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2024.9.19

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)開幕レポート。「不屈の情熱の軌跡」をたどる

上野の東京都美術館で、近年再評価が高まる画家・田中一村(1908〜77)の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が始まった。会期は12月1日まで。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

展示風景より
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 東京・上野の東京都美術館で、画家・田中一村(1908〜77)の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が始まった。会期は12月1日まで。担当学芸員は中原淳行(東京都美術館学芸担当課長)、監修は松尾知子(千葉市美術館副館長)。

展示エントランス

 田中一村は栃木県出身。その画才から幼少期より神童と呼ばれ、1926年には18歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学した。同期には東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし2ヶ月余りで退学し、その後は独学で作品を制作。47年には第19回青龍社展に入選するも、その後は日展や院展に相次いで落選。画壇から離れて制作を行うようになり、58年、50歳にして鹿児島県・奄美大島へ移住。以降、亜熱帯の植物や鳥などを題材とした新たな日本画の世界を切り拓いてきた。

 生前、作品発表の機会に恵まれなかった一村だが、没後の1984年に「日曜美術館」(NHK)で紹介されると、その名は全国に知られるようになった。2010年には「田中一村 新たなる全貌」が千葉市美術館、鹿児島市立美術館、田中一村記念美術館で開催され、大きな話題を呼んだ。また生誕110年となる18年には、「生誕110年 田中一村展」(佐川美術館)、「初公開 田中一村の絵画 ―奄美を愛した孤高の画家― 」(岡田美術館)、「生誕110年 奄美への路Ⅱ 田中一村展」 (田中一村記念美術館)などが開催。ジャポニスム2018の公式企画のひとつである「深みへー日本の美意識を求めてー」展(キュレーションは長谷川祐子)において、田中一村作品が海外で初公開されるなど、再評価の機運が高まりを見せた

 本展は、一村が神童と呼ばれた時期から奄美の地で描かれた最晩年までの全貌を、田中一村記念美術館の所蔵品をはじめとする約250件以上の作品で紹介するもの。この数字は、これまでの東京都美術館企画展においてもっとも多い展示数だという。

 東京都美術館の前身である東京府美術館の開館は、一村が東京美術学校を退学したのと同じ1926年。また、一村は生前、「最後は東京で個展を開いて、絵の決着をつけたい」と語っており、その言葉が実現するという意味でも重要な展覧会と言えよう。監修の松尾は、「14年前の展覧会以降でわかったことを全部を投入した」と、本展にかける意気込みをあらためて見せた。

 膨大な作品が並ぶ会場は「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」「第2章 千葉時代」「第3章 己の道 奄美へ」の3章構成。そのハイライトを見ていこう。

展示風景より

 「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」では、5歳で東京へ移り、彫刻師の父から書画を学び「米邨」の号を受け制作された作品《紅葉にるりかけす/雀》(1915)が初めに紹介される。一村の制作活動は数え年8歳(満6〜7歳)から始まっており、同作の筆跡から「神童」と称された理由がわかるだろう。また15歳で描いた《白梅図》(1924)も見事であり、その大胆な筆跡は抽象画のようでもある。

展示風景より、《紅葉にるりかけす/雀》(1915)
展示風景より、左がら《白梅図》《藤図》(ともに1924)

 一村は現役で東京美術学校に入学を果たすも、わずか2ヶ月で退学。しかし一村は中国近代の文人画家による吉祥的画題の書画に影響を受けながら南画家として身を立てていった。1章では、大学退学の時期に描いた新出・初公開の《蘭竹争清図》(1926)をはじめ、若き日の力作がずらりと並ぶ。

展示風景より、手前が《蘭竹争清図》(1926)

 20代になると家族の不幸で苦労をしたり、自身の画風が支援者の賛同を得られなくなったことで「南画と訣別」した、画業の空白期間があると考えられてきた一村。しかし、1章で展示されている《椿図屏風》(1931)といった作品や資料から、その期間も新たな画風へ挑戦するための制作活動が意欲的に行われていたことがわかったという。一村の新たな動きを象徴する同作の周囲には、ここ10年の間に発見された作品が並んでおり、これらをあわせて見ることで一村の試行錯誤の過程をたどることができるだろう。

展示風景より、《椿図屏風》(1931)
展示風景より
展示風景より、手前は《蘭竹図/「富貴図」衝立》(1929)

 「第2章 千葉時代」は、27歳にして父も亡くし、30歳で親戚を頼りに移住した千葉市千葉寺町での活動を追うセクション。農作業や内職をしながらも周囲の支えもあり絵を描くことを続けることができた一村は、千葉の風景を描いた絵画やデザイン的な仕事、季節ものの掛け軸などといった、丁寧な作品を数々生み出していった。とくに色紙絵は、展覧会という発表の機会がなかった一村にとって、気軽なフォーマットという以上に重要な意味があったという。それゆえか、比較的小さな画面の作品でも、その描き込みには目を見張るものがある。

第2章の展示風景より
第2章の展示風景より

 一村は昭和10年代から戦後まで、江戸時代の文人画に学び、山水画の原理を習得していった。会場には、富岡鉄斎の作品を写し、原本にはない要素を描き加えた《楼閣山水図》(昭和10年代)など複数の軸物が並ぶ。

展示風景より、手前が《楼閣山水図》(昭和10年代)

 1947年に画号を「柳一村」と改めた一村は、川端龍子主宰の青龍社展で初入選を果たす。このときの入選作《白い花》(1947)は、結果的に一村にとって公募展入選の唯一の作品となった。本章のハイライトとも言える。一村は翌年の青龍社展出品時に「田中一村」と名乗りはじめ、新たな人生を歩み始めた。

展示風景より、左から《秋晴》(1948)、《白い花》(1947)

 なおこの章では、奄美行きの援助の意味も込めて依頼された襖絵一式も展覧。その力強さに圧倒されることだろう。

 また同章最後には、1955年6月に九州・四国・紀州を巡る旅に出た一村が、支援者らに贈った風景画の色紙がずらりと並ぶ。

展示風景より、手前は《松図(裏面:四季花譜図)襖》(1960)
展示風景より、左から《紅梅図 襖》(1960)、《白梅図(裏面:四季花譜図)襖》(1958)
展示風景より、風景画の色紙の数々

 一村は1958年、50歳で姉の喜美子と別れ、単身奄美へと移住。奄美という亜熱帯気候で育まれた自然を題材にし、独自の絵画世界を築いた。「第3章 己の道 奄美へ」は、一村の奄美における活動に目を向けるものとなる。

 移住当初は与論島や沖永良部島などを積極的に取材するも、2年後に金銭的な事情で千葉へと戻った。千葉では国立千葉療養所の所長官舎に画室として部屋を借り、奄美の風景を描いたという。そして61年、一村は再び奄美へと戻ることとなり、亡くなる71年まで奄美で過ごした。 

 《奄美の海に蘇轍とアダン》(1961)は、奄美から千葉に戻った時期に描かれたもので、奄美滞在の成果が存分に凝縮された名品だ。

展示風景より、右は《アダンと小舟》(1960)
展示風景より、手前が《奄美の海に蘇轍とアダン》(1961)

 また最後の部屋には、晩年の一村が1974年の書簡に「閻魔大王えの土産物」と記した《アダンの海辺》(1969)や《不喰芋と蘇鐵》(1973)といった代表作の数々が展覧。一村が残した《アダンの海辺》の添状には同作の詳細が記載されており、ぜひ目を通してほしい。また、《白花と瑠璃懸巣》や《枇榔樹の森に赤翡翠》といった未完のまま残されていた大作も並ぶ。

展示風景より
展示風景より、左から《アダンの海辺》(1969)、《不喰芋と蘇鐵》(1973)

 東京美術学校の退学から、独自の道のりを歩んできた一村。そこには、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ「不屈の情熱の軌跡」を見ることができるだろう。