美術史、私、テクノロジーが
指さす景色。今津景インタビュー
インターネット上に点在する古今東西のイメージや身近なモチーフをコンピュータ上で構成し、その仮想世界をキャンバスに描き起こしてきた今津景。選ばれるモチーフのなかには、ドラクロワ、マネ、歌川広重などによる名画も含まれ、その思考と制作の根底には、脈々と続く美術の歴史が息づいている。山本現代で個展「Measuring Invisible Distance」を行った今津に、幼少期や作家としての現在、これからの話を聞いた。
感性で描かれた絵画は、世の中に出尽くしている
——今津さんはこれまでにドラクロワやマネ、そして今回の展覧会「Measuring Invisible Distance」ではブランクーシなどをモチーフとした作品を出品するなど、芸術の歴史と自分の作品を関係づけることに意識的に取り組まれているように思われます。まずは、今津さんが絵画の歴史を意識する理由について教えてください。
私は感性や感覚で自由にキャンバスに絵を描くということができないんです。なぜならマティスのあの素晴らしいカラッとした線や塗り、カラヴァッジオのドラマティックなスペクタクルを見てしまうと、これはもう絶対にかなわない、十分に完成された人がすでに巨匠としてごろごろ存在している。そんな絶望が最初にあって、私に何ができるだろうと考え出したのが始まりです。
——制作において、今津さんはAdobe Photoshopのデータをもとに絵画を描く手法をとっています。「いま絵画でできること」の追求のひとつに、そのようにコンピュータを使用するといった試みがあるのでしょうか?
はい、そうだと思います。
幼少期から大学時代まで
——今日は、そうした現在地に至るまでの、今津さんのこれまでのお話についてお伺いしていきます。まず、山口県出身とのことですが、どのような幼少期を過ごしていたのでしょうか。
生まれは山口ですが、父が転勤族だった関係で静岡、茅ヶ崎など、全国各地を転々としていました。私は、生まれてすぐに先天性心室中隔欠損症という心疾患を患っていることがわかり、両親は「この子は20歳まで生きることができないかもしれない」と医者に言われたそうなんです。いまはこんなに元気なので問題がないのですが、病気のこともあってとにかく自由に育てられました。
——どのようなきっかけで絵を描くようになったんですか?
絵は、落書き程度のものであれば小さな頃からたくさん描いていました。覚えているのは、『バンビ』の脚と、『うしろの百太郎』の百太郎の顔。なぜかそのふたつはとくに気に入っていて、連日必死に描いていました。
——美術大学を志したのはいつ頃でしたか?
高校時代ですね。祖母がすごく厳しくて、「家族みんな国立大学卒だから、とにかく国立大学に行きなさい」と言っていたんです。そんななかで、東京藝術大学は国立大学だけどセンター試験はたった2教科だし、実技がすべてだと知って、「これはどうもすごく入試が楽そうだ」と。絵は好きだけど、アーティストになりたいとは思っていなくて、結局2浪してしまいました。簡単そうだと思っていたけど、全然楽ではなかったです(笑)。
——浪人中は美術予備校に通っていたんですか?
はい。鎌倉美術研究所という予備校に体験入学をしたら、講師の人から「君は絶対、油彩画が向いている」と言われて、予備校に通いながら油絵の学科を目指しました。
——2年の浪人生活のなかで、色々と考えることも多かったのではないのでしょうか。
まず、2年間も浪人したことが、正直すごく嫌でした。「こんなにがんばったんだから元を取りたい」とも思いました。その反面、自分は結構飽き性なのに絵は全然飽きないということにも気づきました。
あとは浪人中に、モダニズムの歴史や日本の美術の歴史を知って、ひとえに絵と言っても多様な描き方があると初めて知ったんですね。何を選ぶか、どこに向かって発表するか、美術がどのように成り立ってきたかをもっと深いレベルで知ることができた。それは面白かったです。
——そして、2001年に多摩美術大学美術の画学科油画専攻に入学します。大学時代の思い出はありますか?
予備校が毛利悠子さんと一緒で、大学も同じ多摩美だったので、入学直後、ふたりで沖縄に免許を取りに行ったりしていました。それと学部3年生まではほぼ絵を描かず、陶芸や楽器をつくったりパフォーマンスをしてみたり、一通りのことはやりましたね。あとは、ジャンベばかり叩いてました。
——3年間ほぼジャンベを?
はい(笑)。知人にアフリカ人ジャンベ奏者がいて。「卒業したらジャンベのユニットを一緒に組まないか」と誘われたのですが、ふと我に返って、「絵をちゃんと描こう」と。それが3年生の終盤です。
テクノロジーを作品に取り入れる理由
——当時はどんな絵を描いていたのでしょうか?
光の輪郭だけを取り上げた、2層のレイヤーからなる風景画でした。当時ははとにかくリヒターが好きだったので、大学1年生の頃に買った、側面がスケルトンになっているカラフルなiMacとPhotoshopでフォトペインティングのような作品をつくっていました。でも、そのつくり方ではあまりにも絵が簡単にできてしまうので、つまらなく思えてきたんですね。それからPhotoshopを使って試行錯誤を始めました。
——大学時代からPhotoshopで下絵をつくり、それをもとに絵を描くという手法を取り入れていたんですね。
はい。テクノロジーを自分の作品に取り入れることにはそれまでずっと興味がありました。コンピューターやスマートフォンの登場で、現代に生きる私と歴史上の巨匠たちでは、物事に対する反応のしかた、空間認識が全然違うように思ったので、それを絵画空間に落とし込めたらと考えていたんです。
もうひとつ覚えているのは、その頃、自分のまわりではいわゆる「かわいい絵」が流行っていたことです。でも、そのかわいくてみずみずしいセンスは若さゆえのもので、10年経ったら作家の中から消失してしまうんじゃないかと思っていた。私は「自分の感性」にすごく大きな疑いを持っているから、その部分は外部に任せようと決めました。
——その「外部」がPhotoshopなんですね。Photoshopを使って具体的にどのような加工を行っているのでしょうか?
画像をPhotoshop上で構成し、「指先ツール」で加工を施すことが多いです。「指先ツール」には何百種類という筆があって、すごく大きなデータを加工する場合には、パソコンの演算のスピードが追いつかず、ウゥーーンと鈍くずれながらエフェクトが生まれる。結果が予測できないうえに、何回もやり直しができるところが気に入っています。
——そこで使う「画像」はどのようなものですか?
作品のテーマに合う画像をインターネットから収集します。当時はTumblrをはじめとした様々なSNSで無数に写真素材を見ることができるようになった頃で、「無限に絵が描ける」と嬉しかったですし、描くモチーフに迷うことがなくなりました。