櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:終わりの始まり、創作の輝き

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第88回は癌の宣告後に絵を描き、多くの作品を残した小高正道さんに迫る。

文=櫛野展正

最初に描いた作品を持つ小高明子さんと雄介さん
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 静岡県掛川市、高台に建つ掛川東病院の待合室。窓からは、遠くまで街並みが一望できた。僕は、ふと目に留まったチラシラックの中から、『何じゃコレ ヘタでクレ(クレィージィー)』と名付けられた一冊の不思議な作品集を手に取った。自費出版のようで、何気なくページをめくった瞬間、稲妻が走ったような衝撃を受けた。描かれていたのは、人間や動物、抽象的な形が混ざり合ったハイブリッドな生き物たちで、深海の生物や妖怪のようにも見える独特な存在感を放っていた。鉛筆、クレヨン、マーカーなど、様々な画材が混在しているにもかかわらず、その一つひとつが互いに響き合い、作品に深みと複雑な色彩を与えている。

 そのタッチは、一見すると、「特殊漫画家」と呼ばれる根本敬の作風に類似する点も見受けられる。しかし、根本の作品が持つ特有の重さや過激さとは異なり、これらの絵はよりポップだ。鮮やかな色と落ち着いたトーンの絶妙なバランスが、作品にどこか愛らしく、悪意のない雰囲気を生み出している。

 特筆すべきは、どの作品もなぜか画用紙の端が奇妙な形に切り取られているという事実だ。この物理的な特徴が意味する不可思議な謎に、答えてくれる者はいない。なぜなら、これらは末期がんを抱えた一人の男性が、人生の終盤に突如として描き始めた、創造の輝きそのものだったからだ。

 作者の小高正道(こだか・まさみち)さんの生涯を追うため、僕はご自宅を訪ね、妻の明子さんと長男の雄介さんからお話を伺った。正道さんは、2020年12月に70歳で他界されていた。

 1950年3月24日、正道さんは静岡県浜北市(現在の浜松市)で6人きょうだいの5番目として生まれた。実家は食堂を営んでいたようで、幼い頃から家業の手伝いをしながら育ったという。高校卒業後、いくつかの職を経験した正道さんは、37歳で掛川市内の梱包会社に就職した。そこからは定年までの20数年間、一筋に働き続けた。再雇用後も含め、一つの会社に勤め上げたその姿は、勤勉で真面目な彼らしい生き方だった。

 正道さんが34歳の時、代々続く神道の家系を継ぐため、養子に入ってくれる人を探していた明子さんとお見合い結婚をした。結婚後、1989年に長男の雄介さん、1995年に次男の恭平さんが誕生し、あたたかな家族を築いた。雄介さんは東京でシステムエンジニアとして働いていたが、父の体調を案じ、神主を継ぐために2020年5月に帰郷。いずれは6代目となる神主を継ぐのだという。

小高正道さんと明子さんの結婚式の様子

 正道さんは、普段は口数が少なく、感情をあまり表に出さない、寡黙な人だった。家ではテレビを見ていることが多く、食卓を囲んだ後もすぐに自室にこもってしまう。しかし、そんな彼の内側には、静かに燃える情熱があった。それは、彼の趣味を通して、饒舌に語られた。

 とくに、マラソンに対する熱意は並々ならぬものだった。もともと近所の人からの勧めで走り始めたというが、県内各地のマラソン大会に参加したり、毎日仕事帰りにマラソンを行い、マラソン仲間とは週に何度か走りに行ったりするほど熱中した。なかでも驚いたのは、掛川市とアメリカ合衆国オレゴン州ユージン市が姉妹都市提携している縁で招待され、ユージン市へ行ったというエピソードだ。言葉も十分に話せない異国の地へ飛び込むその行動力は、彼の内に秘められた冒険心と強い意志を物語っている。

マラソン大会に参加した際の小高正道さん

 ほかにも、釣りは海釣りから釣り堀まで幅広く楽しんだ。定年後には好きだったパチンコ通いの頻度が増え、長男の雄介さんとパチンコに一緒に行くこともあったという。映画鑑賞も趣味のひとつで、とくに洋画のSF系を好んで観ていた。通院の帰りには、ビデオ店からまとめて借りてくるのが習慣で、多い時には1度に10本もの作品をレンタルしていたという。

 そんな正道さんの体調に異変が現れ始めたのは、2019年初夏のこと。知人夫婦との飲み会で美味しそうにビールを飲んでいた正道さんだったが、その翌月には妻の明子さんが「ビールが美味しくない」と感じていることに気づき、体調の異変を感じたという。夏頃には朝食が食べられない状態が続き、痛みに強い彼が我慢を繰り返すようになった。

 ようやく会社の嘱託医を受診したのは10月のこと。そのときにはすでに盲腸がんのステージ4と診断され、手術は不可能だった。その後、地元の総合病院での検査入院を経て、12月頃から2週間ごとに点滴による抗がん剤治療が開始された。この治療は半年ほど続いたが、病状は徐々に進行し、お腹に腹水がたまり、妊婦のような状態になっていった。しかし、この腹水は「命の水」として、栄養分が奪われるという理由で抜くことはできなかった。抗がん剤治療が効果を示さなくなると、その後は痛み止めだけの治療に切り替わった。

 病状が進み、大好きだったマラソンができなくなってからは、建物の周りをくねくねと歩いたり、家の中で廊下を行き来したりしていたという。そして、2020年3月頃、正道さんは突然、自室のベッドに腰掛けて、あの絵を描き始めた。それはまるで、生涯の最後に最高の才能を発揮する「白鳥の歌(スワンソング)」のようだ。病状の悪化によって大好きだったマラソンという肉体的な自己表現の手段を奪われた彼にとって、絵を描くことは、言葉にできない内なる世界を表現する最後の手段となったのかもしれない。

 それまで絵を描く姿を見たことがなかったという家族は、毎日のように絵に没頭する正道さんに、下手に声をかけることはしなかった。明子さんは「まるで上の方から何かが降りてきて描き始めたのではないか」と感じたという。正道さんは描いた絵を自ら額装し、裏山から伐採した竹に吊るして、室内に飾っていたようだ。

 正道さんは、生前は寡黙な人だった。家族との間に多くの会話があったわけではないかもしれない。しかし、彼は死を目前にして、それまで秘めていた内なる世界を、絵というかたちで表現し始めた。まるで、言葉にしないからこそあふれ出る彼の感情や、自身の人生を、絵筆を通して家族に伝えようとしていたかのようだ。彼が描いた作品の一つひとつは、饒舌だったマラソンやパチンコの話とはまた異なる、より深く、静かな彼の「声」だったのではないだろうか。

 2020年11月、最後の入院をした正道さんは、2週間後にこれ以上治療ができないと告げられ退院した。コロナ禍で面会もままならないなか、明子さんは自宅での緩和ケアを選択し、最期までそばにいることを決意した。

 2020年12月17日、家族に見守られながら、70年の生涯を閉じた。その最期の時、明子さんが置き時計を見た時刻は、彼の誕生日と同じ数字の「3時24分」だったという。逝去後、明子さんは正道さんの絵をまとめ、自費出版で作品集200部を作成し、親しい人やお世話になった人たちに配った。遺された絵は、言葉に頼らない正道さんの生きた証そのものだった。そして、その作品集は、静かに燃え続けた彼の情熱と、それを大切に見守った家族の愛を今に伝えている。