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2025.3.8

「フェミニズムと映像表現」(東京国立近代美術館)追加レポート。ナンシー・ホルト、ロバート・スミッソン、出光真子による作品が新たに登場

東京国立近代美術館のギャラリー4で、12月22日まで開催されていたコレクションによる小企画「フェミニズムと映像表現」が好評につき、2月11日から再び開催されている。今回新たに追加された作品を中心に、会場をレポートする。

取材・文=白坂由里(アートライター)

出光真子 グレート・マザー 晴美 1983 提供=東京国立近代美術館
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 東京国立近代美術館(以下、東近美)ギャラリー4で、12月22日まで開催されていたコレクションによる小企画「フェミニズムと映像表現」が好評につき、一部作品を入れ替えて2月11日から再び開催されている。前会期の展示についてのレポートはこちらを参照してほしい。

コレクションから、ナンシー・ホルトとロバート・スミッソン、出光真子が加わる

 今会期は、前会期のマーサ・ロスラー《キッチンの記号論》(1975)、遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》(2020)、《新水晶宮》(2020、立体作品)、キムスージャ《針の女》(2000-01)は引き続き展示され、ナンシー・ホルトとロバート・スミッソン《湿地》(1971)、出光真子の3作品《シャドウ パート1》(1980)、《グレート・マザー 晴美》(1983)、《清子の場合》(1989)の計4作品が新たに加えられた。計5組8作品を通じて、1970年代から現代までのフェミニズムに関わる映像表現を紹介。鑑賞の手かがりとして、前回の「個人的なこと」「対話」はそのままに、出光作品に「『私』の分裂」というキーワードが新たに掲げられている。

展示風景より、手前から出光真子《シャドウ パート1》(1980)、《グレート・マザー 晴美》(1983) 撮影=筆者

 同展を主担当として企画した小林紗由里(東京国立近代美術館 研究員)は「出光真子さんの出品作品は、家庭や社会において女性たちが直面する制約や葛藤を、ドラマ的な手法で描く点が特徴的です。とくに《清子の場合》では、女性が芸術家としての道を歩むなかで生じる様々な軋轢が可視化されています。また、新たに展示したナンシー・ホルトとロバート・スミッソンによる《湿地》は、フェミニズムを前面に押し出した作品ではないものの、共同制作における“対等”な関係について問いを投げかける映像となっています」と語る。

ナンシー・ホルト&ロバート・スミッソン 湿地 1971
Courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York
提供=東京国立近代美術館

社会や家族と「個」とのあいだで分裂する「私」

 出光真子は1940年東京生まれ。出光興産創業者・出光佐三の四女として、家父長制の根強い家庭における閉塞感を起点とし、社会や家族のなかで埋没させられる女性の「生(せい)」を描いてきた。1965年渡米し、翌年、画家サム・フランシスと結婚(81年に離婚)。69年に次男が誕生すると、成長まで待ってはいられないと8ミリフィルムカメラを購入し、独学で映像制作を開始。70年代前半に男女同権を求めて立ち上がったウーマン・リブの時代に、「女性は機械に弱い」という社会通念を払拭して16ミリも扱う。73年の帰国後にビデオカメラと出会い、自身の作風を確立。最初の映像制作から30年あまりで40本近い作品を発表してきた。

 出光作品の特徴として、現実を描写した画面のなかに、入れ子状にテレビモニターを配置し、個人の内面を描写するというスタイルがある。今回の3作品でもその手法を通じて、伝統的な社会や家庭での役割と自我の相克による「私」の分裂を映し出している。そして、あたかもそれは、人間の内面を「型」で表現する能楽的な演出法を思わせるようでもある。

展示風景より、左から出光真子《清子の場合》(1989)、《グレート・マザー 晴美》(1983) 撮影=筆者

 まず《シャドウ パート1》は、ユング心理学の概念にある元型のひとつ、シャドウ(厳密には見つめたくない自分自身の人格の側面)をコンセプトとしている。例えば、花びらをむしる女性と、むしった花びらを針で止めて修復しようとする女性。キャリアウーマンが部下の男性を叱咤する場面と、専業主婦が洗濯物を畳む場面の交差。この作品は「第三回東京ビデオフェスティバル」(1980)で特選賞を受賞している。

出光真子 シャドウ パート1 1980 
提供=東京国立近代美術館

 また、《グレート・マザー 晴美》は、思春期の娘と母の関係性をテーマとした作品だ。罵りあうふたりの背景にあるテレビモニターには、依存的で支配的な母娘の姿が映る。さらに父も登場する。筆者の目には夫婦間も親子間も過干渉に映ったが、かつてのテレビドラマで見かける典型的なシーンにも思える。

出光真子 グレート・マザー 晴美 1983
提供=東京国立近代美術館

 さらに《清子の場合》では、女性が芸術家として活動することの困難さを描く。結婚を最良の選択とする両親にとがめられ、気のすすまない結婚をし、なんとか絵画制作を続けようとする清子。しかし家事や育児に追われ、さらに姑から2人目の子供を望まれる。無理解な夫に、自分は生きていくために描かずにはいられないのだと、なぜ、女性は自分を捨てて母親にならなければいけないのかと訴えるが……。

 なかでも、母から「世に認められていないのは才能がないからだ」と追い詰められるシーンでは、清子が、家父長制と資本主義社会の価値基準により二重に拘束され、孤立させられていると筆者は感じた。モニターのなかで、創作の時間がこまぎれになることと、「私」が壊れていくことが象徴的に表現される。また、《シャドウ パート1》《清子の場合》には、息子の結婚観を心理的に操作しようとする母が登場し、3作品が輪廻するようでもある。思えばバブル期の80年代、筆者自身も社会的な刷り込みに無自覚なところがあった。また、個人的な解釈ではあるが、「家」に献身的なこの母たちが高齢者になる頃には、介護にまつわる問題が発生しているのではないかとも想像する。

出光真子 清子の場合 1989
提供=東京国立近代美術館

共同制作におけるジェンダーロールを問う

 また、ナンシー・ホルトとロバート・スミッソンの共同制作による《湿地》は、カメラの目を通した知覚の限界を問う映像作品。同時に記録された撮影プロセスに、ジェンダーロールが表れているとも言える。カメラの狭い視界で藪に分け入り撮影するホルトに、背後から指示するスミッソンの声。これは筆者のうがった見方かもしれないが、空をフレームに入れようとするホルトが、見上げる方向に自分のスペースを求めているようにも感じられた。ちなみに「空」は、出光真子作品によく登場するモチーフでもある。

展示風景より、ナンシー・ホルト、ロバート・スミッソン《湿地》 撮影=筆者

 展覧会全体として、前会期から展示中の作品との呼応も楽しめる。ちなみに筆者は2002年、外苑前のトキ・アートスペースで開かれた出光真子展を鑑賞したことがある。会場にいた作家から、「母性とは最初から女性に備わっているものではなく、社会が与えたもの」だという作品解説や、会期中、年配男性に「子孫の繁栄を妨げる」などと怒鳴られたこともうかがった。先進の女性作家たちがリスクを背負いながらも道を切り開いてきたことに改めて感謝したい思いだ。鑑賞者には若い女性やカップルも目立ち、フェミニズムやその表現への関心がじわじわと感じられる。そのいっぽうで、現在の社会が本質的に大きく変わったとも言い難く、バックラッシュが危惧されるいまこそ見ておきたい展覧会だ。