• HOME
  • MAGAZINE
  • NEWS
  • REPORT
  • 「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」(アーティゾ…
2025.3.1

「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」(アーティゾン美術館)開幕レポート。誰かと何かをつくることの深遠さ

東京・京橋のアーティゾン美術館で、「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」が開幕した。会期は6月1日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、第2章
前へ
次へ

 東京・京橋のアーティゾン美術館で、「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」が開幕した。会期は6月1日まで。担当学芸員は同館の島本英明。

 ゾフィー・トイバー=アルプ(1889〜1943)は、スイス生まれ。テキスタイル・デザイナーとしてキャリアをスタートさせ、その後、緻密な幾何学的形態による構成を、絵画や室内空間へと領域を横断しつつ追求した。いっぽうのジャン・アルプ(1886〜1966)はトイバーの夫であり、詩人としての顔を持ちながら、偶発的に生まれる形態にもとづいてコラージュやレリーフ、彫刻を制作した。

展示風景より、左がゾフィー・トイバー=アルプ《白地に垂直-水平の構成》(1915-16)アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト

 本展は20世紀前半を代表するこのふたりのアーティストの個々の創作活動を紹介するとともに、両者がそれぞれの制作に及ぼした影響や、デュオでの協働制作の試みにも目を向けるものだ。パートナーシップが生み出す創作の可能性も再考する展覧会となっている。

 展覧会は4章構成で、ふたりの足取りをたどる。第1章「形成期と戦時下でのチューリヒでの活動」では、両者が自身の作風を探る時期を取り上げつつ、20世紀を代表する芸術潮流のひとつであるダダイスムの誕生との影響関係などを取り上げる。

 トイバーが生まれたスイス東部はテキスタイル製造の伝統を持つ地域だった。ザンクト・ガレンで素描とデザインを、その後はドイツのミュンヘンとハンブルクの学校で学ぶが、いずれも工芸的な要素とファインアートの相互的な影響を標榜する教育を行っていた。こうした来歴はその後のトイバーの制作姿勢にも強い影響を与えているといえる。またトイバーはアーツ・アンド・クラフツ運動の思想にも共感していたという。トイバーはスイスに帰国後、刺繍と木工、ビーズといった工芸的な素材を使い、幾何学的なフォルムの作品を生み出した。これらは工芸品店などでも人気があったそうだ。

第1章展示風景より

 いっぽうのジャン・アルプはドイツ領ストラスブールに生まれ、工芸学校を経て造形芸術学校に学ぶも、本人が心の拠り所としていたのはロマン派に影響を受けた詩作だった。アルプは詩作を行いながら、同時に造形表現を模索していった。

 1915年、アルプがチューリヒで参加した展覧会をトイバーが訪れ、ふたりの交流が始まった。1916年、チューリヒでフーゴ・バルとトリスタン・ツァラを中心に、ダダイスムの活動が始まる。トイバーもアルプもこのダダイスムに参加しつつ、いっぽうでそれぞれの造形的な関心を深めていった。

 第1章ではこの時期のトイバーの作品を中心に紹介。平面作品からは構造への興味とともに、トイバーのクラフトへの造詣が生み出したであろう、やわらかで温かみのある色彩にも注目したい。

展示風景より、左がゾフィー・トイバー=アルプ《抽象的なモティーフ(騎士)垂直-水平の構成》(1917) アルプ財団、ベルリン/ローランシュヴェルト

 また、ダダイスムとの関連では、アルプの《トルソ=へそ》(1915)や、トイバーの『鹿王』の人形に注目したい。前者は人間のシルエットを単純化し、人間存在そのものへの思考を喚起するレリーフだ。後者はイタリアの劇作家カルロ・ゴッジによる『鹿王』(1762)の人形劇のためにトイバーがデザインした人形で、各登場人物が幾何学的抽象にもとづいた造形で表現されている。いずれも、第一次世界大戦を境に大きく揺らぐことになった、近代的な人間性に疑義をもつダダ的な視点が宿る。

展示風景より、ゾフィー・トイバー=アルプ『鹿王』の人形ーデラーモ王(レプリカ)油彩 2010年代(オリジナル:1918) アルプ財団、クラマール

 第2章「越境する造形」では、ダダイスムの動きのなかで各々の活動を活発化させながらも、やがて結婚し、室内デザインをはじめとした大きな仕事をふたりで手がけるようになるまでをたどる。

展示風景より、第2章

 第一次世界大戦後の平和のなかで加速していくダダイスムに共鳴し、アルプはベルリンを拠点に様々なアーティストと協働。マックス・エルンストやクルト・シュヴィッタースとの仕事を経て、「オブジェ言語」と呼ばれる造形的な語彙を増やしていった。いっぽうのトイバーは、ダダのアーティストとして活動しながらも、実用的な応用芸術の教育者としての動きを活発化させる。刺繍作品の制作や装飾デザインの手引書なども手がけるが、同時に絵画表現への興味も失わなかった。

展示風景より、左がゾフィー・トイバー=アルプ《パッチワークのズボン》(1920-24) アルプ財団、クラマール

 会場では、トイバーの幾何学的なクッションやパッチワークの衣装などが並び、その表現ジャンルの多様さを知ることができる。また、アルプの絵画への興味を示すような平面作品も多数並ぶ。

 1922年に結婚したふたりは、ともに住む場所を求めるようにスイス、パリ、ストラスブールと居を移すが、ストラスブールのコレクター、ホルン兄弟との出会いによって、18世紀の歴史的建築「オーベット」の改築にともなう室内デザインの依頼という大きな仕事が舞い込むことになる。ふたりはこの仕事において、これまで培ってきた空間への造詣や、色彩についての研究成果を遺憾なく発揮した。

展示風景より、ゾフィー・トイバー=アルプによるオーベットのホワイエ・バーの設計スタディやオーベット・バーの天井のデザイン アルプ財団、クラマール

 会場に展示された「オーべット」のバーや天井のデザインのために用意された数々の資料は見ごたえがある。計画のみに終わった「バーゼルのミュラー=ヴィートマン夫妻邸のアクソノメトリック図」や、自宅兼アトリエのためのモジュール式家具なども展示されており、ふたりがダダという前衛の最中にいながらも、実用的で生活とともにある応用芸術への興味をつねに失わなかったことが物語られている。

展示風景より、アルプ夫妻の自宅兼アトリエの模型とゾフィー・トイバー=アルプがデザインした家具 アルプ財団、クラマール

 第3章「前衛の波の間で」は、ストラスブールでの室内空間デザインの仕事を応用し、絵画、そして彫刻作品へと表現をより深化させていったふたりの活動や協働の成果を展示している。

展示風景より、左がゾフィー・トイバー=アルプ《レリーフ・セル(長方形、幾何学的要素)》(1936) アールガウ州立美術館、アーガル

 本章ではとくにアルプの彫刻表現に注目したい。柔軟な石膏によるやわらかでどこか有機的な印象をうけるアルプの彫刻は、ときに伝統的な民話や生命の起源などをモチーフとしたものだ。無機質なようでいて、近くで作品と対峙するとそこに宿る生命感に驚くことになる。

展示風景より

 また、ふたりの絵画にみられる曲線も、いくつもの素描を重ねることによって生まれた独特のリズムをもっている。やわらかでどこか懐かしい気持ちにもさせてくれる配色もまた、その仕事の質の高さをうかがわせる。

展示風景より、左がゾフィー・トイバー=アルプ《色彩を帯びた線の動き》(1940) アルプ財団、ベルリン/ローランシュヴェルト

 こうして、円熟期を迎えようとしていたふたりが刺激し合いながら高め合う制作は、突然のトイバーの死によって終わりを迎えることになる。

 最後となる第4章「トイバー=アルプ没後のアルプの創作と『コラボレーション』」では、トイバーの死に衝撃を受けたアルプが、その喪失に向き合いながら自身の作品を新たな領域に到達させようとした道程を辿る。

展示風景より、ジャン・アルプ《ダフネ》(1955) アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト

 トイバーの急逝後、4年のあいだアルプは通常の創作活動を中断してその死に向き合い、ガッシュや詩をつくり出していく。新旧の詩を再編成したり、ふたりの共作によって完成した作品をちぎりコラージュするといった方法は、トイバーに新たな表現の領域を与えた。こうした行為はやがて、没後においてなお、ふたりがコラボレーションし続ける一連の作品となっていく。

展示風景より、左がジャン・アルプ《共同絵画》(おそらく1950頃) アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト ©VG BILD-KUNST Bonn & JASPAR, Tokyo. 2024 C4772

 第二次世界大戦後、アルプはより明快なフォルムを打ち出した彫刻を制作するようになる。戦後に美術の中心地となるアメリカでは、トイバーとアルプの共作なども含めて、その作品が20世紀の重要な美術として収蔵対象となっていった。

展示風景より、左はジャン・アルプ《貝殻=帽子》(1965)アルプ美術館 バーンホフ・ローランズエッグ

 また、アルプはトイバーの生涯の仕事を記録に残すべく、これまでの作品の制作年を確定させ、カタログ・レゾネとしてまとめている。いかに、トイバー=アルプの存在がアルプにとって重要だったのかがわかるだろう。

 20世紀前半、当時の現代美術の先端をかけぬけ、各々の制作を共鳴させながら時代に名を残したゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ。ふたりが夫婦であったことはひとまず置きつつ、そもそも他者の存在は制作にいかなる影響を与えるのか、他者とともにしか到達できない領域とはどこなのか、鑑賞者一人ひとりが考えずにはいられない展覧会といえるだろう。