが労働と不可分であることを意識的に示していると思います」。

 また堀川は、今回の展示制作にあたり、「日本をアジアのなかに相対化して見る視点」が重要だったと振り返る。

 「荒川ナッシュさんはこれまで欧米の美術館やアートの文脈で紹介されることが多かったと思いますが、今回のリサーチでは、日本対アメリカという単純な構図ではなく、日本をアジアの歴史のなかで見ていくことを意識しました」。

 さらに今回は、ジャルディーニで隣接する韓国館との史上初となる公式連携も実現した。互いの作品が行き来する構成や共同プログラムを通して、国家館という枠組みそのものを越境しようとする試みがなされている。

「赤ちゃん」を通して未来を考える

 堀川は、「近年、ヴェネチア・ビエンナーレという制度そのものを見直す議論が始まっている」と語る。「多くの人は、日本館に対して『日本的』なものや、美しく精緻な工芸的作品を期待して来場します。でも、荒川ナッシュさんの作品に出会ってイメージの違いに驚くことになる。そのズレが重要だと思っています。荒川ナッシュさんは、リジッドなインスティテューションに対して、じわじわと揺さぶりをかけていくアーティストです。この展示が『日本館』という制度や、日本に対する固定的なイメージを考え直す契機になればと思っています」。

合計208体の赤ちゃん人形が展示される日本館 撮影:Uli Holz 提供:国際交流基金

 そして、展示空間のなかで来場者を見つめ返す208体の赤ちゃん人形は、未来の象徴であると同時に、現在を生きる私たち自身への問いでもある。

 高橋はこう語る。「『子供が未来を担う存在である』ということ自体は、普遍的な事実だと思うんです。だからこそ本展では、子供をきっかけに、生殖に関する政治性やアイデンティティ、大人たちの責任、そして私たちがどのような未来をつくろうとしているのか、といった様々な問題が提起されています。子供に向ける態度やまなざしを、赤ちゃんだけでなく、もっと様々な他者へ向けることができるのではないかと思いました」。荒川ナッシュも次のような期待を寄せている。「いま世界全体が再びナショナリズムへと傾きつつあるなかで、その状況に対して何ができるのかを、『赤ちゃん』というシンボルを通して考えようとしています」。

 国家、歴史、ディアスポラ、クィアネス、ケア──様々なテーマが交錯する本展。荒川ナッシュによる日本館は、「赤ちゃん」という存在を通して、いまを生きる私たち自身のあり方を静かに問うている。

左から堀川理沙、荒川ナッシュ医、高橋瑞木 撮影:Uli Holz 提供:国際交流基金