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2025.3.7

「モネ 睡蓮のとき」(京都市京セラ美術館)開幕レポート。視力を失いつつあった晩年の制作に迫る

国立西洋美術館で開催され大きな話題を集めた「モネ 睡蓮のとき」が、京都市京セラ美術館に巡回し、幕を開けた。全67点で“光の画家“と称されるモネの表現の集大成に迫る展示だ。会期は6月8日まで。

文・撮影=中島良平

第1章の展示風景より、左から《睡蓮、夕暮れの効果》(1897、マルモッタン・モネ美術館蔵)、《睡蓮》(1897-98頃、鹿児島県立美術館蔵)。展示は「睡蓮」で幕を開ける
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 印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840〜1926)は晩年、視力を失いながらも色と光の表現を探求した。3月7日に京都市京セラ美術館で開幕した「モネ 睡蓮のとき」展は、具象と非具象との境界も曖昧になり、印象派の極限ともいえる表現の極地に到達した“光の画家”の、1910年代以降の作品を中心に構成されている。

 パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開も含むおよそ50点の作品が来日。国内の美術館収蔵作品とあわせて展示される貴重な機会となっている。展覧会担当は、京都市京セラ美術館の中山摩衣子学芸員。「睡蓮の池を描いた巨大な絵画で楕円形の部屋の壁面を覆う『大装飾画』という、モネの構想を体感できる部屋も設置し、見どころ満載の展示になっている」と中山は話す。

中山摩衣子学芸員

 展示は全4章とエピローグで構成される。第1章「セーヌ河から睡蓮の池へ」は、移り住んだジヴェルニーの土地と家を買い取り、終の棲家とした1890年以降に生まれた表現にフォーカスする。彼の画業を通じて主要なモチーフであり続けたセーヌ河に加え、繰り返し訪れたロンドンの風景など、のちの「睡蓮」の表現を予見させる水面の反映による鏡像に主眼が置かれた作品の数々が集結した。

第1章の展示風景より、左から《ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果》(1894)、《ポール=ヴィレのセーヌ河、夕暮れの効果》(1894、いずれもマルモッタン・モネ美術館蔵)
第1章の展示風景より
第1章の展示風景より、同一のモチーフを異なる時間や天候のもとで繰り返し描く、連作の手法を確立したのもこの時期
第1章の展示風景より、《チャーリング・クロス橋、ロンドン》(1902頃、国立西洋美術館蔵〈松方コレクション〉)

 続く第2章は、「水と花々の装飾」。室内装飾のための絵画を含む、装飾芸術が隆盛を迎えた19世紀末のフランス。モネも例外ではなく、1870年代の印象派時代より本格的に装飾画を手がけてきた。1909年の「水の風景連作」展以降、のちに白内障と診断される視覚障害の兆候や最愛の妻の死などといった不幸が続き、モネの画業には一時の空白期間が生まれたが、1914年に創作意欲を取り戻すと、装飾画の制作に精力的に取り組むようになる。アイリスや藤、キスゲ、アガバンサスなどの花々を描いた作品が並ぶこの章は、モネの大の園芸愛好家でもあった側面が際立つ展示となっている。

第2章の展示風景より、《黄色いアイリス》(1924-25頃、マルモッタン・モネ美術館蔵)
第2章の展示風景より、左から《アガバンサス》(1914-17頃)、《睡蓮》(1914-17頃、いずれもマルモッタン・モネ美術館蔵)
第2章の展示風景より

 第3章「大装飾画への道」の展示室が、冒頭で中山学芸員が触れた「楕円形の部屋」だ。睡蓮の池を描いた巨大なパネルで楕円形の部屋の壁面を覆うという、モネが長年にわたり追い求めた装飾画の計画はのちに実現し、画家の死後、パリのオランジュリー美術館に設置されることになったのだが、その過程でおびただしい数の作品が手がけられた。画面のサイズは、1909年までに手がけられた作品の画面より、面積にして4倍を超えるまでに至る。作品の巨大化に応じて広大なアトリエを建設し、戸外で描かれた習作をもとに、ときとして幅4メートルにも達する装飾パネルの制作に取り組んだ。

第3章の展示風景より

 マルモッタン・モネ美術館でコレクション部長を務めるシルヴィ・カリエは、「巨大なパノラマ画面による大装飾画を探究するプロセスで手がけられた習作の数々から、具象と非具象芸術のあいだにおけるモネの逡巡を際立たせるセレクション」と同章の展示作品について話す。自然の風景の印象とその記憶から、画面を再構成する印象派の制作から展開し、その印象をもとに新たな環境を装飾画で生み出す、いわば「印象派の極地」とも呼べるような表現の探究だといえるだろう。睡蓮の池を描いた作品の数々だが、柳や地面が画面に描かれたもの、水面の映り込みで柳が見えるものなど、画面構成の要素を見比べてモネの画面づくりへの想像が膨らむ展示だ。

マルモッタン・モネ美術館でコレクション部長を務めるシルヴィ・カリエ
第3章の展示風景より、《睡蓮》(1916-19頃、マルモッタン・モネ美術館蔵)
第3章の展示風景より、左から《睡蓮、柳の反映》(1916-19、北九州市立美術館蔵)、《睡蓮、柳の反映》(1916-19頃、マルモッタン・モネ美術館蔵)

 1921年に実業家でコレクターの松方幸次郎らを伴い、ジヴェルニーのアトリエを訪れた洋画家の和田英作が「睡蓮」の近作をして「色彩の交響曲」と評したところ、「その通り」だとモネが答えたという逸話が知られているように、モネの色彩表現は音楽に喩えられてきた。第4章は、「交響する色彩」。1908年頃から顕在化し始めた白内障の症状は、晩年の画家の色覚を少なからず変容させることになった。しかし、モネは1923年まで手術を拒み、絵具の色の表示やパレット上の場所に頼って制作を行うことがあったと言われている通り、色彩は自身の生命線だととらえていたのだろう。

第4章の展示風景より、左から《日本の橋》(1918)、《日本の橋》(1918、いずれもマルモッタン・モネ美術館蔵)

 死の間際まで続いた前章の大装飾画の制作と並行し、庭の池にかかる日本風の太鼓橋や枝垂れ柳、バラのアーチのある小道など複数の小型の連作を1918年から最晩年にかけて手がけたモネ。不確かな視覚に苦痛を訴えながら、衰えることのなかった制作衝動がこれらの作品を生み出したに違いない。画家のバイタリティが凄みとなって画面に立ち昇ってくるような作品が並ぶ。

第4章の展示風景より、《睡蓮の池》(1918-19)
第4章の展示風景より
第4章の展示風景より、《ばらの小道》(1920-22頃、マルモッタン・モネ美術館蔵)
第4章の展示風景より、左から《ばらの庭から見た家》(1922-24頃)、《ばらの庭から見た家》(1922-24頃、いずれもマルモッタン・モネ美術館蔵)

 エピローグに「さかさまの世界」と題して2点が展示されている。モネが大装飾画を構想する当初から意図していたのは、始まりも終わりもない無限の水の広がりに鑑賞者が包まれ、安らかに瞑想することができる空間だったという。森羅万象が一体となり、実際の木々や雲や花も、池に映る世界もが同一となるような世界を画家は夢見ていたのかもしれない。池に映る世界=さかさまの世界を描いたモネの、願望のようなものを感じさせる作品で展示が幕を閉じる。

第4章展示風景より、左から《枝垂れ柳と睡蓮の池》(1916-19頃)、《睡蓮》(1916-19頃、いずれもマルモッタン・モネ美術館蔵)