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2025.8.10

画家ゴッホを世界に広めたヨーというひとりの女性。原田マハ(作家)×大橋菜都子(東京都美術館学芸員)対談

フィンセント・ファン・ゴッホを世に広めたファン・ゴッホ家と、その家族が受け継いできたファミリー・コレクションに焦点を当てた展覧会「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が、今年の9月12日から東京・上野の東京都美術館で開催される。本展で重要な登場人物となるフィンセントの家族、とりわけ義理の妹にあたるヨーについて、作家の原田マハと本展企画担当の大橋菜都子(東京都美術館学芸員)に対談で迫った。

文=大橋ひな子(ウェブ版「美術手帖」編集部)

左から原田マハ、大橋菜都子(東京都美術館学芸員)
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 フィンセント・ファン・ゴッホ(以下フィンセント)を世に広めたファン・ゴッホ家と、その家族が受け継いできたファミリー・コレクションに焦点を当てた展覧会「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が、今年の9月12日から東京・上野の東京都美術館で開催される。

 本展で重要な登場人物となるフィンセントの家族、とりわけ義理の妹にあたるヨハンナ・ファン・ゴッホ= ボンゲル(以下ヨー)は、義兄であるフィンセントや、フィンセントの弟でありヨーの夫であるテオドルス・ ファン・ ゴッホ(以下テオ)の死後、フィンセントの作品を世に出すことに人生を捧げ、画家として正しく評価されるよう奔走した立役者。今年の6月末に出版された『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』という、日本語訳されたヨーの評伝についても触れながら、作家の原田マハと本展担当の大橋菜都子(東京都美術館学芸員)に、ヨーというひとりの女性について対談で迫った。

ようやく光が当たり始めたヨーという存在

大橋菜都子(以下、大橋) 今回、展覧会に先立ち『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』という、フィンセントの義理の妹・ヨーの評伝が日本語版として出版されましたが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

原田マハ(以下、原田) 「ついに出た」と思いました。フィンセントについては、長い間注目が集められてきましたが、実際彼は10年間くらいしか画家として活動していません。この短い画業の間に、行ったことや書いたことをここまで徹底的に調べられ、共有されているアーティストってそんなにいないと思うんです。仕事柄様々な作家について調べるなかで、なぜフィンセントだけこんなに知られているのか、とずっと思っていました。

 彼の画業を世の中に伝えたはじめのひとりは弟のテオですが、じつはよく調べてみると、テオはフィンセントが亡くなったわずか半年も経たない間に亡くなっています。

 ではいったい誰が、この2人の兄弟の絆や壮絶な人生、そして作品が生まれる過程を世の中に広めたのか。それは、弟テオの妻であったヨーなんです。フィンセントをプロデュースしアーティストにしたのは、なんとひとりの女性だった。

 なんの血のつながりもなく、あるときからファン・ゴッホという苗字を名乗ることになってしまっただけの女性。最初にそれを知ったのは学生のときでしたが、すごく驚いた記憶があります。調べていくうちに、このヨーという人物はもっと脚光を浴びてもいいのではないかと思っていたので、今回の出版はとても嬉しく感じています。

原田マハ

美術とは無縁だったヨーの、愛書家としての一面

大橋 たしかに、ようやくヨーにも光が当てられるようになったと感じます。21世紀になるタイミングから、ヨーとテオの手紙のやり取りの出版や、日記の公開も進んできて、そしてついに今回この本が出版されました。今回この本のなかで、ヨーに関する印象的なエピソードがあれば教えてください。

原田 彼女はとても知的な人ですが、その背景には本をたくさん読んでいたことが挙げられると思います。生涯を通して読書が彼女の人生の喜びだったようで、さらに彼女自身、一時期は作家になりたいという願望を持つぐらい、文章を書くのも好きだったということが印象的でした。

 彼女はいろんな情報を読書から吸収できる人で、だからこそ、フィンセントからテオやヨーに宛てた手紙にある文学的な素養や魅力に気がつくことができた。身をもってその才能に気づいたことが、一時は狂気の画家だとまでいわれた義理の兄を、肯定する理由になったのだと思います。 

大橋 じつはゴッホ自身も愛書家で、小さい頃からたくさん本を読んでいたことも、何か2人に通じるものがあるのかもしれません。どちらも本から得たものが大きいのだと感じます。

 ただそのうえで私は、ヨーは本や文章のほかに、音楽についても素養はあったようなのですが、実は美術とはほとんど無縁の世界で育ったというのが驚きでした。美術との接点でいうと、本当にテオと暮らした1年半の間くらいだったようです。それにも関わらず、当時まだ評価が定まっていなかった新しいアートをいいと信じて、広めていこうと考えたのは改めてすごいことだと思います。

ゴッホとヨーの運命的な出会い

大橋 そんなヨーとその息子のフィンセント・ウィレム・ ファン・ゴッホが受け継いだコレクションが、概ねゴッホ美術館に継承されているわけなのですが、今回「家族のつないだ画家の夢」というかたちで、家族に焦点を当てた展覧会を開催するに至りました。

 そして今回このメインビジュアルがゴッホの自画像なのですが、実はヨーが初めてゴッホに会ったときの印象に似ていると回想していたものなんです。ヨーからの印象はこういうイメージだったんだなと。

大阪展の展示風景より、フィンセント・ファン・ゴッホ 《画家としての自画像》 (1887年12月-1888年2月) 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

原田 ヨーはゴッホのどういうところに魅力を感じていたと思われますか?

大橋 最初は、やはり夫であるテオが評価していた画家として、興味を持っていたのだと思います。ただ長年手紙を整理するうちに、作品を描く背景にある思いなどを知り、見方が変わっていったのだろうと、本を読んで感じました。また10代の頃から人の役に立ちたい、社会のためになることがしたいと考えていたヨーは、フィンセントの晩年に垣間見える、人々の慰めになる絵画を描きたいといった考えを知り、人としても尊敬できる画家として、魅了されていったのかなとも思います。

原田 おっしゃる通りだと思います。それにしても、ヨーという人が、いかにフィンセントの画家人生に欠かせない人物か、というのは調べれば調べるほど明らかになるのですが、2人の出会いは、ほとんど運命的だとしか思えません。私は仕事のなかで、「ここでもしこの人が違う選択をしていたら、未来は変わっていたのかもしれない」と思うエピソードに出会うことがあるのですが、まさにフィンセントの場合においては、ヨーの登場がそれに当てはまる。

 この本を読むとわかるのですが、じつはヨーは直前まで違うボーイフレンドと付き合っていたんです。ヨーがもしその人と結婚していたら、また全然違う未来になっていたはず。

 さらにいえば、絵だけでなくそれをサポートするための作品解説を、フィンセントは自身の言葉を使ってテオ宛の手紙のなかで行っていたこと、それにいち早くヨーとテオが気づいていたこと、そしてその手紙には大変な価値があると理解し捨てずにとっておいたことなど、あらゆる奇跡が重なって、今日のゴッホ像、もっといえば現代美術史が成り立っているのだといえると思います。

20世紀的なアートマーケットの目覚めを促した功績

原田 ヨーはフィンセントという画家のよき理解者だっただけでなく、その価値を世の中に広めたという点でも評価できますが、なかでも作品を海外に向けてグローバル展開したという点は興味深いですね。

 当時ちょうど19世紀から20世紀に変わる時期で、美術品の価値自体も変化していくタイミングでした。おそらく彼女は、20世紀における美術の価値は、それを愛する人が決める、そしてそれに従ってマーケットが動いていくということを理解していたのだと思います。

 それこそが20世紀という新しい時代のアートのかたちだといち早く気づき、そしてその作品の価値に気付かせるためには、本物の作品を送り込むのが早い、と行動に起こしたところには、とんでもない先見の明があったといえるでしょう。 真の意味で20世紀的なアートマーケットの目覚めをうながした人でもあると考えれば、単純にひとりの作家のプロモーターやプロデューサーと表現すべきではないかもしれません。

大阪展の展示風景より、テオ・ファン・ゴッホ、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 『テオ・ファン・ゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』 (1889-1925) インク、紙 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

大橋 フィンセントを世に出しただけではなく、生活の中にアートを取り入れる、個人が作品を所有するという文化のきっかけをつくったともいえる部分は、大いに評価すべきですね。

 またもうひとつヨーの功績をあげるなら、複製をつくる許可を快く出したことかと思います。20世紀に入って作品の価格が上がるなか、本物が買えない労働者階級の人にもフィンセントの絵を身近に置いて見てほしいという思いから起こした行動で、その点においてはギャラリストとは違った目線を持っていたと考えられます。

ひとりの女性としての、ヨー

原田 アートマーケットの話が出ましたが、ヨーが活躍した時代を含め、ヨーが「女性」であるという部分にも着目できればと思います。フィンセントを追うようにテオも亡くなってしまいますが、ヨーという女性は、その後も世紀をまたいでしぶとく生きました。

 当時女性であることは、社会の風潮的にもネガティブな要素はたくさんあったと思います。しかしそのなかで、彼女はしぶとく、諦めずに長く生き延びた。

大橋 当時はやはり男性が強い風潮があったり、とくに美術界という古い慣習もたくさん残っている分野で、シングルマザーとして家を守りつつ、フィンセントを世に出してくという二足の草鞋をやってのけたのは、本当に強い使命感を持っていなければできないことですよね。

原田 ヨーはもしかすると、女性だからこそ、さらにいえば母だからこそ、ここまで頑張れたのかもしれないですね。彼女はテオが亡くなったとき、1歳になるかならないかの幼子とともに残されました。 女性であることがネガティブな要素になる当時でも、彼女は彼女なりの使命感に燃えて、母として子供を育てる覚悟とともに、夫がやり残したことを引き継ぐ覚悟をしたのかもしれません。

 じつは、ヨーはもともと非常に自己肯定感が低い子供だったようです。そんな気弱だった少女がどうしてここまで強くいれたのかはもはやミステリーですが、確実な理由はわからないにせよ、全女性の鑑と言えるような見事な彼女の生き様に、同じ女性として誇らしげな気持ちになりました。

編集部から質問

ーー「女性だからこそ強く生きた」という点についてもう少し詳しく伺わせてください。ヨーは、当時立場が弱かったはずの「女性」でありながら、ここまでフィンセントを世に広めることに尽力できた理由はなんだと思いますか?

原田 やはり母であったことは強度を増した理由だと思いますが、ただその役割以上に「女性」としての強さ、というものも彼女は強く持っていたような気がします。女性というのは、本能的に命を育む性です。その点で、女性には男性とは違う強さがあるのだと私は思います。ヨーは、とくにその生命を育むという強さを非常に強く持った人だった。そしてアートや文学を愛するという人間の知的な部分を育んでいくことにも、非常に力を注いだ人だったのだと思います。

 そんなヨーをはじめとしたファン・ゴッホ家の家族が、いかにしてゴッホという画家の伝説を支え、また守り「つないで」きたのかということは、この時代にこそ知られるべきことだと思います。ファミリーが結束してアートを次の世代に伝えていくという点に着目した展覧会を、今やることに意義を感じます。

大橋 今回展覧会では、ヨーをはじめとした家族が守り受け継いできた作品を、実際にご覧いただくことができます。

 フィンセントはどうしても孤高の人というイメージが、とくに日本だと強くあると思うのですが、じつは家族がこんなにもいて、時代を超えてつないできたのだということに気づいていただく機会をつくれたらと。

原田 分断や断絶ではなく、継続してつないでいくために戦った人たちがいたということ。 私たち人類は、お互いを支え合って思いやり、文化や芸術を次の世代に伝えていくことにこそ、力を注がなくてはいけない。そんなことを伝えてくれる展覧会になると期待しております。