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2025.11.30

「信頼できない語り手」によるモノローグ。池上裕子評「キュレトリアル・スタディズ16 荒木悠 Reorienting ─100年前に海を渡った作家たちと─」

京都国立近代美術館コレクションにおける戦後アメリカ美術の不在への関心から、「キュレトリアル・スタディズ16」企画者の渡辺亜由美は、日本とアメリカで育ったアーティスト・荒木悠を迎え、日系移民作家の視点を通じた「もうひとつのアメリカ美術史」を掘り起こすことを試みた。本展での荒木悠の作品は、歴史叙述と個人史を攪乱しながら再編する“欺術”の装置として機能し、日系画家である国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らの作品に潜む複層的な視線を照らし出す。この意欲的な試みを美術史研究の池上裕子が読み解く。

文=池上裕子

「荒木悠 Reorienting」展会場風景 撮影=守屋友樹
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「信頼できない語り手」によるモノローグ

 2008年から始まった京都国立近代美術館(以下京近美)のキュレトリアル・スタディズは、「研究対象を所蔵作品に限定せず、美術館活動を通じて研究員が抱いた問題意識をも対象と」する(*1)。今回、特定研究員の渡辺亜由美が抱いた問題意識は、美術館によって提示する「近代美術」の姿が大きく異なるという事実だ。具体的には、前任館の滋賀県立美術館では戦後アメリカ美術がコレクションの柱のひとつとして重視されていたのに対し、京近美ではその存在感が限りなく薄いことに疑問を持ったという。たしかに、京近美のコレクションで「アメリカ美術」に関係するのはモダニズム写真とデュシャンのレディメイドという、かなり限定的な分野である。渡辺はそこにもうひとつの「アメリカ美術」として日系移民作家の作品をかけ合わせてみることにした(*2)。

 そこで彼女がゲスト・アーティストとして迎えたのが荒木悠だ。彼は渡辺が事前に選んだ京近美の収蔵品に向き合いつつ、新たな映像作品を制作し、彼女と協働して展示デザインを手がけた。選ばれたのは国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫という日系画家たちの絵画・写真と、アルフレッド・スティーグリッツとドロシア・ラングによる写真である。荒木自身が日本とアメリカで育った作家であることを考えると、彼女が荒木に声をかけたのは順当な選択のように思える。だが意外にも、荒木が本展のために制作した《南蛮諜影録》(2025)はリスボンで撮影された。この映像作品は、第二次世界大戦中に中立を表明しつつ、連合国とも枢軸国とも取引していたポルトガルで繰り広げられていた諜報戦についてのスパイのモノローグという形式を取っている。

荒木悠《南蛮諜影録》2025 HDヴィデオ、カラー、サウンド 21 分 55 秒 作家蔵 撮影=守屋友樹

 じつは私は、この作品を出発点に、意図された動線のほぼ逆回りに展示を観てしまった。だがそのおかげで興味深い体験ができた。まず、「Reorienting」という展示タイトルに反して、この映像には「disorienting」な効果があった。映像の序盤で語り手は「祖国が戦争を始めたため、自分は敵性外国人となり、カメラまで取り上げられてしまった」という趣旨の話をする。これは国吉の実体験に基づくエピソードだ。だが映像は、表向きは映画監督として暮らしているという語り手の目線から撮られている。また1942年という時代設定にもかかわらず、「私」から「俺」へと一人称を変えた彼は、その眼(=カメラ)で現在のリスボンを捉えながら諜報活動について持論を語る。そもそも、アメリカで敵性外国人となった人物がリスボンに渡ってスパイをしているとすれば、それは本展の英題にある「Across the Pacific」とは逆の「Across the Atlantic」な展開だ。しかも彼は、作品の終盤で撃たれてからも何事もなかったかのように喋り続ける。つまりこの人物は、明らかに「信頼できない語り手」なのだ。

 しかしながら、「信頼できない」のは語り手だけではない。映像の冒頭で「本作品に登場する映像と物語は完全に独立したものであり(中略)関連や結びつきがあるように見える場合があってもそれは純粋に偶然であり意図されたものではありません」というテキストが流れるが、これは真顔で発せられたジョークのようなものだ。なぜなら、「二面性といえば “外交 (diplomacy)”」と語り手が言うとき、画面に映るのは「Le Monde diplomatique」を読む男性であり、彼がその紙面を読み、折りたたむシーンで語り手は「かつてそれは折りたたまれた文書。語源はギリシャ語の『ディプロマ』。『二つに折られたもの』を意味する」などと述べるのだから。つまり、「信頼できない」のはこの映像の語り手であり、つくり手(=映画監督)でもある荒木だ。語り手が作中で自らをそう呼ぶように、荒木自身が「術家(con artist)」として観客をだまし、裏切っているのだ。

 この映像による若干の混乱と不信は、ある種マジカルな効果を生んだ。同一壁面にある国吉の写真もまるでスパイが撮影したもののような、信用できないイメージに思え、《仮面舞踏会》(1951)のマスクというモチーフも加わって、展示室自体が欺し欺されるための演劇的な空間として立ち上がってくるかのように感じられたのだ。ほぼ真四角の部屋を仕切るように置かれたフェンスも、日系アメリカ人が戦時中に入れられた強制収容所を想起させるいっぽう、鑑賞者である私自身も監視の対象になったかのような緊張感を感じさせた。その寄る辺ない(disoriented)感覚を多少なりとも方向付けてくれた(reoriented)のが、中央の床に貼られた、方位磁針のステッカーだ。それは奥の壁面に向かって西を指し、そこに国吉の《鶏に餌をやる少年》(1923)があることから、「オリエント(東洋)」である日本から「オクシデント(西洋)」とされるアメリカへと渡った移民作家たちの軌跡を示しているように思われた(*3)。

越境する個人の歩みと「歴史」の交錯

 その方位磁針を軸として、部屋の右奥では若き日の荒木がバナナを銃に見立てて自殺を図る《スーサイド・ピース》(2007)が上映されている。皮は黄色で中身が白いバナナは、白人の価値観を内面化したアジア系アメリカ人を揶揄する際によく言及される。荒木がここで殺そうとしたのは、アメリカ人になろうとしてなりきれなかった自分なのだろうか。実は本展が扱う4人の日系作家のうち、アメリカ国籍を持つのは野田だけである。戦前のアメリカでは一世は帰化申請できなかったからだ。戦後、国吉は市民権が認められる前に逝去し、石垣は共産主義活動が問題視されて国外退去になった。アメリカ生まれの野田にしても3歳から18歳まで日本で教育を受けた「帰米二世」であるし、逆に3歳から7歳まで、そして14歳から22歳までをアメリカで過ごした荒木は、2006年に永住権申請が却下されている。生きた時代が違っても、それぞれに「アメリカ人」、そして「日本人」としてのアイデンティティに相当な屈曲があることは想像に難くない。

荒木悠《スーサイド・ピース》2007 SDヴィデオ、カラー、サウンド 3 分 30 秒 作家蔵 撮影=守屋友樹

 左の壁面ではそうした二面性を持った国吉が1930年代に写したアメリカの光景が、手前のケースにはGHQ占領下の日本でアメリカ向け輸出品として製産された犬の陶器が《野良犬たち》(制作:1947〜52/発表:2017〜)として展示されている。「Made in Occupied Japan」と刻印された犬たちの主人となったアメリカ人は、やがてそれらを手放し、荒木はそれをネットオークションで入手して日本に呼び戻す活動を続けている(*4)。保護犬のようにレスキューされた犬たちはそれぞれに可愛らしくユーモラスな表情をしているが、集合的な存在としては、彼らもまた敗戦後の日本とアメリカの関係性と、その不均衡さに起因するメランコリーを抱えた存在のように見える。

「荒木悠 Reorienting」展会場風景。手前が、荒木悠《野良犬たち》(制作:1947-1952 年/発表:2017 年-)作家蔵 撮影=守屋友樹

 だが、アジア太平洋戦争の敗戦とそれに続く占領は、明治以降、アジア唯一の「帝国」を目指した日本がたどり着いた必然の帰結でもあった。《アザー・アンセム》(2016)はそうした近代化の過程で消えていった「君が代」の初代バージョンを編曲したものだ。明治2年にイギリス人が作曲した原譜をさらにカントリー調に編曲してあり(*5)、どうやっても「君が代」の歌詞を乗せて歌えるようには聞こえないのだが、その脱力感が「国歌」に仮託されるナショナリズムをうまく骨抜きにしている。他方、その傍らに展示された野田の《風景》(1937)は、繊細なタッチで描き込まれた素朴な雪景色と、輪郭線だけで描かれたへなちょこな(失礼!)人物群とのアンバランスさ、さらにアメリカ共産党の諜報活動に携わっていたとされる彼の経歴の不可思議さが、観る者に消化不良を起こさせる。

「荒木悠 Reorienting」展会場風景。中央が、荒木悠《アザー・アンセム》(2016) 撮影=守屋友樹

 四角い展示室の外に出ると、石垣の《鞭うつ》(1925)が目に入る。出品作の中では一番大きなカンヴァスで、大きく前面に描かれた馬と鞭打つ男が一体化したような躍動感が見事な作品だ。3人の日系作家たちはニューディール政策の一環であるWPA(公開事業促進局)事業で壁画制作に関わっていたが、国吉と石垣は非米国人であるために解雇された経歴がある(*6)。戦後はアメリカのモダン・アートが西側世界を席巻するなか、彼らの作品は白人中心の「アメリカ美術史」からも前衛中心の「近代美術史」からも排除されてきた(*7)。だが彼らの視点からその時代を見直すと、数々の発見がある。例えば《鞭うつ》は独立美術家協会展に出品されたもので、当時無審査で出品できた同展は移民たちにとって貴重な発表の場であった。そしてその記念すべき1917年の第1回展は、モダン・アートの言説では《泉》が却下されたことでのみ記憶されているが、じつは国吉が画家として初めて参加したデビュー展でもあったのだ。

 このように、越境する個人の歩みと「歴史」の交錯は、まさしく幾重にも折りたたまれたドシエ(dossier)のようであり、荒木と渡辺は詳細な年譜とともに、それを一枚一枚めくって光を当てていく。そこに荒木本人の軌跡も含まれていることは、彼が恐るべき長さと詳しさの自らの年譜──これ自体が作品と言っていいだろう──を作成したこと、そして幼い彼が家族とともにアメリカに初渡航する際の写真が本展のメインビジュアルとして使われている点からも明らかだ。展示の冒頭に位置するスティーグリッツの《三等船室》(1907)は、まさに航海中の船上で撮られているが、じつはこの船はアメリカから大西洋を渡ってヨーロッパに向かうところだという。だが「太平洋」という文脈から逸脱するようなこの写真こそ、展覧会の枠組みを攪乱しつつ拡張した《南蛮諜影録》へとジャンプし、始まりと終わりをつなぐ円環を形成しているのではないか。

「見ることはすでに支配だった」

 《南蛮諜影録》の後半に登場する南蛮屏風もまた興味深い。南蛮屏風は16世紀にポルトガルやスペインから来航した人々との邂逅を描いたもので、狩野内膳の落款を持つ本作と同様の構図を持つ屏風は、現時点で5点確認されている。なかでも本作は三田藩主の九鬼家に伝来し、戦後に海を渡ってリスボンの国立古美術館に入ったものだが、九鬼家はもともと熊野灘を制圧していた海賊だというのだ(*8)。ポルトガルがスペインと競りながら海上帝国としての覇権を確立すべく極東にまで進出していた時期、信長に仕えて出世した九鬼氏の当主嘉孝もまた海軍艦隊を率いて活躍し、秀吉が明の征服を狙って仕掛けた朝鮮出兵の際には水軍の総大将として参加していたのである。本作は、基準作とされる神戸市立博物館本とは異なる部分があり、内膳以外の絵師によるものだとも言われているが(*9)、この屏風が幾度か持ち主を変えた後、最終的にポルトガルの所蔵になったことには数奇な縁を感じざるを得ない。

「荒木悠 Reorienting」展会場風景。右が、荒木悠《南蛮諜影録》(2025) 撮影=守屋友樹

 こうした背景を知ってか知らずか、《南蛮諜影録》の語り手は、折りたためる形式の屏風を「“見る”ための装置」であり「金箔で飾られた諜報報告書だった」とアクロバティックに解釈し、「見ることはすでに支配だった」と結論づける。そして、それまでは一切姿を見せなかった「私/俺」は、映像の最後にそこに描かれた「南蛮人」として姿を現すのだ。「I am watching you」と言いながら。穏やかな微笑を浮かべるこの人物にはスパイらしからぬ愛嬌があるが、この笑顔こそが本作の主題である「二面性」を体現しているのかもしれない。語り手が言うように、「人には二つの顔が」、すなわち「表の顔と、隠すための顔」があるのだから。

 限られた時間と予算、そして空間で、ここまで濃密な思索と創造を見せてくれる展示には滅多に出会えない。本展は、ミッドキャリアに差し掛かったキュレーターとアーティストが正面から組み合い、お互いのアイデアと可能性を広げ合った展示として、長く記憶されることになるだろう。

 ところで、スパイに関心がある作家といえば、「007」シリーズの大ファンであることを公言していたジャスパー・ジョーンズもその一人だ。彼は1964年に来日し、東京で制作した《Watchman》(1964)において、諜報員と監視員をモチーフとして「見ること」について思索をめぐらせた(*10)。

The spy designs himself to be overlooked, the watchman “serves” as a warning. Will the spy and the watchman ever meet? In a painting named Spy, will he be present? The spy stations himself to observe the watchman. … Somewhere here, there is the question of seeing clearly. Seeing what? According to what? (*11)
スパイは自分を見えないものとしてデザインし、監視員は警告の役割を「演じる」。果たしてスパイと監視員は出会うのだろうか?《スパイ》という絵に、彼は登場するだろうか?スパイは監視員を監視するために配置につく……ここのどこかに、はっきりと見る、ということに関する問題がある。何を見るのか? 何によって見るのか?

ジョーンズがスケッチブックに書き記したこれらの断片的な文章は、荒木の「信頼できない語り手」によるモノローグとも、時を超えて共鳴してはいないだろうか。

*1──京都国立近代美術館HPより。25.https://www.momak.go.jp/Japanese/collectionGalleryArchive/2008/curatorialStudies01.html
*2──渡辺亜由美「荒木悠と、海を渡った作家たちと」『キュレトリアル・スタディズ16:荒木悠 Reorienting──100年前に海を渡った作家たちと──』(京都国立近代美術館、2025年)、p. 25.
*3──この方位磁針は西に8度傾いているが、それは船や飛行機が航行する際に使われる「磁北(じほく)」を採用しているからだ。本展では展示されたフェンスや展示台、ラジオなども、すべて西側に8度の角度をつけて斜めに置かれている。北極点の方向である「真北(しんぽく)」と方位磁石が示す「磁北」に「偏角」と呼ばれるズレが生じるのは、地球の磁場が常に変動しており、その磁極が北極点と完全に一致しないことが理由だ。このズレは北に行くほど大きくなるため、京都では約8度だが、那覇では約5度、札幌では約9度と、地域によってばらつきがある。
*4──本展とは関係ないが、日系三世のアーティスト、ロジャー・シモムラもまた、アジア系アメリカ人に関するステレオタイプを表したキッチュな品々を、荒木と同じようにネットオークションを通して蒐集していた。彼は約2000点に上るそのコレクションを、2008年にシアトルのウィング・レイク博物館に寄贈している。
*5──荒木によれば、「国歌」の直訳は「カントリー・ソング」だから、ということだ(2025年11月8日にインスタライブで配信されたギャラリー・トークより)。だが荒木が育ったナッシュビルがカントリー音楽の盛んな土地であることも関係があるのだろう。彼が編曲を依頼したのもナッシュビル在住の音楽家である。
*6──野田もWPAには関わっていたが、アメリカ国籍保持者であるため解雇はされなかった。だが彼はこの問題が発生した1937年に日本に渡り、1939年に30歳で死去している。
*7──1991年にニューヨーク近代美術館がピカソの《アヴィニョンの娘たち》(1907)の油彩習作を購入するために国吉の《逆さのテーブルとマスク》(1940、現在は福武コレクション)を売却したのは有名な話だ。
*8──成澤勝嗣「16リスボン国立古美術館 B」坂本満編『南蛮屏風集成』(中央公論美術出版、2008年)、p. 339. 南蛮屏風に関しては神戸市立博物館の中山創太氏にご教示いただいた。記して感謝します。
*9──Ibid., p. 340. リスボン古美術館は、狩野道味の作とされるもう一双の南蛮屏風も所蔵している。こちらは「堺の旧家に伝来したもので、昭和初期に池永孟の所蔵となり、昭和27年ポルトガル大使館が購入した」。『西洋との出会い:キリシタン絵画と南蛮屏風』(国立国際美術館、1986年)、p. 122.
*10──ジョーンズ作品における「見ること」という主題については、以下の拙論を参照されたい。Hiroko Ikegami, “Looking Deeper: Jasper Johns in an International Context of the 1960s,” in Jasper Johns: Something Resembling Truth, ed. Roberta Bernstein and Edith Devaney (Royal Academy of Arts, 2017), pp. 46–57.
*11──Jasper Johns, Jasper Johns: Writings, Sketchbook Notes, Interviews, ed. Kirk Varnedoe (The Museum of Modern Art, 1996), p. 37.