2025.7.20

岩井俊二が語る、いま高畑勲から学ぶべきこととは何か

東京・麻布台にある麻布台ヒルズギャラリーで、「高畑勲展─日本のアニメーションを作った男。」が9月15日まで開催されている。同展のスペシャル・サポーターを務める映画監督・岩井俊二に、高畑勲の作品について話を聞いた。

聞き手・文=安原真広 ポートレート撮影=手塚なつめ

岩井俊二
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高畑監督との出会い

──岩井監督と高畑監督は遠戚とのことですが、高畑さんと実際に会って話したときの思い出深いエピソードを教えて下さい。

 学生時代から自主映画をつくっていましたが、実際にプロになろうと決断したとき、自分の身近にいた映像制作者のひとりである高畑監督に、アドバイスを請いに行きました。ちょうど『柳川堀割物語』(1987)を制作されていたときでしょうか。高畑監督は開口一番、「自分のやりたいことを自分のやりたいように、プロの世界でもやりたいということだね」と聞かれて、私は難しい質問だなと思いながらも、自分の思いと大きく食い違っていたわけではないので「はい」と答えたんです。そしたらもう「そんなこと簡単にできるわけないだろう」みたいな感じで言われて、そのあとは2時間くらい怒っていたという印象で。別に、私が怒られていたというわけではないんですが、様々な映画作品の名前を挙げながら批評を述べていて、自分が怒られているよう気持ちになったのをよく憶えています。

 非常に気まずい時間だったと記憶しているのですが、同時に、本当に映画業界の一線でものをつくっている人と直接対話する初めての経験ではあったわけで、そのインパクトは計り知れないものでした。好きなものをつくることの難しさ、ということが強く印象づけられたできごとでした。水を浴びせられたような気持ちにもなりましたが、自分なりに映像で生きていく覚悟を決めるきっかけとなったようにも思います。

岩井俊二

──実際、ご自身が映画をつくる立場になってみて、高畑監督の作品から学んだのはどのようなことでしょうか。

 ものづくりに対する姿勢みたいなものですかね。高畑監督の作品からは「小手先でいいかげんなものをつくるな」というメッセージを感じますよね。例えば、『柳川堀割物語』は、長い時間をかけて江戸時代から水と付き合いつつ柳川の掘割をつくった人、そして高度経済成長期に埋め立てられようとした掘割を守った人たちの、凄まじい執念や情熱が描かれているドキュメンタリーです。高畑さんはそういった人々の姿にアニメーション制作をする自分たちの姿を重ねたのではないでしょうか。名もなき人々の地道な営みと努力を、1コマずつ絵を描いて動かしていくアニメーション制作の営みと重ね合わせ、そういった人々を手本することをどの作品でも押しつけるわけでもなく、しかし確実に表現してきたのだと思います。

 映画を制作するときは、物語をつくるのが時間がかかるし一番しんどいんです。原作を借りて、映画用に脚色すればそれも楽になるんでしょうが、あえて自分で物語をつくるということに向き合っていかなければいけない。そんな戒めのようなものは、高畑監督から学んだような気がしています。

「高畑勲展─日本のアニメーションを作った男。」展示風景より 撮影=編集部

──高畑勲監督の作品のなかでも、もっとも思い出深いものがあれば教えていただけますか?

 『おもひでぽろぽろ』(1991)ですね。まず、回想シーンで主人公の幼少期が頻繁に出てきますが、その舞台となっている昭和40年代の風景は私にとっては非常に懐かしいものです。いっぽうで作中における現代パートは上映当時の90年代なわけですが、すでに30年も前なのにあまり懐かしく感じない。人によってとらえ方が異なるであろう「時代」そのものを、背景美術や人物たちの仕草、小物なども含めて、強いリアリティを与えながら描いているので「時代とはなんだろう」ということを深く考えさせてくれます。

『おもひでぽろぽろ』セル画+背景画 © 1991 Hotaru Okamoto, Yuko Tone/Isao Takahata/Studio Ghibli, NH