2025.12.12

「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバル in ソウル」レポート。不可視の危機を振り付ける──多元化する振付の美学

フランスのハイジュエリーメゾン、ヴァン クリーフ&アーペルが取り組むモダン/コンテンポラリーダンスのメセナ活動「ダンス リフレクションズ」。その一環として、これまでロンドン、香港、ニューヨーク、京都·埼玉で開催されてきたモダン/コンテンポラリーダンスの祭典「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバル」が、2025年10月16日~11月8日の期間、韓国·ソウルで初めて開催された。本公演のなかから2作品について、舞踊評論家の岡見さえが評する。

『1 Degree Celsius(摂氏1度)』より。2024年、韓国·光州のACC(アジア·カルチャー·センター)での上演の様子 ©Asia Culture Center 국립아시아문화전당
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 数多くの地域にコンテンポラリーダンスを届けてきた「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバル」も5年目を迎える。初の韓国公演を前に、同メゾンのダンス&カルチャープログラム ディレクターのセルジュ・ローランに、これまでの活動を振り返ってもらった。

 「幅広い国の人々にアートを届けることの意義をつねに考えながら、プログラムを考えてきました。アートのない社会は経済と政治だけの社会であり、それだけでは世界の見方が偏ってしまうということになるでしょう。社会のなかにアートを盛り込むということは、異なる社会のあり方を見るということでもあり、それは現代において求められる視点です。コンテンポラリーダンスが世界に対して与えることができる影響は決して大きくはないですが、それでも小さな支援を積み重ね、一人でも多くの人の意識に訴えていくしかないのです」。

 セルジュの語る小さな積み重ね、そしてその先にあるもの。その答えを考えるうえで重要となるであろう、最新の「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバル」である、ソウルでの開催プログラムのなかから2公演を、舞踊評論家の岡見さえに評してもらった。

ホ・ソンイム振付1 Degree Celsius(摂氏1度)』

『1 Degree Celsius(摂氏1度)』より。2024年、韓国·光州のACC(アジア·カルチャー·センター)での上演の様子 ©Asia Culture Center 국립아시아문화전당

 『1 Degree Celsius(摂氏1度)』は、韓国拠点のホ・ソンイムの振付。現代ダンスでもグローバルイシューへの応答は活発であり、気候変動については2012年にフランスのラシッド・ウランダンが気候難民の映像を用いた『スフマート』を発表し、25年に日本でも上演されたアクラム·カーン振付『ジャングル·ブック』もこの系譜にある。

 『1 Degree Celsius』も気候変動への問題意識が根底にあるとホは表明しているが、彼女の語り方はより暗示的だ。セットも映像も用いず、テーマに結びつくのは気温データを処理してつくられた抽象的なサウンドとライティングのみ。振付も感情やストーリーを明示しない。だからこそダンサーの身体性が際立ち、フィジカルな振付が切実な印象を増幅する。

 冒頭、暗い舞台に這って登場するホは体幹を捻り、突き出た手足の関節をいびつに動かし、フランシス・ベーコンの絵画さながらの不気味な身体をじっくりと見せる。照度を増した舞台に6人の男女が現れ、下手から上手、上手から下手へ機械的な行進を繰り返すが、列は徐々に乱れていく。ある者は衝撃を受けた木々のように崩れ落ち、ある者は獣のように震え、あるいは身体を大きく弾ませる。異なる場所で複数のダンスが生起し、響き合う。6人は細かいカウントを捉え、片足を軸にしたピルエットをきっかけにタイミングを調整し、整然と混沌を踊る。中盤に再び現れるホの怪物的なソロとの対照も鮮烈だ。閉じられた舞台空間に多様なダンスが交錯し、観客自身の身体感覚を揺さぶる。ホがキャリアを築いた00年代ベルギーのスタイルを想起させる刺激的なムーブメント(彼女はヤン・ファーブル『主役の男が女である時』のダンサーだった)と、ストリートダンスのボキャブラリーを効果的に使い、ダンスはいまここにある危機の感覚を立ち上げた。

マルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラ振付『カルカサ』

『カルカサ』より。2024年、ザルツブルクで開催された「Sommerszene 2024」での上演の様子 ©Bernhard Mueller

 マルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラの作品のタイトルは、振付家の生地ポルトガルの言葉で骸骨を意味し、それは文化の隠喩であるという。文化をひとつの骨組みと捉えるとき、個々の人間がいかにしてそれを受肉させ、生命を与えるのか? この問いに対する振付は、驚くほど多彩でエネルギーに満ちていた。フェレイラを含む10人のダンサーは個性的であり、ムーブメントには個々の身体に染みついたテクニック──コンテンポラリー、ブレイキン、ヴォーギングやスペイン、アフリカのフォークロア──が滲み出る。それゆえソロダンスは言葉に依らないパーソナルな語りに似るが、スタイルの差異は対立せず、彼らは多様性を受容し、ルールやバトルの緊張感とは無縁のユートピア的コミュニティを形成していく。

 ダンスの熱量で圧倒する前半に対し、後半は美術や照明の転換、歌、グラフィティが加わり、より直接的にメッセージが示される。鍵となるのは、ダンサー全員が声と動きを合わせて歌う『Cantiga Sem Maneiras(礼儀作法を欠いた歌)』だ。無血革命で民主化を実現した1974年のポルトガルで生まれた歌は、貧しい女性労働者の語りの形式でブルジョワジーの支配と欺瞞を糾弾し、ファシズムに対する民衆の団結と戦いを呼びかける。この歌が終わると、背景の壁にひとりのダンサーがハングルで大きくメッセージを綴っていく──「すべての壁は崩れる」。そこから熱気に満ちたユニゾンへなだれ込み、両足の外縁を支点にした独特なステップが、ドメニコ·スカルラッティ作曲「ファンダンゴ」のリミックスにのせて反復される。イタリア出身のスカルラッティは18世紀にポルトガル宮廷に仕え、イベリア半島の音楽をソナタに取り入れた最初の作曲家であり、『カルカサ』はアカデミックな技法で洗練されたダンスと音楽に民衆のエネルギーを再び送り込み、幕を閉じる。

 かつてポルトガルが南米、アフリカ、アジアに植民地を有する海洋帝国だった事実を思えば、作品はナイーブな理想主義に映るかもしれない。しかし86年生まれのフェレイラの関心はエスタド・ノヴォ(新国家)を自称した保守権威主義的な長期独裁、文化抑圧、植民地主義のトラウマの克服にあると筆者は考える。彼は2000年以降にヨーロッパや旧植民地との交通から出現したフラットな多文化状況を新たなポルトガルのアイデンティティとして肯定し、既成の文法に捉われないダンスで権力に対する多様な個の連帯の可能性を綴るのだ。『カルカサ』で踊る義手のB-Boy、トランスジェンダー、多国籍のダンサーは、テーマのために選ばれたのではない。彼らはポルトガルで出会い、振付家と以前から協働する仲間であり、25年9月にリヨンで初演された『F*cking Future』の出演者でもある。権力に統制された戦闘機械としての身体が、連帯し、自らの意思で戦う身体へ変容していくプロセスを象徴的に描くこの新作はいわば『カルカサ』の続編であり、人々の連帯をストレートに語るフェレイラのダンスは、多様な価値観に分断された現代において観客の胸を打つ。

 ダンスは多様な現実の反映であり、振付は言葉以前の感覚の領域を通して観客に語りかける。ダンスを見つめ、思考するとき、観客の精神も踊り、私たちは現代の別の姿に気づき、あたらしい世界を夢想する。ダンス リフレクションズが提案するように、ダンスをめぐる反響と内省はダンスの醍醐味であり、いまこそ大切な営みであると思われてならない。