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2025.3.29

「パウル・クレー展──創造をめぐる星座」(兵庫県立美術館)開幕レポート

兵庫県立美術館で、「パウル・クレー展──創造をめぐる星座」がスタートした。会期は5月25日まで。

文・撮影=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、パウル・クレー《北方のフローラのハーモニー》(1927)
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 神戸市にある兵庫県立美術館で、「パウル・クレー展──創造をめぐる星座」がスタートした。企画・監修は愛知県立美術館の黒田和士(愛知県美術館 学芸員)で、全国3館を巡回中の展覧会となっている。

 パウル・クレー(1879~1940)はスイス・ベルン生まれ。生前よりその独創的な画風から高い評価を受けており、現在では20世紀前半に活躍した重要なアーティストのひとりとして知られている。そのため、日本においてもその制作活動を俯瞰する展覧会は数多く開催されてきた。

 スイスのパウル・クレー・センターの学術協力のもと開催される本展は、クレーの生涯を時系列で追ういままでのオーソドックスな構成に加えて、同時代のアーティストらの作品もあわせて紹介。クレーと交流のあったアーティストによる作品との比較や、当時の貴重な資料の参照を通じて、多くの人や情報が構成する星座(=コンステレーション)のなかでクレーをとらえ直し、その活動の軌跡をたどるものとなっている。

展示風景より

 会場は、「詩と絵画」「色彩の発見」「破壊と希望」「シュルレアリスム」「バウハウス」「新たな始まり」といった全6章で構成。まず1章の「詩と絵画」では、19歳で画家になるためドイツのミュンヘンに移住し、その後アカデミーを中退してからは独学で絵を学ぶようになった、若き日のクレーの活動を紹介している。

 デビュー作でもある10組の銅版画「インヴェンション」シリーズや、マネやホイッスラーからの影響が見て取れる作品群からは、暗闇のなかから生み出される「光の表現」を試行錯誤していたことがうかがえる。その後クレーは、ミュンヘンにて芸術グループ「青騎士」と交流を深めるなかで、ヴァシリー・カンディンスキーと出会うこととなる。

展示風景より、パウル・クレー《老たる不死鳥「インヴェンション」より》(1905)
展示風景より
展示風景より、ヴァシリー・カンディンスキー/フランツ・マルク(編集)年間誌『青騎士』(1912)

 2章「色彩の発見」では、カンディンスキーとの出会いや、パリで興ったキュビスムの影響が見られる作品群が、ピカソをはじめとする当時の周縁のアーティストらの作品とともに紹介されている。

 また、1914年にクレーは青騎士展に参加していたアウグスト・マッケや旧友のモワイエとともに当時フランス領であったチュニジアに滞在。そこで、3人で刺激を与えあいながらも、色彩表現の試行錯誤やキュビスムの応用、そしてチュニジアで目にした鮮やかな色彩を受けてさらなる制作活動に励んでいった。

展示風景より、パウル・クレー《北方の森の神》(1922)
展示風景より、パウル・クレー《チュニスの赤い家と黄色い家》(1914)

 しかし、同年に第一次世界大戦が勃発すると、クレーの色彩への関心が途切れ、戦場のイメージが想起される作品が描かれるようになる。クレーは当初、直接的な戦争の影響を受けていなかったものの、ともにチュニジアを旅したマッケは従軍ののち戦死、カンディンスキーも母国のロシアに帰省せざるを得なくなるなど、青騎士のメンバーは戦争をきっかけに離れ離れとなってしまう。このような悲劇がありつつも、それを直接的に描くことができないといった複雑な葛藤のなかで生まれた表現も、3章「破壊と希望」の作品のなかには見受けられる。

展示風景より、パウル・クレー《沈む世界を霧が覆う》(1915)
展示風景より、パウル・クレー《破壊された村》(1920)

 戦争によってドイツにアーティストらが不在となると、制作活動を続けられていたクレーの評価が次第に高まるようになる。とくにパリのシュルレアリスム運動の中心人物であった詩人のアンドレ・ブルトンは、1924年の「シュルレアリスム宣言」のなかで、クレーをこの運動の「先駆者」として言及した。

 クレー自身はこの運動に直接的に関わることはなかったものの、この時期はシュルレアリスムとの共鳴がうかがえる、無意識から立ち現れてくるような表現が増えるようになっていった。4章「シュルレアリスム」ではそういった作品や、クレー同様に取り上げられていたデ・キリコの作品なども展示されている。

展示風景より、パウル・クレー《小道具の静物》(1924)
展示風景より

 1919年、ドイツのヴァイマールに誕生した総合芸術校「バウハウス」。初代校長のヴァルター・グロピウスからの手紙をきっかけに、クレーは「マイスター」としてバウハウスで教鞭を執ることとなる。5章「バウハウス」では、クレーと同じくマイスターとしてバウハウスに集った教育者ヨハネス・イッテンや画家リオネル・ファイニンガー、そしてイッテンの後任であり、ロシア構成主義を学んだラースロー・モホイ=ナジらの作品群が並ぶとともに、構成主義の影響が垣間見えるクレーの作品も紹介されている。

 ほかにもクレーの代表的な「方形画」シリーズもこの頃の作品だ。すべての色彩は闇と光の対立関係にあるとし、黒い画面から光そして色彩が現れてくるという考え方は、クレーがデビュー当時から持ち続けていたものでもある。

展示風景より、パウル・クレー《女の館》(1921)
展示風景より、手前はラースロー・モホイ=ナジ《無題「ケストナー版画集6 コンストラクション」より》
展示風景より、パウル・クレー《赤、黄、青、白、黒の長方形によるハーモニー》(1923)

 1933年にヒトラーが政権を握ると、「非ドイツ的」であるという理由から、バウハウスをはじめとする芸術活動が弾圧されるようになる。とくに37年にこれらの制作活動や作品を批判的に展示する「退廃芸術展」では、クレーの作品も15点展示され、全国の美術館から130点余りの作品が没収されることとなった。6章「新たな始まり」に展示される作品からは、そのような社会的な状況、そして自己免疫疾患に罹り作品制作が困難な状況に陥りながらも、自身の苦しみを伝えるのみならず、イメージの境界や一つひとつの造形の意味合いを探究するような姿勢も見受けられる。

展示風景より、手前はパウル・クレー《古代風の二重肖像》(1933)

 展覧会の最後には、クレーが亡くなった後にアトリエに残されていた静物画が展示されている。画面上には死を連想させるイメージが配置されているも、その色彩の鮮やかさや画面サイズからは、死を迎える直前までクレーが創造の探究を絶やさなかったことがうかがえる。

 どの芸術運動にも属さず、独自の表現を突き詰めたパウル・クレー。その創作活動の周縁には、20世紀を大きく動かしてきたアーティストらとの関わりや社会情勢があったことが本展を通じて改めて理解することができるだろう。

展示風景より、パウル・クレー《無題(最後の静物画)》(1940)