パルコの開業55周年を祝う特別企画「HAPPY HOLIDAYS」が現在公開中。時を同じくしてデビュー55周年を迎えた細野晴臣をキーパーソンに迎え、生誕88周年のアーティスト田名網敬一を象徴するモチーフやキャラクターがそのビジュアルを彩っている。去る8月9日の田名網の訃報から少し時間が過ぎたいま、本企画のディレクションを務めた田名網の一番弟子・宇川直宏に、今回の企画主旨と田名網への思いについて話を聞いた。
聞き手=岩渕貞哉(「美術手帖」総編集長) 構成=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部) 撮影=軍司拓実
弔辞に秘めた田名網敬一さんへの哀悼の言葉
岩渕貞哉(以下、岩渕) 10月15日、個展「田名網敬一 記憶の冒険」開催中の国立新美術館(新美)の会場で行われた「田名網敬一お別れの会」では弔辞を読まれたんですよね。ただ、メディアなどには追悼のコメントは出されていないですね。
宇川直宏(以下、宇川) はい。追悼文はずっと出せませんでした。いや、出せる状況になかった。新美での大回顧展のオープニングでは、開幕の儀として関係者への挨拶と乾杯の音頭を田名網先生に代わり僕が取りました。葬儀やお別れ会などでも、NANZUKAの南塚くんとともにすべての追悼に関わり言葉を贈りましたが、文章にはまだできていませんでした。なので、先日の弔辞が僕からの哀悼の言葉になりますね。SNSの時代へと突入してから世間では故人に対して、皆それぞれが弔辞に代えて、思いの丈をサイバースペースで語りあうようになりましたよね。一般のファンや熱狂的なクラスタから弟子、息子、妻、立場に関係なく、平等に故人を偲ぶ言葉がタイムラインに流れてくる。僕だけに限らず皆このことをSNSのポジティヴな側面のひとつだと思っているはずです。前世紀までには可視化できなかった、人間の憎悪の感情がカジュアルにぶちまけられるようになったことと同時に、個から個への哀悼の意が地球の裏側まで拡散されるようになった。このことによってインターネットは無名有名問わず人々を平等に生かし続けています。これは葬儀に代わるデジタルな弔いのかたちですよね……。しかし(田名網先生の訃報については)自分にとって重すぎて簡単には出せませんでした。そういう意味では、今回のこのパルコのプロジェクトが、ある意味弟子から師匠への芸術的な葬礼の儀になったのだと思います。
岩渕 宇川さんは田名網さんの「一番弟子」として、長くともに活動されていましたからね。
宇川 じつは田名網先生が亡くなる3ヶ月前に超ロングインタビューを行う機会を与えられました。今回の大回顧展にあわせて「?/ˈsɪmbl/」というレーベルから田名網先生のアーティストブックを4冊同時に出版したのですが、そのうちのひとつのプリンティング作品を年代順にまとめた最終巻『SPARK』に掲載するためのものでした。それまでの3巻は、田名網作品を現代アートの角度から掘り下げていたんです。いわば作家の幼少期からの生い立ち、戦争体験、記憶、表現の変遷といった人生と創造性との関係をあぶり出すようなオーラルヒストリーですよね。しかしこの最終巻ではその文脈から距離を置いて、印刷というフィールドから作家の表現を見渡すまったく新しい考察になっていました。田名網敬一は、アートやデザインという言葉が日本ではまだ一般には広く流通されていなかった時代から表現を始めている作家です。なのでその活動は印刷技術の歴史とも並走している。このような珍しい角度から先生のことを深掘りする機会を与えられたことによって、田名網敬一の新たな佇まいを死の直前に嗅ぎ取ることとなりました。総尺、全11時間。文字数、12万字。狂ってる(笑)。とにかく、存命中にこの対話が残せたことによって、互いの人生においての世代を超えた共有や、歴史的な奥行き、またや尊敬の意すらも深みを増した感じがしています。
まず、田名網作品を見るに、その表現の根底には戦争体験に基づく拭い去れないトラウマがあるということが明らかにわかりますよね。太平洋戦争、東京大空襲、爆撃の光に乱反射した畸形の金魚。そうでなければこんなにもB-29や零戦をモチーフにしないし、そしてその後のアメリカに毒された日本文化の姿や、濃艶で淫猥な“権威としてのハードコアポルノ”なんてあえて描かない。だからその想像の源について話を伺うっていうヒアリングのプロセスは、もはや定番になっています。最晩年にそれを乗り越えたオルタナティヴなインタビューができたことは大変な歴史的、文化的な価値を秘めていると思っています。戦争の話は一切出てこない。では、どこから話を聞けたのかというと、マンガ家を目指していた中学時代の田名網少年の心のなかの声が、88歳の魂を経由してあらためて聞けたんです。田名網少年がどのように文化を享受し、何にフェティシズムを感じ目覚めたのか、そしてどのような嗜好が88歳まで地続きとなり、創作に反映され続けてたのか。そのことを聞くことができたんです。
田名網敬一はいかに戦後のオルタナティヴ・カルチャーを享受してきたのか
宇川 そこから青年期に差し掛かり、田名網先生はアメリカン・ポップカルチャーに魅了され、サイケデリックアートや、ポップ・アートを日本の側から多様な表現方法で咀嚼していくのですが、そのきっかけのひとつに、じつは当時の若者のカリスマだった評論家の植草甚一さんがいたのです。銀座のイエナっていう洋書屋で植草さんはいつも大量に洋書を買いつけていたようなのですが、その本を抱えたまま店先の階段からスッテンコロリと転げ落ちたんです(笑)。丘を転げ落ちる山下清のおにぎりのように(笑)。抱えていた洋書もバサバサと階段から落としちゃって。ちょうどそのとき、たまたま田名網先生とギュウちゃん(篠原有司男)が下の階から登ってきたところで偶然居合わせて、「大丈夫ですか?」と声をかけ、本を全部拾ってあげたんですって。そこで植草さんと彼らが会話を交わすのですが、「君たち絵を描いているならお礼にいいことを教えてあげる」、「『ARTnews』っていうアメリカの雑誌にそのムーブメントが掲載されているから見てみなさい」。そう言って植草さんが見せてくれたのがアンディ・ウォーホルの初期の展覧会やロイ・リキテンシュタインの動向などを掲載したポップアートの特集で。どうやらそれは評論家のロイ・アロウェイが当時のNYの新しい潮流をそう名付け、網羅した時代の最初期の記事だと思います。その先鋭的な特集を観て二人とも大興奮したんですって。
どうやらそこには、のちにプロト・ポップと言われるロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズも紹介されていたらしく、それからギュウちゃんは、《ボクシング・ペインティング》のアクショニズムを経て、イミテーション・アートとしての《コカコーラ・プラン》をつくってみたり、田名網先生もシルクスクリーンの技法を学び始め、今回初めて新美でお披露目された最初期作品《オーダー・メイド》を制作したりするのです。60年代初頭はまだ「グラフィックデザイン」という言葉が日本に入ってきて間もない時期で、同じく商業デザイナー・イラストレーターから転身したウォーホルには大変なシンパシーを感じていたようです。
岩渕 田名網さんの若い頃にそんな決定的な出会いがあったんですね。驚きました。
宇川 しかしいっぽうで、田名網先生は少年時代からずっとマンガ家になりたかった。息子がマンガ家になりたいというもんだから、先生のお父さんは法政大学時代の同級生で当時『漫画少年』で手塚治虫と人気を二分していた原一司さんのアトリエに連れて行き、田名網少年は原さんを師事することになる。それが先生の中学時代で『漫画少年』へ作品を投稿していた時期と重なります。当時その投稿コーナーの常連メンバーには石ノ森章太郎とか赤塚不二夫、そして藤子不二雄が名を連ねていたのですが、じつはそこに田名網敬一もいたのです。しかも当時の投稿欄は、手塚治虫先生からテラさん(寺田ヒロオ)が受け継いで、そのなかの優秀なマンガ家の卵たちが片っ端からトキワ荘の次期住人候補になっていくので、先生ももしかしたらテラさんに檄を飛ばされチューダーで乾杯していた人生の可能性もあった(笑)。そう考えると第二、第三のマンガ道が歴史のなかには潜んでいたのだな、と感慨に耽ったわけです。「もしいま18歳に舞い戻ったら迷いなくトキワ荘を目指す」とDOMMUNEの番組中に(当時)87歳で豪語された先生の情念は、昨年渋谷パルコで実施した赤塚不二夫先生との「TANAAMI!! AKATSUKA!! / That‘s all Right!!」へと昇華されるのですが。
結局、田名網先生は師匠の原一司さんが結核でお亡くなりになられたためにマンガの道を断たれた。その後も親御さんはマンガ家になるためのバックアップをしてくれていたのですが、その頃に「デザイン」という言葉がようやく大衆化し始める。それまで日本にはグラフィックデザイナーなんていう職業はなく、図案屋だの看板屋だの呼ばれて当時はアウトサイダーなイメージだったのですが、そこに海外のシーンの影響もあって、1950年代半ばには美術大学にもデザイン学科が開設されることになりますよね。そういった潮流もあって、田名網先生の親御さんは息子を武蔵野美術大学に送り込むことを決めたんですね。で、いきなり2回生の時代に原弘や亀倉雄策の所属した日宣美(日本宣伝美術会)で「特選」を受賞し、学生時代から集英社でエディトリアル・デザイナーとしてデビューしているわけです。それが1958年。
そこからデザインの道に進むかと思いきや、親友には篠原有司男がいて、当時、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズのメンバーですね。そして、吉村益信の住居兼アトリエである新宿ホワイトハウスができてそこに通い詰めるようになる。当時のネオ・ダダと言えば、赤瀬川原平や荒川修作といった錚々たるメンバーが揃っていた頃。そういった日本の前衛芸術の黎明期に立ち会い、マンガ家と芸術家に憧れを抱きながらも田名網先生はグラフィックデザインを志していた。でも、グラフィックデザインのフィールドには、横尾忠則という日本のオルタナティヴを体現するカルチャースターがいたのです。しかも先生とは同い年です。
同時代を挑発したカルチャースター、横尾忠則・細野晴臣の圧倒的存在感
宇川 横尾さんはグラフィックデザイナーとして当時からスターだったわけですが、寺山修司とは演劇実験室『天井桟敷』(1967)の創立メンバーとして名を連ねるし、大島渚監督が見出して『新宿泥棒日記』(1969)では俳優を、時を同じくして一柳慧は、サイケデリックな時代の総括として『オペラ横尾忠則を歌う』(1969)を2枚組のピクチャーディスクでリリースするし、僕のもう一人の師匠である松本俊夫先生は70年の大阪万博のせんい館の総合プロデューサーだったので、横尾さんに建築(アーキテクチャル・デザイン)をオファーしたりもしていて、横尾さんはどんどん活動の場を広げていたんですね。1978年には細野晴臣さんと一緒に2度目のインド旅行に行って、キングレコードとともにフィールドレコーディングし、のちに細野さんが電子音を重ねてリリースされたアルバム『COCHIN MOON』(1978)なんてYMOの雛形とも言えますよね。細野さんのマーティン・デニー経由のエキゾチック・ミュージックとジョルジオ・モロダーのエレクトロニクスを融合させたYMOのコンセプトは横尾さんとのインド旅行に起因していることは間違いないです。事実、細野さんにクラフトワークを紹介したのは横尾さんですし。そのような経緯があり、横尾さんも実際YMOの第4のメンバーとして誘われていたのですが、結成の記者発表と締切が重なって行けなかったとのちに言い訳をされています(笑)。じつはもみあげを切るのが嫌だった、なのに既にテクノカットにしていたのに会見に挑めなかったから腹が立ったと御本人はDOMMUNEで言っていましたが(笑)。そんなハプニングがあり、YMOは3人になった訳です。
岩渕 たしかに横尾さんと田名網さんは1936年とまったくの同い年ですね。実際、この2人に交流などはあったのでしょうか。
宇川 田名網先生の話に戻りますが、先生はそんな同世代の横尾さんの圧倒的に多岐にわたる活動を見てきたわけです。さらに言えば、時代の寵児としてのポップアイコンたる横尾忠則に嫉妬した部分もあったんじゃないかな。なぜなら2人は同い年だから。現在横尾さんは同じく88歳になられて、なおも活発に制作されていて、畏敬の念すら感じます。でもなぜか、お互い一度も会ったことがないとおっしゃるんです。さらに2014年にDOMMUNEにご出演いただいた時には、僕、横尾さんからこう言われたんです。「田名網敬一さんは近年とても名前を聞くし、展覧会もたくさんやられていますよね。60年代から名前を聞いたことはありましたが、当時の印象とは作風が変わっているのかも」「僕1回も会ったことないんだよね」と。
岩渕 日宣美などで当然お会いしてるのかと思っていました。
宇川 日宣美では会っていないようです。田名網先生にも聞いてみたのですが「1度も会ったことないんだよね、パーティーですれ違ったことはあるんだけど」みたいな。でもこの話、じつは亡くなる3ヶ月前に僕が録ったインタビューでその真相が明らかになったんです。
岩渕 わかったんですね!
宇川 わかったんです。ヒントは草月アートセンターです。じつはこの二人、草月でやっていた久里洋二さん主催のアニメーションスタジオで会っているんです。草月は当時前衛の拠点で、そこで久里洋二さんと柳原良平さんと真鍋博さんが「アニメーション三人の会」(1960)を始動するのですが、やっぱり自分たちだけでは広がりが生まれないということで1964年から「アニメーション・フェスティバル」と銘打ち、グラフィックデザイナーやイラストレーターのトップスターを集めて、奴らの絵を動かして動員を図ろうと色々なクリエイターに声をかけた。そこには和田誠さん、宇野亞喜良さん、林静一さん、そして田名網敬一、横尾忠則も含まれていた。彼らは描画した一連のイラストを久里実験漫画工房のスタジオへの持ち込みのため、2階建てのスタジオの下の部屋で待っているんです。それで「はい、次〜和田誠くん」なんて呼ばれて交代で上のスタジオに入って行くんですけど、そこに横尾さんも並んでたっていう話が亡くなる直前の田名網先生のインタビューから出てきたんです。じつは久里さんのスタジオで会っていたのか、と驚きましたよ。
前置きが長くなってしまったけど、田名網先生と横尾さんは評価された時代と界隈は違えど、アヴァンギャルドな60年代のオルタナティヴを生き抜き、世紀を超えてもノスタルジアではなく現役で活動し続けているアーティスト同士なんですね。そんな田名網先生が、横尾さんとも親交の深い細野さんと2024年になってプロジェクトをともにするというのは画期的な出来事なんですよ。先生は細野さんとも直接お会いしたことがないのですが。
岩渕 そんなお二人が、このプロジェクトで邂逅されることになったんですね。
宇川 そう。このスペシャルなビジュアルの完成を機会に、本来ならば田名網先生と細野さんはお会いすることになったのでしょうけど、急逝されて結局その機会は実現せず、僕が編んだこの曼荼羅のなかで二人のアーティストの活動は融合することとなった。しかしながらこういった強い磁場は、DOMMUNEのようなファイナル・オルタナティヴメディアと渋谷の文化を牽引し続けるPARCOといった、巨大な触媒同士が融合したからこそ生み出されたものだと感じます。
パルコ開業55周年×細野晴臣活動55周年×田名網敬一生誕88周年を祝う「HAPPY HOLIDAYS」曼荼羅
宇川 今回のクリエイティブディレクターとしての自分にとっての最大の役割は、3つのカルチュラル・アイコンの歴史的接続です。高度経済成長以降の日本のポップ・アヴァンギャルド文化を牽引し続けるPARCOの55年の歴史と、奇跡的にもPARCOと同じ年にデビュー55周年を迎えた細野晴臣の歴史的変遷、そして生誕88年を迎えた直後逝去された田名網敬一、この3つの物語と文化を曼荼羅に流れる時間のなかでつなげたことにあると思う。パルコと細野さんの活動歴ってどちらも55周年なんですよね。このクリエイティブには0歳から77歳までの細野さんの写真がコラージュされていますので、氏の生命の営みがそのまま封印されているわけです。歳の重ね方、しわの入り方、ファッションやヘアスタイルの変遷からも文化が浮かび上がり、歴史の記憶と経過が見て取れると思います。
岩渕 おもしろいです。とくにヘアスタイルに顕著ですね。
宇川 そうですね。かなり極端な変化が見て取れますね。グループ・サウンズの時代が終わり、アートロックの時代が台頭し、フォークが流行り、パンク/ポストパンクの時代を経て、ニュー・ウェイヴとしてのテクノポップがトレンドとなる。子供時代はざんぎり頭だった細野さんが、青年期に差し掛かかっては長髪にして、エイプリル・フールでデビュー、はっぴいえんど期を経て、1stアルバム『HOSONO HOUSE』をリリース、エキゾチカにハマり、トロピカル3部作をリリース、並行してティン・パン・アレーを結成、この時期にヒゲを生やす。その後、髪を短くして、もみあげも切ってYMO結成。テクノポップブームを先導し老若男女を魅了する。そういうトレンドの変遷を経て、ワールドミュージック、アンビエント、YMO再生、エレクトロニカ期、そしてゼロ年代へ。時間の経過と文化の変遷が中央から四方に伸びる集中線のあいだに宿っているカルチュラル曼荼羅なんです。
岩渕 まさに曼荼羅ですね。今回の企画では、そのビジュアルがアニメーションにもなっていますが、かつて久里洋二さんが動かした田名網さんの作品を、いまは宇川さんが動かしている……。
宇川 うわ、そう考えると確かに面白いですね。また、この曼荼羅に潜む細野さんのお写真は生成AIを用いて動かしているので、現行のテクノロジーを総動員してつくった作品とも言えます。ここまで写真を集めるのも大変でしたね。70年代は細野さんの立教高校時代からの同級生の写真家・野上眞宏さん、1979年のLAでのライブから40数年もYMOを撮り続けている三浦憲治さん、そして各時代のアーティスト写真や細野さんの膨大な歴史的スチルのなかからパルコの人たちと細かくセレクトし許可取りしました。よく見ていただければ分かるのですが、69年の『エイプリル・フール』のレコーディング風景から、70年代は『はっぴいえんど』の楽屋や『HOSONO HOUSE』のいままで未公開だったアザーカット、YMOのワールドツアー、2020年代の細野さんまでが盛り込まれています。メインとなっている細野さんのお写真は80年代半ばくらい。めちゃくちゃ貴重ですよ。そもそも細野さんのお写真がこんなに細かくアーカイヴィングできたのも世界初の大仕事だと感じています。
以前からImage to Videoの生成AIはほとんどすべて試しているのですが、ちょうどこのプロジェクトに取り掛かるタイミングでAI ビデオジェネレーターのLuma Dream Machineがリリースされ、想い出の写真を動かすといった取り組みがトレンドとなったこともあって。今回はプロンプトエンジニアリングをCMに生かして、自分が50ムービーほど動かしてセレクトしました。またCMには自分の元生徒のYPや、マナちゃん、手づけのアニメーションが得意なよシまるシンくんなどにもアニメーターとして参加してもらい、生成AI時代の新しいアニメーションの在り方を探究しました。これまでも複数のプロジェクトで僕が動かしてきましたが、60年代に久里洋二さんがイラストを動かそうと取り組んだアニメーション黎明期と比べると費用や手間が段違いですよね。当時田名網先生は、草月ホールのアニメーションフェスティバルで上映するために久里実験工房で3分の制作するのに500万請求されたと聞きました。サラリーマンの初任給が7、8万円の時代にですよ。足元見られて絶対ボラれていたと笑っていましたが(笑)。しかし腐っても35ミリフィルムのアニメーションですからね。いまも高解像度で残っているわけです。そのようにすべて手づけで動かしていたある種の身体表現としてのアニメーションと、プロンプトエンジニアリングとしてのアニメーションの表現がこのCMのなかで渾然一体となって、歴史を紡ぎ尊く未来を映し出していることがすごく2024年的であると自負しています。
さらには、田名網先生のキャラクター表現自体が、手描きのドローイングをCGに1回置き換えてから、Photoshopのレイヤー上でペインティングする、といったものすごく重層的なアウトプットで構成されているので、そういったウルトラ・マルチメディアな側面を今回効果的に表現できたとも思っています。並行で、エントランスやショーウィンドウ、クリスマスツリーのデザインまでを僕とPARCOでつくり上げました。完成前に田名網先生は鬼籍に入られたわけですが、自分のなかに田名網先生を憑依させることができるような体制/耐性を整えておいてよかったですね。もはや自分はいま、田名網敬一をたらふく食ったAIと同じような存在なんです(笑)。
岩渕 最終的に宇川さんが仕上げたこのクリエイティブを見るに、たしかに田名網さんを学習しまくっている……。
宇川 もはや手癖までディープラーニングしていますよ。12万字のインタビューのテキストもプロンプトとしてインプットされてますし(笑)。
岩渕 やばいですね、それ(笑)。
宇川 そのインタビューのあとにこのクリエイティブに着手しているので、もはや生身の人間である僕が田名網先生のアーティフィシャル・インテリジェンス(AI)、もとい、アクチュアル・ヒューマン・インテリジェンス(AHI)みたいな状態になっています(笑)。ですからその辺のコラボレーションとは訳が違いますよ。またアニメーションの音楽は、有難いことに細野さんがこのクリエイティブをご覧になったうえで新たに制作してくださったものなのです。故人の作家の霊性を帯びた身体によってつくり出されたキャラクターが、もはやAHIと化した弟子によって動かされ、その映像にあわせて音楽家が作曲をするのですが、そこには音楽家の人生を象徴するスチルが潜んでいて、止まった記憶がAIによって動かされている。最先端のテクノロジーを駆使したクリエイティブでありながらも、そこには僕を含めた3人のアーティストの生と死が混交しあい、溶けあって55年という時間の流れに封じ込められている。そんな途方も無い奥行きを持ったクリエイティブとなりました。
生身のニューロンでディープラーニングしてきた一番弟子が見た、田名網敬一とは
岩渕 国立新美術館での田名網さんの美術館初個展では、初期作から数多のコラボレーション、最新作まで網羅されていて圧巻でした。全貌を見るのは初めてという観客も多かったと思います。そのようなタイミングで今回の特別企画があり、宇川さんが田名網さんの全貌を憑依させてクリエイティブを完成させた。これは宇川さんによって表現された「田名網敬一の作家像」とも言えそうです。
宇川 そうですね。急逝されたことによって、このクリエイティブが田名網先生にとっての最後のオフィシャル作品のうちのひとつになってしまいました。というのも、田名網先生ご自身は完成を見ることができなかったけれど、この仕事を僕がオファーさせていただいたときは、それはもうやる気満々でしたから。これまで僕は田名網先生のグラフィックデータを直接触って、弟子としてのアシスタント活動っていうのをあえてこのキャリアと年齢でやってきました。DOMMUNEを開局して、ライフログアートという概念を立ち上げてから、日刊のメディアを運営する覚悟を決めたので、これまでのキャリアを一度絶って、ほとんどの映像仕事とデザイン仕事をあえて休業させていただいている状態なのに……。なぜ弟子になったかという話をしたら長くなっちゃうんですけど(笑)。
岩渕 でもちょっと知りたい。
宇川 2000年に世田谷にあるGallery 360°で「田名網敬一・1960年代のグラフィックワーク」という個展が開催されまして、60年代の田名網敬一ワークスがようやく若い世代にも知られるといったきっかけになった展覧会あったんです。ちょうどその頃は、村上隆さんのスーパーフラットが提唱され、数年後には松井みどりさんのマイクロポップが話題になっていた時期でもありました。このタイミングで、アングラ、サイケ、ハレンチ&ハプニングの時代をグラフィックで回顧するようなプロジェクトがGallery 360°で立ち上がり、赤瀬川原平さんや宇野亞喜良さんらの作品とともに、60年代のグラフィックアイコンとして、DTPを経由した、それまでとはまったく異なるポップアートの文脈で語られることになりはじめた。そこで当時の若い世代は田名網先生のグラフィックを初めてまとめて見る機会を与えられ、非常に驚かされたんです。2000年のミレニアムまで田名網作品は眠っていたと言っても過言ではありません。
田名網先生は集英社の『マドモアゼル』(1960-68)っていう雑誌のアートディレクターを武蔵美時代から務めていました。当時アートディレクターという言葉はなかったけれど。そのあたりから集英社との付きあいが長くなっていくうちに、どっぷりハマっていき『月刊プレイボーイ』(1975-2008)のアートディレクターになる。それと並行で、エクスパンデッド・シネマ全盛期の実験映画をいっぱいつくっていたのです。いわば自分たちDTP・DTV世代の始祖なのです。国立新美術館の個展にでも網羅されていたと思いますが、そういった幅広い活動を知ったうえで、僕は田名網敬一の姿を見つめていたのです。
田名網先生とは2000年頃から活動をともにするようになるのですが、先生はそのときすでに僕の表現を知ってくれていました。
岩渕 田名網さんは当時、京都造形芸術大学で教授もされていました。
宇川 そう。活動をともにするようになった時代、田名網先生に誘われて僕と束芋は京都造形芸術大学で教授をやることになるのですが。デスクトップ以降のグラフィックデザインの進化とトレンドを大学生と相対したときに、網羅していないと対話もできないじゃないですか。だから田名網さんはゼロ年代の若手の表現に詳しかったし、僕の表現についても詳しかった。もちろん僕も田名網さんのことも掘り尽くしていたので仲良くなっていったんです。デザインという言葉がなかった時代から表現を開拓した世代と、辞書を片手に英語のマニュアルでアプリケーションを学び、手探りでDTPを開拓した世代同士の隔世遺伝的交流。
そんな時代を経て、なんで田名網先生の弟子にしてもらったかといえば、きっかけは映像作家/映画監督・松本俊夫先生の日芸での最終講義を田名網先生と見に行ったときのことです。その講義を聞いていたらなんだかエモいエネルギーが魂から湧き起こってきて(笑)。僕は現“在”美術家を名乗り、ライフログアートを実践していますが、映像作家でもあり、元々グラフィックデザイン畑の出身です。DTP以前のデザイン業界には師弟制度みたいなものがあった。憧れのデザイナーのアシスタントになって学ぶとか、ね。しかし僕はDTP第一世代、マニュアルが師匠代わりで、映像作家としても QuickTimeが発明されて、マッキントッシュが時間軸を獲得したから自然にその肩書きを手に入れた。つまり師匠はマニュアルにとって代わられ、アプリケーションそのものが、脳や身体の延長としてデザインを表現をアシストしてくれる時代になりました。パーソナルコンピューティングの夜明けですね。なので、最新のテクノロジーをまとった「実験」世代で、「突然変異」的に表現軸を獲得できていた。にもかかわらず、落語家や漫才師の芸歴が導く上下関係や、襲名や世襲のような人間関係に基づいた、爵位や伝統、技術や思想の継承に大変興味があり、憧れがあった。
なので、43歳のこの日、遂に弟子入りを決意しました(笑)。とにかく、この場で志願しようと。突然「あらためて弟子にしてください」と2人別々にお伝えしました。お二方とも10年以上懇意にさせていたうえでの志願なので、「この男はいま頃何を言ってるんだか(笑)」という戸惑いも見せながらも満面の笑みを浮かべていて、43歳にして認定いただきました。ちなみに男女問わず自分から告白したのは、このときが生まれて初めてでした(笑)。松本先生の最終講義のタイミングで、映像とグラフィックそれぞれの現場で「実験」を繰り返してきた二大巨頭である松本俊夫と田名網敬一、いきなり二人の師匠に恵まれることになりました。当時、僕はすでにある程度の知名度もあったし、DOMMUNEの世界的な評価も伴い、十分活動の歴史も積んで作家性も確立した後なのに(笑)。しかし、松本も田名網も宇川もオルタナティヴな活動理念を打ち出し、システムの外側にはみ出している存在なのです。美術史からもデザイン史からもエンターテインメント史からもはみ出た、権威や制度の外側に開いたこのエクスペリメンタルな門戸を守っていきたいと、この日、強く思ったのでした。
それからずっと交流があったのですが、その数年後の自分の誕生日に松本師匠は亡くなられて、つねに「実験」の先端に居続けるという逸脱の美学と精神を継承していきたい、とあらためて肝に銘じました。田名網先生とは、弟子以前から、これまで2004年のスーパーカーのジャケットやツアー映像のディレクション、2人展、先生の作品集、また、ニーナ・クラヴィッツのジャケや、ジェネレーションズから八代亜紀さんの50周年のBOXやMVまで、要所で弟子として関わらせていただきました。自分の仕事は現在DOMMUNE以外全部断っているのに、田名網先生の仕事だけはやってきました。やばいですよね(笑)。でも弟子だから(笑)。弟子であるというポジションをあえて楽しんでいたんです。そうしたら、どんどん憑依気質になり、技巧が身につきはじめて(笑)。田名網敬一先生の手癖や作風が僕の体内に宿ってくるわけです。2002年の弟子以前から考えると実際にかなりの年月手を動かしてきたので、もはや自分は田名網敬一の手足でもあり、先生がご自身のコマーシャル仕事を僕に自由に任せてくれていたことを考えたら、それはもはや脳の一部であることも認めてくれたいたようなものだと思うんですよね。
加えて、自分は生成AI時代の創作において、作家は作品のどこに存在しているのだろうと早々に探究していた作家でもあります。その第一回目の報告が、昨年練馬区立美術館で開催した個展「FINAL MEDIA THERAPIST」だったのですが、自分自身がAIもといAHI(アクチュアル・ヒューマン・インテリジェンス)になれることがこれで分かった。そんな生身のAIとしての妖術を身につけている作家が、そこから「バ美肉」的な“受肉アイデンティティ”を立ち上げていくっていうのも今世紀っぽいアーティスト・マインドかなって思い始めました(笑)。ですから、急逝した師匠を、今回自らに憑依させ、完成させたこの田名網敬一満載のクリエイティブのなかに自分がいるのかいないのかといったら、めちゃくちゃ存在しているのですよ。
岩渕 すごい話です。新しいかたちの作家性の発露かもしれない。
宇川 以前は生成させる側として人工知能とどう距離を保つかということばかりリサーチしていたのですが、今回のことをきっかけに自分自身がどう人間知能として機能できるのかということを考え始めたんたんです。今回は神田宇樹くんというデザイナーにも参加してもらったので、こちらとしてもプロンプト・エンジニアリングする立場とされる立場が同居し、大変大きなAHIとしての学びとなりました。
細野晴臣からの音楽的応答
岩渕 すでに様々な奇縁を感じていますが、細野さんへはどのようにアプローチされたのですか?
宇川 今回アニメーションのなかで細野さんのお写真をAIで動かしているのですが、その楽曲をお願いするためにまずは骨組みのモーションのみ確定させたラフファイルをお渡ししました。つまり、このシーケンシャルなファイルをメトロノーム代わりにして、細野さんは今回の楽曲を制作してくれました。それがどんな楽曲だったかというと『デイジー・ベル』のようなエレクトロニカル・ムードミュージックだったのです。初めて聞いたときには鳥肌が立ちました。『デイジー・ベル』はダヴィッド・ユエンの1892年のポップスですが、1961年に、IBM 704が歌った世界初の音声合成のプログラムです。その後、スタンリー・キューブリックによる『2001年宇宙の旅』でHAL 9000が暴走した後に歌われていますね。このイメージが降ってきたその瞬間、これは僕が今回生成AIで細野さんの歴史的写真を動かしたクリエイティブへのアンサーとして、IBM 704→HAL 9000を経て、あえて細野さんがAI返しとして肉声の加工で応答してくれたのかなと感じたのです。このPARCOのCM曲のなかでは細野さんがご自身の声を電子加工されていますが、クラフトワークとともにヴォコーダーを世界的にポピュラーにしたYMOの御大が、VOCALOID、生成AI以降あらためてこのようなアプローチで応答してくださったことに胸熱でした。ちなみに細野さんのラジオ番組は「Daisy Holiday!」だし、今回の企画は「Happy Holiday」。なんだか大喜利のようなイメージの変転と連なりですよね、偶然だとは思えない。このことは今度細野さんにお会いしたときに聞こうと思っているんです。
パルコの55周年、細野晴臣の55周年、田名網敬一の88周年、加えて哀悼の意が今回の企画には込められているんですが、AIそして人間の生と死がこのクリエイティブの曼荼羅を支えるストーリーになりました。
時空を超えたセレモニーとしてこの広告に込められた55年の年月をどう次世代に継承するのか
岩渕 広告は時代を写す鏡のようなものだと思います。今回のクリエイティブでも日本の戦後の一時代が凝縮されています。最後に、この55年という時間がパッケージされた本企画の意義について、いまの宇川さんのお考えを聞かせてください。
宇川 今回パルコさんに本企画のクリエイティブディレクターとしてお声がけいただいたことは本当に嬉しかった。クリエイティブディレクターってどういう立場かと言ったら、現場の空気を取りまとめる司祭のようなものです。司祭は儀式の中心に存在し、儀式や典礼を司って出来事をカタルシスに転換させる役割だと思っています。つまり今回は様々な立場のイコンが存在しているなかでそれらをひとつの作法で取りまとめたわけですが、そのビジョンを驚きとか快楽だけで終わらせてはいけないと思っています。そのことが創作の一番奥にあるものだとも信じている。だから、司祭として、ときには霊媒として、イタコのような役割を果たしながら、歴史のなかから掬い上げた時間の断片を平面に焼きつけ、今回制作したビジョンを文化の真言として、観るものの記憶に留めるようなフィルターをつくった。それはいわゆる通常の広告の在り方を超越し、このカルチュラル曼荼羅をいかに後世に伝え広めるかという視点も内包されているのです。〈55周年×55周年×Holidays×Requiem〉時空を超えたセレモニー領域に到達したこのビジュアル世界は、ファインアートとポップカルチャーが混交した戦後日本のオルタナティヴの縮図なのです。