2024.12.21

阪神・淡路大震災30年 企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」(兵庫県立美術館)開幕レポート。あの日、何を失ったか、これから何を残せるのか

阪神・淡路大震災から30年の節目となる2025年を前に、兵庫県立美術館で阪神・淡路大震災30年 企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」が開幕した。会期は25年3月9日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、田村友一郎《高波》(2024)
前へ
次へ

 兵庫・神戸の兵庫県立美術館で、阪神・淡路大震災から30年の節目となる2025年を前に、阪神・淡路大震災30年 企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」が開幕した。会期は25年3月9日まで。

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。淡路島北部を震源に死者4564人、総被害額10兆円を超えたこの大災害は、90年代の日本に深い傷を残し、いまも計り知れない影響を与え続けている。

兵庫県立美術館

 兵庫県立近代美術館(1970〜2001)は、この震災で建物や収蔵品に大きな被害を受けた。同館を引き継いだ兵庫県立美術館は、2002年に震災復興の文化的シンボルとして開館。以後、震災後の節目の年に関連展示を開催してきた。そして30年目の節目となる今年、初めての特別展会場での自主企画展として「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」を開催する運びとなった。

 阪神・淡路大震災は多くのものを人々から奪ったが、しかし、いま現在も世界中では多くの災害が発生し、また戦争による破壊と殺戮も続いている。本展は当時の震災を振り返るだけでなく、未来への希望を想像しにくい時代において、改めていまを生きる「わたしたち」を「希望」の出発点として位置づける展覧会だ。出展作家は、束芋米田知子、やなぎみわ、國府理、田村友一郎、森山未來、梅田哲也。

左から田村友一郎、森山未來、梅田哲也、やなぎみわ、米田知子、束芋

 本展は長い廊下を進むことから始まる。この廊下と展示室を組み合わせて、1995年という時代の記憶を呼び覚ますのが、水戸芸術館でも個展を開催している田村友一郎だ。田村の展示はまさに本展が開催されるその背景を総覧するような展示といえるだろう。

展示風景より、田村友一郎《高波》(2024)

 田村は、同館の長い廊下を「橋掛かり」に、展示室を能が行われる「本舞台」に見立て、能の代表的な演目のひとつ『高砂』をモチーフとしたインスタレーション《高波》をつくりあげた。

 橋掛かりには通常、一本松、二本松、三本松と、等間隔に3つの松が植えられる。田村はこれをアニメ『サザエさん』の背景美術を思わせる、庭の盆栽のイメージとして表現し、館の廊下の階上に設置。そして、その直下には割れて砕けた松の絵を用意した。

展示風景より、田村友一郎《高波》(2024)

 なぜ『サザエさん』を想起させる松のイメージを使用したのか、という疑問が湧くが、これは震災の日の1995年1月17日の新聞の朝刊から着想したものだ。阪神・淡路大震災は5時46分に発生したため、当日の朝刊は震災については触れられておらず、一面には関係のないニュース記事が並ぶ。そして番組表には磯野家の日常を描く国民的アニメ『サザエさん』の再放送予定が記載されている(もちろん、実際には報道番組となり放送は見送られた)。日常の表徴であったアニメと、そのイメージから零れ落ちて割れた松が接続することで、震災によって日常が変わってしまったことが物語られている。

展示風景より、1995年1月17日の神戸新聞の朝刊

 橋掛かりから続く本舞台に見立てられた展示室には、板ガラスに松の画像を4色のシルクスクリーンで印刷し、アルミフレームにはめこんだ「窓」をはじめ、様々なものが配置されている。この天井から吊り下げられた「窓」は、震災の発生した95年に発売され、インターネットを世界中の家庭に普及させて世界を変えたといえるマイクロソフト社のOS「Windows95」がひとつのモチーフとなっている。

展示風景より、田村友一郎《高波》(2024)

 ほかにも田村は、来たるべきインターネット時代を全社員に呼びかける、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツのメール文面や、古川清、榎忠、松井憲作らによる神戸の前衛美術グループ「JAPAN KOBE ZERO」による、美術館の窓を外して六甲山地の松を館内に運び込んだインスタレーションの記録など「窓」にまつわるモチーフをつなぎ合わせて、95年という時代を表現。当時を知る人も、知らない人も、あの時代にあった複雑なレイヤーを認知することになる。

展示風景より、田村友一郎《高波》(2024)

 ロンドンを拠点に、固有の場所や人の歴史、記憶のリサーチをベースにした手法で写真作品を制作してきた米田知子。米田は本展でふたつの展示室に作品を展開した。

 ひとつめの展示室では、米田が95年の震災直後に現地で撮影した作品と、10年を経た2005年に神戸各所で撮影した作品を展示している。95年の作品は瓦礫や路上に散らばった生活用品、折れ曲がった写真などが、05年の作品は被災者の遺体がかつて安置されていた学校の教室や、瓦礫が撤去されたあとに造成された新たな住宅などが被写体となる。

展示風景より、右が《震源地、淡路島》(1995)

 米田の作品にはほとんど人が映ることはなく、見るものに「不在」を感じさせる。しかし、この不在がむしろ、かつてそこにあったものをより印象づけ、そして当事者ではない人々がそこにあった記憶を追認できる可能性を留保する。

展示風景より、左が《教室Ⅰ—遺体安置所をへて、震災資料室として使われていた》(2004)

 もうひとつ、米田の作品が展示されているのは、展覧会の最後となる展示室だ。ここでは、1995年の震災の日に生まれ、30年近くの日々を生きてきた人々のポートレートを中心に紹介している。そこには不在ではなく、いまを生きる人々の生がはっきりと映し出されており、未来へと記憶と希望をつなぐ可能性が随所に感じられる。

 社会や内面世界を象徴的に描いた、アニメーションや映像インスタレーションで知られる束芋。神戸出身で震災当時も神戸の実家にいたという束芋は、本展のために《神戸の学校》と《神戸の家》の2作品を制作した。

展示風景より、束芋《神戸の学校》(2024)

 震災時、神戸で被災したものの、思い返してもその実感があまりなかったという束芋。それゆえに、震災を正面から作品に取り入れるということはこれまでできていなかったという。

 会場で束芋は「家」と「学校」という他者と生活する場をモチーフとした映像作品を展示。両作とも、家と学校が箱庭的な空間としてとらえた作品だ。年齢を重ね、震災をより客観的に見られるようになった束芋が、当事者の外部には何があるのかを、アニメーションによって探っている。

展示風景より、束芋《神戸の家》(2024)

 現代社会における女性の存在や意識に焦点を当てて制作を行ってきたやなぎみわ。妻・イザナミと夫・イサナギが黄泉平坂(よもつひらさか)で争い、巻き込まれた人々が生き死にする『古事記』を題材とした写真と、ライフワークとして取り組んできた野外劇の映像を展示している。

展示風景より、奥がやなぎみわ「女神と男神が桃の木の下で別れる」シリーズ(2017)、手前が《Juggling with Peaches Ⅰ》(2024)

 やなぎはイザナミが男神たちに投げつけられて動きを封じられた「桃」を題材に、写真シリーズを撮影してきた。写真や劇を通して、神話を語り直すことで、未曾有の災害に新たな視座を与える契機にもなりそうだ。

展示風景より

 2014年に世を去った國府理は、東日本大震災によって発生した原発事故から発想した、水中で自動車のエンジンを動作させる作品《水中エンジン》(2012)で知られる作家だ。

展示風景より、國府理《水中エンジン》(2012)のパーツ

 会場では熱源を水中で冷やしながらエネルギー源を稼働させるという、原子力発電の仕組みにも似た《水中エンジン》のパーツのほか、自然の巨大なエネルギーとの向き合い方を考え続けた國府が、作品のアイデアを記したドローイング群が展示されている。

展示風景より、國府理のドローイング

 森山未來と梅田哲也は、本展会期と同時にパフォーマンス「森山未來、梅田哲也〈艀(はしけ)〉」を実施。本展では関連する作品を会場で展開している。

展示風景より、森山未來と梅田哲也の作品

 森山と梅田は、これまで美術館のホワイトキューブのような場にとらわれない表現活動を行ってきた。今回ふたりは、展示室に用意した黒電話、そしていたるところに置かれたラジオから音声を流す。そこには過去の絶望の話とも、これからの希望の話ともとれる言葉が紡がれている。ぜひ、会場で耳を傾けてもらいたい。

展示風景より、森山未來と梅田哲也の作品

 同館館長の林洋子は本展について次のように語った。「当事者の声だけではなく、その周縁にあったものを、周縁にあるからこそ生み出せるものを、アーティストたちは汲み取ろうとしてる。震災の記憶とともに、そこからこそ未来へ引き継げるものがあるはずだ」。現代美術の力が試される、次の10年、50年、100年に、震災が我々に与えたものを問いかける展覧会といえるだろう。