• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • ノスタルジアが美術史になるとき。エイドリアン・ファベル評「…
2025.3.18

ノスタルジアが美術史になるとき。エイドリアン・ファベル評「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」

1990年代初期の先駆的なアートスペース「レントゲン藝術研究所」とその周辺をインタビューや様々なアーカイヴ調査で掘り下げる展覧会「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」が、昨年12月に東京藝術大学学生会館で開催された。レントゲン藝術研究所の影響や1990年代の東京の現代アートシーンについて、社会学者/現代美術の批評家であるエイドリアン・ファベルが論じるエッセイをお届けする。

文=エイドリアン・ファベル 翻訳=田村将理

「Fo(u)rtunes」展(1993年1月)のオープニングにて。左から西原珉(キュレーター)、小沢剛、鳴海暢平、池内務、会田誠、中野渡尉隆 撮影=黒川未来夫
前へ
次へ

ノスタルジアが美術史になるとき

 去る2024年の12月、東京藝術大学で博士研究を仕上げたばかりの鈴木萌夏の研究を扱う展覧会「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」が、同校学生会館にて1週間にわたり開催された。現在は女子美術大学で講師を務めるZ世代の若き現代美術研究者の鈴木は、池内務による1990年代初期の先駆的なアートスペース「レントゲン藝術研究所」周辺の深まりつつある神話に強く関心を惹かれていた(レントゲンはドイツ語でX線を意味する)。

 当時の東京のアート界は古臭い貸し画廊と西洋から輸入されたアートトレンドに支配されており、やがて1990年代をひとつのシーンとして確立することになる新たなギャラリーや現代美術館の相互のつながりもまだ生まれてはいなかった。そんな時代に、ドイツのクンストハウスというモデルに基づき、池内が反旗を翻すように始めた前代未聞のスペースは、芸大出身の新人作家たちに、主要な初期作品を発表し、アートのメディアや関係者からの最初の注目を浴びる機会を与えた。1991年6月から95年12月までに約40の展覧会を開催することになるレントゲン藝術研究所は、池内が家業の古物商に関わることをきっかけに入手した、東京23区南部の大田区という目立たない立地ながらも広大な3階建ての工場建築であった。 

 鈴木の博士研究とそれに基づく1週間の展覧会は、初代レントゲン藝術研究所(「レントゲンクンストラウム」として青山で再開する以前)の5年間(正確には4年半)の記録を体系的かつ決定的なかたちで提示した。多くの重要人物が携わるインタビューやアーカイヴ調査とともに、鈴木はこのシーンがつくり出したフライヤー、ポスター、写真、いくつかの映像、DIYでつくられた希少なZINEやパーカー、CD、カセットテープなどこの時代を記念する多種多様な品々、そして収集された当時の出版物からなる素晴らしいコレクションをまとめて展示した。そこにさらなる活気を与えた大盛況のトークイベントには、池内だけではなく、先駆的なギャラリストの小山登美夫、このシーンの守護者のような女性キュレーターの西原珉、そして当時『美術手帖』の編集者を務めていた楠見清など、向こう見ずな興奮に彩られていた日々の重要人物たちが登壇した。

「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」展の展示風景より 撮影=澤田詩園

レントゲン藝術研究所の伝説とその影響 

 レントゲン藝術研究所は、今日の東京アートシーンの系譜学においてじつに伝説的な地位を享受しており、それは1990年代から2000年代初期にクール・ブリタニアの誕生に寄与したロンドンの「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」(YBA)と同じような位置づけにある。しかし、ポストコロナの2025年に若い世代のあいだでは、この重要な結節点についてのたしかな記憶や知識は薄れつつあった。若い世代にとってバブル期の日本は、まるでベルリンの壁崩壊のような遠い昔の歴史である。それゆえに、もはや壮年期を過ぎようとするこの世代への鈴木の関心は一層の驚きをもたらした。

 いまや60代前半となるアーティストやギャラリストたちは、当然ながら、自分たちの功績について口をつぐんできたわけではない。いまから10年前、より若い世代の中村ケンゴが1990年代を題材にした書籍『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』(ART DIVER、2015)には、鈴木の展覧会にも似た関心に基づく討論会の言葉がまとめられており、中ザワヒデキが自主出版した『現代美術史日本篇1945-2014』(2008/2014年にART DIVERから再版)は、著者自身も関係した出来事についての逸話とともにこの系譜の見取図を提示している。

 さらには、この時代の作家を部分的に扱う国際的な展示の一端として、1990年代初期の状況をキュレーターの言語でまとめたテキストも書かれてきた。その例として、松井みどりの「Public Offerings」(2001)、ルーベン・キーハンの「We Can Make Another Future」(2014)、吉竹美香の「Parergon」(2020) などが挙げられる。これらの文章に示されたこの時代についての解釈は、当時『美術手帖』で若手批評家として台頭してきた、機知に富んだ池内と確固たる信頼を築いていた椹木野衣の文章に多くを負うており、この時代に椹木が論じた戦後日本とそのおぞましくも退廃的な大衆文化についての思想はレントゲン藝術研究所の核となった。

 新たな東京アートシーンの誕生の象徴となるような最初期のいくつかの展示には、もちろん村上隆も関わっていた。村上は鈴木の手がけたこの展覧会にも姿を見せたものの、関連イベントに参加することはなかった。村上が当時の盟友たちと関わることはいまとなっては稀である。そのことは、筆者がすでに詳しく論じたように(*1)、国外での消費主義的な流通を促すためにのために村上が入念な編集と装飾を施し、この時代に起きていたことの多くを自身の陰に追いやってしまった史観がほとんど支配的となっている現状を反映している。鈴木の博士研究とこの展覧会は、こうした見解を修正していくものとなるだろう。しかし、当時のシーンにおける西原の見過ごされてきた役割について西原自身が常々口にする鋭い自己言及を除けば、このアーカイヴが美術史的にどのような立場を表明しうるかということについての意識は、この展覧会に参加した人々のあいだにほとんど見られなかった。全体としていえば、開催されたトークイベントは素晴らしいユーモアを交えた逸話と自分たちがかつて関わっていた黄金時代の回想に終始していた。

1990年代の東京の奇跡的なアートシーン

 もちろん、ここには記念すべきものがある。この過ぎ去りし日々にレントゲン藝術研究所を始めたときの池内はまだ25歳だった。会場の壁にかけられた数々の写真には、爆発的な勢いで動いていたポストバブルの東京という場所と時代そのものといえる、もっとも刺激的で、若々しく、美しく、それでいてまったく冷静沈着な自信に満ちたアンダーグラウンドのアートムーブメントがそこにあったことを教えてくれる。アートや文化の歴史がつくられる場の中心にいることがいかに奇跡的なことであるか、そして、自分たちがいままさにそれを体験していることを誰もが自覚していたのだ。

「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」展の展示風景より 撮影=澤田詩園

 展示物のなかでも、もっとも刺激的なものには村上隆の初個展「Wild Wild」(1992年2月)のカタログ原本がある。生意気で才気にあふれる村上は同年、この個展のあとに開催された「Anomaly」展(1992年9月)を《シーブリーズ》の衝撃で独り占めすることになる。当時、村上はやがて東京藝術大学で初めての日本画の博士号授与論文となるものを書き進めていた。村上は自身のコンセプチュアル・アーティストとしての最高潮に達しており、西洋のオーディエンスに日本の大衆文化を様式化したものを売り返すというアンディ・ウォーホル的なビジョンにまで椹木の思想を押し広げていた。それによって村上は、より正攻法の、技術的にはさらなる高みにあった中原浩大ヤノベケンジなどの関西で活動するライバルたちの作品さえも凌駕する注目をあつめることができたのである。

 椹木野衣のキュレーションによる「Anomaly」展とそのオープニング・パーティは、池内とレントゲン藝術研究所ならではのキュートで、レトロ・フューチャリスト風で、どこかドイツ民族的な雰囲気をたたえたスタイルを確立した。それは当時スタッフとして関わっており、椹木のパートナーでもある山本裕子が現在、共同で運営する東京有数のギャラリー「ANOMALY」の名前として、いまも誇らしく継承されている。レントゲン藝術研究所はいわば日本版のクラフトワーク(坂本龍一とYMOの影響もじつに明らかである)だった。それは1990年代と2000年代にかけたクールジャパンの盛衰のすべての過程を貫くひとつのイディオムを確立したのである。今日でさえ、昨年のクリスマスに東京を訪れた観光客たちは、GINZA SIXの吹き抜けにヤノベケンジが展示した猫たちの宇宙船のインスタレーション《Big Cat Bang》に魅了されたことだろう。

 当時アーティストたちがつくり出した数々のパーティや、Tシャツや手づくりの「ZINE」のような記念すべき品々は、すべてこの展覧会に見事に記録されていた。これは生の姿の文化史であり、新宿二丁目などのバブル期のアンダーグラウンド文化の現場から生まれてきた東京のロックやクラブ、ファッションといったシーンと、アーティストたちはこのときばかりは張り合えていたのだ。

 これらの藝大卒の若き作家たちはDIYスタイルの文章とマーケティングを通じて、自分たちのための歴史を自らつくりあげ、FAXで東京中にフライヤーを送りお互いにつながっていた。パーティでは、作品は酒のグラスを手にした人々やダンスする人々の陰に度々隠れてしまい、あちこちをさまようたばこやワインに台無しにされてしまう危機につねに晒されていた。

 このシーンはまったくのローコストで、高い会場使用料などもなく、作家やキュレーターたちは作品の制作期間には上の3階で寝泊まりしていたのである。スリリングなことに、このパーティの美学は1980年代とイギリスの美学に別のかたちで呼応したものとなっている。それはまるで1981年頃のロンドンのクラブ「ブリッツ」からそのまま出てきたかのようであり、誰もが(ヴィサージの)スティーブ・ストレンジやデュラン・デュランのメンバーのようないでたちだった。黒衣に身を包み漂白されたブロンドの長髪で圧倒的な存在感を放つ西原は、まるでデヴィッド・ボウイの「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」の映像にエキストラ出演していたスーパーモデルのようだ。東京のアート界においていまでは年配の世代として何かしらの存在となる誰もが、まだ何者でもないころにその現場に立ち会い、あるいは少なくともその場に居合わせた記憶を持つことになる(なかには、正確に年を数えたらそれには若すぎるようなことがあったとしても)。

「Fo(u)rtunes」展(1993年1月)のオープニング 撮影=黒川未来夫

新たな地平を切り開く

 鈴木はこのシーンについてひとつ重要なことを明らかにしている。池内個人は、ニヒリスト少年的なアートという椹木と村上を通じて築かれたスタイルをとくに好んでいたが、それ以外のスタイルにも舞台を与えていたのだ。一度だけだが女性作家たちが主役になったこともある。西原珉は椹木や楠見と比べても著しく異質なライター/キュレーターであり、その詩的で明晰なDIYスタイルの文章は、やがてくる時代の口憚ることのないブログやSNSの前身でもあった。

 西原が1993年初頭にてがけた「Fo(u)rtunes」という2部制の企画は、この時代の新たな才能を取り上げた、もっとも重要にして本格的な展覧会である。ここでは昭和40年会の同輩である会田誠小沢剛、そして1990年代のテクノポップ作家の代表格であり、今日では会田や小沢ほどは知られておらずとも象徴的な存在であり続けている中野渡尉隆と鳴海暢平が、それぞれ学生時代の作品を展示した。若き会田誠の作品群のお披露目となった1993年2月の「Fo(u)rtunes」第2部の衝撃的な影響は到底無視することのできないものであり、それは1990年代の東京のもっとも力を秘めたレガシーとなる唯一無二のビジョンであった。ポルノ漫画のスタイルで描かれた総面積12平米に及ぶ《巨大フジ隊員VSキングギドラ》を含む巨大な作品群は、すでに時代を超えた古典として完成しているかのような佇まいでレントゲン藝術研究所の壁を飾ったのである。

 もちろん、会田のビジョンは村上の楽観的な商業主義を、日本人の精神のゆがみの荒涼たる風刺性へと転じてしまうものであり、日本の外ではなかなかお気に召されることがないまま今日に至っている。それはクールジャパンとして消費されるにはあまりにも鋭く際立った日本らしさとアイロニーを兼ね備えており、そのビジョンは会田の教え子であるアート・コレクティブ、Chim↑Pom from Smappa!Groupというより若い世代の後継者を経由してようやく世界に届いているといってもいいだろう。

 鈴木が指摘するように、西原を例外とすれば、レントゲン藝術研究所のスタイルとフレーバーは徹底して男性的であった。そのことはこのシーンの中心人物としての西原の存在をより一層重要にしている。西原自らがトークで論じたように、ライターとしての西原と村上はこのシーンの原動力となった様々なアイデアの形成の中心であったことは間違いなく、それはヨーロッパのドクメンタやヴェネチア・ビエンナーレを巡りながら、それぞれが観察してきたことを自分なりに日本に落とし込んだものであった。

 また、レントゲン藝術研究所は曽根裕や松蔭浩之などの当時はまだ新人であった作家たちの初期作品を展示した空間でもある。日本のアート界の若い世代の作家たちへの彼らの影響は、長い目で見れば村上や会田を凌ぐと言えるかもしれない。また、レントゲン藝術研究所を通じて西原はフェミニズム的なアート作品を世に送り出すことで新たな地平を開拓し、そこには福田美蘭と花代などによるこの時代のもっとも優れた作品が含まれていた。

ノスタルジアと美術史:未来の美術史家への橋渡し

 さて、ノスタルジアはいつ美術史に変わるのだろうか? 展示記録の出版が予定されている鈴木の博士研究と展覧会は、遠からず東京の1990年代へとたどりつくはずの(国内外の)未来の美術史家たちに貴重な宝の山を差し出している。しかし、その日はまだ訪れてはいない。筆者は日本美術史界隈の仲間たちに東京芸術大学で行われたこれらの一連のイベントの情報を送ったものの、いまでも1950年代・60年代・70年代を断固として重視している米国の美術史家たちからはほとんど反応がなかった。美術史というものは、調査対象となる人物が亡くなるまでにインタビューできる最後のチャンスを研究者たちが悟ったときにようやく本格的に始まるのだ。

 もちろん、作家たちは自ら整理した歴史の流れに自分を書き入れるための努力をつねに重ねている。村上はこのことについて誰よりも意識的である。国際的にいえば、歴史家のあいだに流通しているのは村上の史観だけであり、それは「Superflat」展(2001)、「Little Boy」展(2005)、「The Octopus Eats its Own Leg」展(2017)などを通じて正史化され、ペロタンやBLUM、いまではガゴシアンといったギャラリーにより徹底的に宣伝されてきた。それはひとりの天才の個人的な物語であり、その輝きのすべてが生まれてきたところの集団的な環境の遥か前方をひた走っているのである。未来において、池内や西原の名を記憶するものはいるだろうか? あるいは、会田や小沢さえも忘却されてしまうのだろうか? 現代美術をめぐる国際的な調査のほとんどにおいて、日本のアートはせいぜい1ページか2ページの扱いに単純化されてしまうという悪しき慣例がある。この物語のなかで村上隆と(レントゲン藝術研究所との関わりはない)奈良美智のほかの誰かに居場所が与えられることはありえるだろうか? 

 より多くのものを記憶していくために、ノスタルジアは文脈を与えられ、その価値を検証されねばならない。レントゲン藝術研究所はそこで起きた出来事のみならず、そのあり方にも同等の重要性がある。現代版のクンストハウスという池内のビジョンは、アーティスト、ライター、ギャラリスト、キュレーター、パーティ好きの人々をまたとないただひとつの空間、時間、場所に集め、爆発を引き起こしたのだ。その目もくらむような爆発的な展開を導いたのは村上の《シーブリーズ》と会田の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》だった。

 ここでヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)との並行性を強調しておきたい。ロンドンにおけるYBAのアウトサイダー的な戦略と爆発的なインパクトもやはり同じような道をたどっていた。エリート的な主流の美術館やギャラリーから拒否されたYBAの作家たちも使われなくなっていた工場を占拠し、目を見張るような挑発的で大胆不敵なポップ・アートを制作した。また、ダミアン・ハーストやジェイ・ジョプリングと東京のシーンのあいだには、重要な個人的なつながりがあった。

 レントゲン藝術研究所は、ギャラリーではなくアートスペースだった。そこで繰り広げられたパーティと書かれたテキストが東京の現代アートシーンを真にクールなものとしていたのだ。京都のシーンとの競争関係という力学ももうひとつ重要な点である。しかし、西原のプロト・フェミニスト的な言語に明瞭に表れていたようなレントゲン藝術研究所を舞台としたアートの批判的な鋭いエッジは、村上隆や小山登美夫、彼らの米国の後援者たちがグローバルなアートシーンでの成功へと導くことのできた遥かに愛想のよい商業的なアピールへと速やかに丸められてしまった。それは1990年代後期と2000年代初期の東アジアの現代アートとともにグローバリゼーションの波にのまれ、ハンス・ウルリッヒ・オブリストやホウ・ハンルのようなキュレーターたちがいかようにも扱えてしまう、文化をめぐるプレイグラウンドのひとつとなっていった。

「レントゲン藝術研究所とその周縁−1990年代前半の東京における現代美術−」展の展示風景より 撮影=澤田詩園

 グローバルな文脈を扱う美術史家たちが過去に遡り、1991〜95年の東京で実際に何が起きていたかをその目で理解するために、いまこそなんらかのきっかけが必要である。たやすく知ることのできる村上の物語はこの関心に応えてはくれるが、そこでは歴史の全体像が犠牲になってしまっている。それはほかの主人公たちの各々の歩みについての深い理解に欠けているが、その複数の道筋こそが日本の現代アートにおける社会的・政治的な系譜のそれぞれに残響しつづけているものなのだ。日本という現地において鈴木がまとめた記録は説明に徹するものであり、何か明確な議論が提示されているわけではない。それはいまのところ、数々の資料と物語の集積である。ここに美術史家たちがたどりつくまさにそのとき、これらの残された断片からどれほどの文脈化と相対化が可能となるかという興味深い問いが立ち上がる。この未来の美術史へと続く扉を開く鍵を収集し、公開することによって、鈴木はこれらの歴史家たちに途方もない貢献を与えているのである。

*1──Favell, Adrian. Before and After Superflat: A Short History of Japanese Contemporary Art 1990-2011, Hong Kong: Blue Kingfisher/DAP, 2012. pp.246; ‘Resources, scale and recognition in Japanese contemporary art: “Tokyo Pop” and the struggle for a page in art history’, Review of Japanese Culture and Society, vol.26, Dec, 2014. pp.135-153.