日本初公開のスケッチも。「藤田嗣治からレオナール・フジタへ 祈りへの道」が軽井沢安東美術館で開催中
藤田嗣治(1886〜1968)の作品だけを所蔵する美術館として2022年10月8日に開館した軽井沢安東美術館。開館3周年を記念して、フランスはシャンパーニュ地方のランス美術館との共同企画展「開館3周年記念企画 ランス美術館コレクション 藤田嗣治からレオナール・フジタへ 祈りへの道」展が開催されている。

1913年に渡仏し、モディリアーニやピカソ、パスキンなどと交友を結び、エコール・ド・パリのアーティストとして人気を集めた藤田嗣治。1940年にドイツに占領される直前のパリを離れ、日本に帰国した。第二次世界大戦中には、軍の要請で藤田は戦争画を描き、敗戦後の占領期には「戦争協力者」と批判されることとなる。戦争画の収集作業に協力させられるなど、画家として制作することのできない状況にも失意を覚え、1949年に日本を去ると、1955年にフランス国籍を取得し、同時に日本国籍を抹消。2度と日本の地を踏むことはなかった。
苦悩と葛藤に苛まれ、1910年代に取り組んだ宗教画に再び関心を寄せることになる藤田。1959年に夫人である君代とともにランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、新たな信仰の道を歩み始める。洗礼名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんでレオナール・フジタ(以下、文中の表記はフジタで統一)。のちにランスに「平和の聖母礼拝堂(通称シャペル・フジタ)」を建設することになるその経緯を紐解き、フジタ晩年の足跡をたどるべく、妻・君代とその遺族から寄贈された2300点以上の作品や資料を所蔵するランス美術館との共同企画で実現したのが、「藤田嗣治からレオナール・フジタへ 祈りへの道」展だ。
展示は3章で構成されている。第1章は「藤田嗣治からレオナール・フジタへ」。フジタが洗礼を受けた日にランス大聖堂に献納した聖母子の作品を中心に、パリに戻ってからフランス国籍を取得し、カトリックに改宗してレオナール・フジタとなるまでを展示する。

1955年にフランス国籍を取得し、4年後の1959年10月14日には、キリスト教徒として画業と向き合うために、シャンパーニュ地方のランス大聖堂で君代夫人とともに洗礼を受けた。15社ほどのテレビ局や新聞記者たちが取材に入り、その記録映像は現在も残されている。
フジタとランスとを結びつける重要な役割を果たしたのが、シャンパーニュ・メゾンのG.H.マム社とテタンジェ社であり、洗礼式で代父をマム社の取締役であるルネ・ラルーが、代母をテタンジェ社創業家のフランソワの妻であるベアトリスが務めた。パリで開催された個展で、ラルーがフジタの描いたバラの絵に魅了されたことがきっかけとなり、たんなる画家と支援者とのそれを超えた深い信頼関係が始まった。


作品はすべて、軽井沢安東美術館とランス美術館が所蔵(一部寄託)するもの。オーナーである安東泰志が「どうしてこれだけ静謐な絵画が描けるのだろう」と、おもにフジタの後半生の作品に魅了され、蒐集を続けてきた軽井沢安東美術館と、先の述べた2300点以上の作品や資料に加え、フジタが人生の集大成として建立に携わった「平和の聖母礼拝堂」の建築家モーリス・クロジエ所有のデッサンや資料も収蔵し、ランス大聖堂所蔵作品の寄託を受けるランス美術館との共同企画だからこそ、これだけ内省的で、信仰心に裏打ちされたフジタ作品の数々を集結した展示が実現したといえるだろう。



























