2025.1.27

ポーランド映画の巨星、アンジェイ・ワイダ。国立映画アーカイブ主任研究員が語るその軌跡と日本とのつながり

「ポーランド派」の筆頭的な存在として、世界にポーランド映画を知らしめた巨匠、アンジェイ・ワイダ(1926〜2016)の大回顧展が国立映画アーカイブで3月23日まで開催されている。展覧会を担当する国立映画アーカイブの岡田秀則主任研究員にその魅力と日本とのつながりについて話を聞いた。

聞き手・撮影=中島良平

『蝿取り紙』撮影中のアンジェイ・ワイダ(1969年) 日本美術技術博物館Manggha所蔵
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回顧展の開催経緯

──アンジェイ・ワイダ監督といえば、コロナ禍で残念ながら閉館してしまった東京・神保町の岩波ホールで作品が上映され、ヨーロッパ映画ファンにはよく知られた存在です。今回の回顧展「映画監督 アンジェイ・ワイダ」の開催の経緯をお聞かせください。

 アンジェイ・ワイダ監督が亡くなったのは2016年で、没後に色々な顕彰活動が進みました。そして、彼の功績を語り継ぐために、19年にポーランド・クラクフの国立美術館で大回顧展が開催されました。その主催者の意向として、ワイダ監督作品は日本でずっと上映されてきましたし、監督本人がとても日本文化に傾倒していたので、巡回展はまず日本で行いたいと考えていたそうです。

展示風景より

──展覧会の主催が、国立映画アーカイブ、日本美術技術博物館Manggha(マンガ)、アダム・ミツキェヴィチ・インスティテュート、協力がクラクフ国立美術館、ポーランド広報文化センターとなっています。 

 まずアダム・ミツキェヴィチ・インスティテュートというのは、日本でいう国際交流基金のような、海外との文化交流を行う団体です。そちらから当アーカイブにお声がけいただいたのが始まりです。回顧展が開催されたのがクラクフ国立美術館で、日本美術技術博物館Mangghaというのは、日本の美術と技術にフォーカスしたポーランドの国立美術館なのですが、この創設に尽力されたのがアンジェイ・ワイダで、アンジェイ・ワイダ・アーカイブもここに収蔵されています。

──「Manggha」というのは、日本語の「漫画」ですか? 

 そうですが、 現代の漫画ではなくて葛飾北斎の「北斎漫画」から来ています。この美術館は、ワイダ監督が日本で京都賞を受賞し、その賞金をベースに、さらに日本側で資金を集めて創設した念願の施設です。背景をたどると、1944年にまだ18歳だったワイダ監督は、ドイツ占領下のクラクフで日本美術展を見たそうです。浮世絵などは大収集家フェリクス・ヤシェンスキのコレクションで、そこに「北斎漫画」が含まれており、そのヤシェンスキは自らを「マンガ」と名乗っていたそうです。それで美術館の愛称として、「Manggha」と名付けられました。ヴィスワ川のほとりに立ち、磯崎新さんのプランに基づいてポーランドの建設家クシシュトフ・インガルデンが設計に携わった、建築も美しい美術館です。

アンジェイ・ワイダ監督の映画への軌跡

──それでは監督について伺います。1926年にポーランドで生まれたアンジェイ・ワイダ監督の名が世界的に知られるきっかけとなったのは、「抵抗三部作」と評される『世代』(1954)、『地下水道』(1957)、『灰とダイヤモンド』(1958)の3本です。どのように注目されたのか、ご説明いただけますでしょうか。

 この三部作は、ナチス・ドイツの占領下で起こったワルシャワ蜂起や、戦後の共産化した社会における反ソビエト運動化したレジスタンスを描いた作品です。つくられた時期を考えると、戦後せいぜい10年ほどしか経っていなかった。当然自分たちの仲間もドイツ軍に殺されているなど、親しい人をたくさん失ってしまった非常に生々しい記憶が残った状況です。そうした現実のことを題材に、ドラマとして映画化する強い創造力を発揮したことが大きかったのではないかと思います。

岡田秀則

──例えば『灰とダイヤモンド』では、バーで複数のグラスに入ったウォッカに炎を灯し、殺された仲間の名前を呼びながらひとつずつの炎を消していく美しい場面があるように、社会的なメッセージやドラマ性と同じく、視覚表現としての美しさも際立つ場面が多く描かれています。

 ワイダは若い頃、美術学校に通っていました。戦後すぐまではクラクフで美術の勉強をしていて、それからウッチの映画学校に入りました。大量のスケッチや絵コンテを残しており、今回の回顧展でも展示していますが、非常にセンスがあって質が高い。展示には「日本」という章があって、来日したときに手がけた写生なども展示していますが、画面の感覚は非常に鋭敏だと感じます。いまおっしゃった『灰とダイヤモンド』の失った仲間を呼び起こすシーンも、非常に奥行きのある構図が特徴的な美しいシーンですよね。

 クラクフ展のキュラトリアル・チームのリーダーであるラファウ・シスカさんの講演で知ったのですが、原作の小説『灰とダイヤモンド』は、ポーランドの小説家イェジ・アンジェイェフスキによって1948年に発表され、映画化まで10年かかっています。原作はかなり社会主義リアリズムに寄った作品で、一時はその路線のままで映画化する計画もあったそうですが、10年を経てワイダなりの新たなドラマを構築して、この名作が生まれたのです。

展示風景より、左は映画『灰とダイヤモンド』(1958)の一部

──終戦から間もない1948年とその10年後とでは、戦争の受け止め方も表現の仕方も変化したことが想像できます。 

 まさにポーランドでは、1950年代後半にかけて文化的に大きな盛り上がりがありました。若い世代によって、映画、デザイン、ジャズが文化を牽引しました。ポスターの優れたグラフィック・アーティストが多く登場したのですが、それも「ポーランド派」と呼ばれています。社会主義の統一労働者党──いわゆる共産党です──の体制から少し距離を置いて、文化的な動きを見せていたのがグラフィックデザインと映画でした。そして、戦後世代の人たちはジャズが大好きだった。1960年にワイダが発表した『夜の終りに』では、クシシュトフ・コメダなどジャズ・ミュージシャンの新しい音が炸裂していて、コメダ本人が出演もしています。

ポスターの展示

──戦争が終わり、ナチス・ドイツの支配下を脱したものの、ポーランドはソビエト傘下の東側陣営に組み込まれ、統一労働者党の一党独裁国家となります。自由な表現に対する規制は強かったと思うのですが、ワイダ監督は権力とどのように向き合ったのでしょうか。 

 ワイダは絶えず検閲と向かい合わねばなりませんでした。ポーランドに調査で伺った際には、1980年代の検閲官が残した文書を見せてもらう機会がありました。今回展示はしていませんが、ポーランド語で書かれた文書で、訳してもらうと色々と注文がつけられているわけです。すでに世界的に知られる巨匠となっていた時代ですが、それでも丁々発止のやりとりがあった。共産主義のイデオロギーが徐々に立ち行かなくなっていた1980年代だったとしても、そしてやはり大監督となったとしても、つねに緊張感をはらんでいたようです。

──1977年に発表された作品『大理石の男』も、ポーランドで大ヒットしながらも、当局によって2年間の海外上映禁止処分を受けたようですね。 

 そうですね。1950年代に労働者の英雄として大理石像にもなった男を描いた作品で、国家と個人の関係を鋭く問う作品なのですが、この作品でもやはり、社会的にメッセージをはらみながらも、ドラマに構築していく強い力を感じさせます。その英雄に興味をもった映画学校の女子学生の目を通して、実像を解き明かしていくという構成になっていて、その後日談として発表された『鉄の男』においても、やはりドラマとしての創造性を発揮している。たんに主人公となる人物を追いかけていくのではなく、それを映画に撮ろうとする女性を置くなど、複層的に物語を構築する構想力があるわけです。そしてさらに、その『鉄の男』に関しては、ポーランドの民主化運動へとつながるグダニスク造船所のストライキを描いていて、「連帯」という民主化運動の関係者も出演させるなどその運動に寄り添うようにして制作を行いました。

再構成した展示と日本との深いつながり

──今回の大回顧展は、クラクフ国立美術館の大規模な展示に日本版としての編集を加えられたと思うのですが、展示プランはどのように進められたのでしょうか。

 まず、6章立ての展示構成ですが、そのベースはクラクフ展のものです。ナチスの支配に抵抗したポーランドの民衆を描いた「地獄」の章や、「連帯」運動と並走してつくった映画を紹介する「革命」、文芸作品における静けさやノスタルジーを表現した「(不)死」は、クラクフ展と同じテーマによる章立てです。それぞれの章のテーマに関連する作品の抜粋を上映したり、絵コンテや台本、衣装などの資料を展示する内容です。そこに私たちからリクエストして加えたのが、展示第1章の「子どもの神話」と、第3章の「新しい波」です。また、クラクフ展でも日本との関わりを示した展示品もありましたが、第6章「日本」としてワイダと日本の関係をひとつの章に独立させました。

──まず「子どもの神話」の内容から説明していただけますか。

 ポーランドは、18世紀の終わりから120年強の期間、自らの国をもつことができませんでした。ポーランド分割と呼ばれる状況下にあり、東はロシア、西はドイツ、南はオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていたわけです。その時代のポーランド人のアイデンティティ──いまでいうところのリトアニアにも及ぶ地域の貴族たちの物語ですが──を問うた『パン・タデウシュ物語』という古典文学作品をワイダは映画化していますが、ポーランドの歴史に明るくなければ、ワイダがなぜその作品を映画化したのかが見えづらいと考え、少年ワイダが憧憬した第一次世界大戦以前のポーランドにまつわる「子どもの神話」という章を設けました。

「子どもの神話」の展示風景より

──「新しい波」とは「ヌーヴェル・ヴァーグ」ですね。

 1950年代から60年代にかけて、世界的に非常に大きなヌーヴェル・ヴァーグの同時発生が起きていました。そのひとつが「ポーランド派」でした。日本の映画ファンも反応する内容だと考え、『夜の終りに』などの作品を含むプランをクラクフチームに提案しました。それを承諾していただいたうえで、ワイダはその先にもずっと映画表現の文体の実験を続けていたので、虚構と現実を融合させて映画製作現場の裏側を描いた『すべて売り物』(1968)なども加えたプランを提案していただきました。

──「日本」の章に関しては、頻繁に来日されたワイダ監督と、映画を上映した岩波ホールの支配人である高野悦子さん(1929〜2013)との関係が欠かせないと思われます。

 ワイダ監督の初来日は1970年の大阪万博ですが、その際に能を鑑賞するなど、日本の伝統芸能にも色々と触れられたようです。それから1970年代の途中から、例えば『大理石の男』あたりから日本での配給作品が増えていきましたが、その中心となったのが、高野悦子さんを中心とする岩波ホールの活動でした。今回の回顧展では、岩波ホールに関する展示品として、 ワイダ監督作品の公開当時のポスターやパンフレットもご覧いただけます。高野さんとワイダ監督は生涯の同志でありましたし、高野さんが心配されていた戒厳令下のポーランドがどう報じられていたのかなどがわかるように、当時の新聞記事のスクラップなども展示に加えています。

──『ナスターシャ』(1994)は、ドストエフスキーの『白痴』を原作に、坂東玉三郎主演で描かれています。

 ドストエフスキーの『白痴』に基づく舞台劇を映画化した作品ですが、来日したときに玉三郎さんの舞台をご覧になって感激されて、玉三郎さんを主演にした舞台作品を考案したのが始まりです。展示室には、承諾をお引き受けしますと認めた玉三郎さんの達筆なお手紙を展示しています。この作品では玉三郎さんが二役を演じ、スカーフを翻してその役が切り替わる演出をされているのですが、それは日本で歌舞伎を見たことから着想した演出です。

「日本」の展示風景より
坂東玉三郎からワイダ宛の手紙

ワイダ監督の影響

──展示内容はとても見応えがありますし、セノグラフィもとてもつくり込まれた展示だと感じました。

 クラクフ展と比較すると、どうしても当アーカイブ展示室のフロア面積は限られているので、縮小版の展示プランを構築する必要がありましたが、空間づくりには、クラクフ国立美術館の展示デザイナーに来ていただいて、こちらの建物に合わせた空間をデザインしていただきました。本格的な空間のつくり込みは、やはりクラクフ展のチームの協力なくしては実現しなかったと思います。

──展示に携わることで、改めてアンジェイ・ワイダ監督の全貌に触れられたと思うのですが、その全体像をどのようなものだととらえられましたか。

 前々から代表作などは見ていましたが、初見の作品も含めて拝見して改めて考えると、とても周到に、近代ポーランドの歴史から現在までを覆い尽くすようなパースペクティブをもっている映画監督だということがわかりました。個々のテーマは、時代ごとに移り変わります。19世紀のポーランド分割と呼ばれる時代から、1930年代のナチがやってくる前の戦間期のポーランドの風景。「抵抗三部作」に描かれるワルシャワ蜂起、それから『コルチャック先生』(1990)では、ワルシャワのゲットーで孤児たちを守る小児科医のナチへの抵抗が描かれました。『カティンの森』(2007)という第二次対戦中のソビエトにおけるポーランド人捕虜の虐殺事件を描いた作品や、『残像』(2016)という遺作で、スターリン主義下に置かれて自分の絵を描けなくなった画家を主人公にするなど、ソビエトからの抑圧も題材としました。そうした晩年の作品も、非常に力強い。そしてグダニスクの造船工場の「連帯」まで、本当にポーランドの近現代史を自分のドラマの糧にしていたことがわかります。 

『カティンの森』(2007)の関連資料展示

──社会性と芸術性に裏付けられた偉大な映画監督の活動が、包括的に日本で紹介されるのは貴重な機会だと感じました。

 ワイダ監督は日本の映画界に対して、とても敬意をもっていたそうです。その筆頭が、1951年に『羅生門』でヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した黒澤明監督。その後、溝口健二監督や成瀬巳喜男監督なども世界の映画祭で評価されました。当時、世界の映画文化の中心は西欧とアメリカでした。そういう状況に対して、西欧とアメリカ以外の国々が世界の映画界に名乗りをあげる先駆けのひとつが、日本映画でした。そういう意味でも、自国のアイデンティティを映画で主張する、世界映画のなかにポーランド映画もあるということを知らしめるために、日本映画は大きな刺激になったのだと思います。

 クラクフのキュラトリアル・チームから日本に対して強いコールをかけていただいたのは非常に嬉しかったですし、こうした偉大な映画監督の表現は、つねに顕彰されていかないといけないと考えています。来年はワイダ監督の生誕100周年なので、ポーランドでは色々と事業が展開される予定です。新しい世代に伝える意味でも、今回の展示を実現できたことを有意義だったと感じています。

岡田秀則