櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:戦国を纏う廃材

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第86回は牛乳パックで大迫力の鎧を生み出す長山剛士さんに迫る。

文=櫛野展正

長山剛士さん
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 その甲冑は、間近で見ると、素材が牛乳パックや段ボールといった日常の廃材であることを忘れさせるほどの迫力と、歴史への深い敬意を感じさせる。幾重にも重ねられた牛乳パックが織りなす朱色は、たんなる赤色を超え、戦国の世に勇名を轟かせた「井伊の赤備え」の熱気を宿しているかのようだ。それはまるで、作者の創造を通して、かつて捨て去られる運命にあった物が、新たな生命と物語を与えられたかのような、力強い存在感を放っている。

長山剛士さんによる作品

 この唯一無二の甲冑を生み出す長山剛士さんは、静岡県浜松市に暮らしている。旅館の料理長を長年務めた後、独学で甲冑制作の道へと進んだ稀有な人物だ。長年、料理長として腕を振るう傍ら、タバコの箱や新聞紙などで灯籠や鳥の置物などをつくり、宿泊客を喜ばせてきた。そして、その創作は独学で甲冑制作へと進み、本格化していった。彼の自宅兼工房には、高価な素材ではなく、身近な段ボールや牛乳パックといった廃材が山と積まれている。しかし、そこから生み出されるのは、精巧な細部までこだわり抜かれた武具の数々。とくに戦国武将・井伊直政率いる精鋭部隊を再現した「井伊の赤備え」は、地域の歴史と文化を力強く支える存在として、多くの人々に感動を与えてきた。甲冑制作に没頭する長山さんは、周囲を巻き込み、地域活性化にも一役買っている。

新聞紙を素材にした鳥の作品

 1942年11月14日生まれの長山さんは、現在82歳。生まれ育った浜松市浜名区引佐町渋川は、かつて渋川温泉で知られ、また戦国時代には井伊家の本拠地として栄えた歴史を持つ土地だ。12人兄弟の四男として育った長山さんの家業は、両親が開業した渋川温泉「湯元館」。長山さんは10歳年上の兄と共に旅館の切り盛りを担い、料理長として腕を振るった。その腕前は旅館を訪れる客を魅了したことだろう。旅館は2003年頃に営業を終え、長山さんの創作がここから本格的に幕を開ける。

 甲冑制作の原点は意外にも古く、1970年代まで遡る。最初のきっかけは、小学校の運動会で、娘が騎馬戦に出るために酒瓶の空き段ボールで鎧をつくったことだった。この手づくりの鎧は評判を呼び、新聞に掲載されたり、他校の教師からつくり方を教えてほしいと依頼されたりするほどだったという。当初は段ボールやタバコの空き箱を素材としていたが、タバコの空き箱を用いた作品は、専売公社が名古屋の大丸で開催した展覧会で優秀賞を受賞するほどの完成度を誇った。だが、タバコを吸わない長山さんにとって空き箱を集めるのは大変で、新聞記事をきっかけに見ず知らずの人々から送られてくることもあったという。

 旅館を閉めてからは、長山さんの甲冑制作はより一層本格化していく。朝6時から深夜0時頃まで、8畳間の居間にこもって作業する日もあり、その没頭ぶりは、妻から体調を気遣われ「いい加減にしては」とたしなめられるほどだった。

長山剛士さんによる作品

 素材もまた、進化を遂げた。当初の段ボールは雨に弱いという欠点があったが、転機が訪れる。2009年に地元の歴史研究家から赤備え具足づくりの依頼を受け、さらに2010年、井伊家元祖の生誕を記念した催しで制作を依頼された際、雨対策に悩んでいた長山さんの夢に牛乳パックが現れたのだ。これを機に、主要な素材は牛乳パックへと変わっていった。牛乳パックは、強度を増すために赤い粘着テープを貼ることで、特徴的な朱色を再現。この独自の工夫により、色落ちせず強度も増すという利点も生まれた。さらに、曲線が求められる部分には、アルミ缶を切り抜いて内部に入れることで、精巧さを追求している。

 長山さんの代表作は、まさに戦国武将・井伊直政が率いた精鋭部隊「井伊の赤備え」を再現した甲冑だ。赤備えづくりは2010年から始まり、2014年時点ですでに100着ほどを制作。これまでに制作した甲冑は180着にも上り、そのうち赤備えは120着を占める。制作にあたっては、図鑑を参考にしたり、滋賀県の彦根城博物館にも足を運んで史料を調査したりと、徹底した忠実な再現にこだわっている。サイズも2歳児向けから体重100キロの人向けまで幅広く、子供が着用体験できる鎧なども制作。1着仕上げるのに約2ヶ月かかり、なかには400時間を費やした大作もある。とくに、井伊直政の甲冑は牛乳パック80箱と着なくなったセーターの毛糸をほどいてつくられており、パーツの数は約297にも及ぶという。刀や脇差しも、近所で採れたヒノキの枝を削って仕上げるなど、細部にまで長山さんのこだわりが光る。

長山剛士さんによる作品
セーターの毛糸をほどいた部分も

 その甲冑は、たんなる工作の域を超え、地域の歴史と文化を伝える重要な役割を担っている。作品は浜松城や井伊家菩提寺の龍潭寺に展示され、市内各地で行われる観光イベントで何度も着用されるなど、町のPRに一役買っている。地元劇団の衣装として使用されたり、各地のイベントで披露されたり、工作教室を開いたりと、その活躍は多岐にわたる。井伊家ゆかりの地である引佐町では、毎年6年生が鎧を着て井伊家の芝居をする伝統があり、長山さんの作品がその舞台を彩ることもある。大河ドラマ「どうする家康」で井伊直虎が注目されると、各地で展示される機会が増えた。

 長山さんは「歴史をつくることが好きだから続けられる」と語る。制作の醍醐味は、なるべくお金をかけないことだという。牛乳パックや刀になる木材は近所からもらい、朱色は塗料ではなく粘着テープを使うことで、色落ちせず強度も増すという独自の工夫を凝らしている。驚くべきことに、図面や下書きは一切書かず、勘と計算だけで制作を進めるというのだ。胴回りに合わせて制作するなど、着る人に合わせたカスタマイズも可能。まさに、経験と直感のなせる業だ。

長山剛士さん

 長山さんは甲冑制作を通じて多くの人と出会えたことに喜びを感じている。旅館の調理場ではお客さんとの接点は少なかったが、甲冑制作を通して人との繋がりができたという。いまでも年賀状が届くなど、作品が縁で生まれた交流は続いている。

 「もう年だ」と語る長山さんの今後の夢は、意外にも家庭菜園だった。その言葉には、手を動かすことへの尽きぬ情熱と、日々の暮らしへの感謝が深く込められているように感じる。廃材に命を吹き込み、地域の歴史を未来へ繋いだ長山さんの甲冑は、薄暗い部屋の中で今後の出陣の機会を伺っているようだ。

長山剛士さん