キュレーションと公平さの狭間で。檜山真有評「(こどもの)絵が70年残ることについて」
HAPSが東京国立近代美術館主任研究員・成相肇をゲストキュレーターに招聘して開催した展覧会「キュレーションを公平フェアに拡張する vol.3 (こどもの)絵が70年残ることについて」。障害者支援施設「落穂寮」と「みずのき」に残る絵をもとに、「障害」という属性に遡る「こども」という時間軸から、評価と属性についての判断に一石を投じることを試みた本展を、BUGのキュレーター・檜山真有がレビューする。

「蝋燭の炎の揺らめいてその頼りない光に照らされた世界のこれまた頼りなくちらちら揺らぐ感じ」
キュレーションを批評していくには二つの道筋があり、どちらも欠かすことはできない、だが、それ以外は不可欠ではない。ひとつは言葉から展覧会を読み解くこと、もうひとつは展覧会が何によって構成されているか。つまり、キュレーションを批評していくことは展覧会の構成要素を詳らかにすることであり、キュレーションが何にアテンションとポリティクスを置いているかを明らかにする。
本展は「キュレーションを公平(ルビ:フェア)に拡張する」というHAPS(東山アーティストプレイスメントサービス)が文化庁より受託する「障害者等による文化芸術活動推進事業」の一環として、2022年度から継続して開催している展覧会シリーズである。第1回に保坂健二朗(滋賀県美術館ディレクター)、第2回に藪前知子(東京都現代美術館学芸員)をゲストキュレーターとしてむかえ、本展はその第3回にあたり、ゲストキュレーターとして成相肇(東京国立近代美術館主任学芸員)を招聘している。成相は本展のタイトルを「(こどもの)絵が70年残ることについて」と名づけ、「障害者を含む、誰もが通過する「こども」に、いったん属性を置きなおし」(*1)、「仮に、「こども」の表現が高く注目された1950年代から60年代に時代を絞る」(*2)ことで、HAPSから発注されている「障害とアート」というテーマにて展覧会を構成している。

展示室はひと部屋で中央に長机がふたつ設置してあり、その上には資料が並んでおり、それを囲うように壁面に絵が並んでいる。向かって左と正面のものは額装され、向かって右はアクリルにて挟まれ保護されている。入り口手前には展示台があり、キャプションが2枚うやうやしく並べられている。
展示されている絵は、すべて画用紙にクレヨンかオイルパステルで余白を埋め尽くすように様々な色彩を使い描かれている。タイトルは無題かつけられていないか不明か推定かモチーフに直結する単語となっていることから、作品として名づけられることを描いた本人もその周囲の関係者も重視しているわけではなさそうだし、実際に成相はこれらの絵が「集中力を高めるための訓練や教育の一環として描かれている」(*3)と述べている。椎の木会とみずのき美術館(当時はみずのき絵画教室)という異なる施設から、出品されているのにもかかわらず、どこか似通った印象を受けるのはそれが自らの思いや個性を表出させる表現物ではなく、別の目的を持ち、そのための手順が確立されている教育の産物だからだ。それゆえに、「こども」だともいえるし、「こども」をカッコで括らねばならないのだろう。
なぜなら本展に出品されている絵は「こども」が描いたものばかりではない。14歳から49歳までの、もうこどもとは言い難い年齢の作者も本展には含まれる。しかし、特定の専門的な技能や知識ではなく、「社会」に順応するために早々から身につけておかねばならない技能を言葉に限らない手段において訓練・教育することは、「こども」に行う方法論と「一般的には考えられる」(*4)。ただ、本展で重要視されるのは、こどもやそれを指し示す対象が誰なのか、ということよりも、1950年代から60年代にかけて、アートがいかに彼ら・彼女らの創作物を表現として評価しようとしたか、それらにどのような名前を与えようとしたか、権威と倫理がない混ぜとなった議論一体の追跡、つまり、70年という時間のなかにあるアートという制度が固執してきたものなのではないだろうか。なぜ障害をめぐる制度ではなく、アートという制度なのかはタイトルを見れば明らかだ。

*1、2──本展のハンドアウトより引用
*3──2025年2月9日に開催されたトークイベントでの成相の発言より
*4──カギカッコ内は社会通念上の言葉より選んでおり、筆者の思うところではない