2025.7.23

「戦後80年-戦争とハンセン病」(国立ハンセン病資料館)開幕レポート。果たして本当に戦後か、ハンセン病患者・回復者の戦争の記憶をたどる

国立ハンセン病資料館で、ギャラリー展「戦後80年-戦争とハンセン病」がスタートした。会期は8月31日まで。

文・撮影=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、「義足」
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 東京・東村山にある国立ハンセン病資料館で、ギャラリー展「戦後80年-戦争とハンセン病」がスタートした。会期は8月31日まで。担当学芸員は吉國元(国立ハンセン病資料館 事業部事業課)。

 国立ハンセン病資料館とは、患者・回復者とその家族の名誉回復を図るために、ハンセン病に関する正しい知識の普及や理解の促進による、偏見や差別、排除の解消を目指す施設だ。

 同館において初めて「戦争」というテーマを取り上げる本展は、九段下にあるしょうけい館(戦傷病者史料館)との共催企画として開催されている。「戦時下のハンセン病療養所」「日本植民地下の療養所」「沖縄戦」などに関連する資料を展示することで、戦争がハンセン病患者の隔離を強化し、戦争が隔離下の被害をより深刻にしたという事実を浮き彫りにすることを試みるものとなっている。

 国立ハンセン病資料館の学芸員で美術家の吉國は、本展の開催にあたって次のように述べた。「リサーチしていくなかで、戦争がハンセン病患者・回復者の隔離を強化し、被害を深刻化したことがわかった。日清・日露戦争に勝利した日本は、国辱と考えてハンセン病患者の隔離を行ったが、その影響が終戦後から現在に至るまで及んでいる。国が行ってきた過ちを見つめ直し後世へ伝えることで、差別のない世界をつくっていきたい」。

展示風景より

 1フロアのギャラリーには、国立ハンセン病資料館やしょうけい館、沖縄愛楽園から寄せられた所蔵品や写真資料が並んでおり、様々な角度から当時の状況を伝えてくれている。

 会場は全3章立ての構成。1章「戦時下のハンセン病療養所」では、戦争という危機的な状況の最中に、療養所の入所者たちが自身も患者であるのにもかかわらず、患者同士でケアをしなくてはならなかったこと、さらには戦争協力を強いられていたことが伺える資料が展示されている。多磨全生園では、運営予算の不足により患者自らが労働せざるを得ない状況となり、医療や物資、食糧の欠乏などの理由から、終戦間際には入所者の136名(全入所者の9.7%)が命を落とすといった事態に見舞われた。

展示風景より、手前は「柄入りの反物を裂いた包帯」。物資の不足により、入所者らは自らの着物を裂いて包帯として利用した。使用したものは何度も洗って再利用せざるを得ない状況だった
展示風景より。第一区府県立全生病院(現・多磨全生園)の園内誌『山櫻』の表紙絵には、思想統制による戦意向上の文言も見受けられ、患者の身近な場所にまで戦争の影響が及んでいたことがわかる

 2章では「沖縄戦」という観点から、ハンセン病患者への被害や、戦後もなお続いた沖縄愛楽園と宮古南静園の入所者による運動に焦点を当てている。 

 展示されている写真資料は、沖縄で激しい地上戦があったことのみならず、多くの患者が入所する療養施設にまで爆撃があったという異常さを物語っている。多くの死亡者が出たのは、ハンセン病患者を危険視した日本軍による武力を用いた「軍収容」によるものであり、入所者らは「強制隔離」と「沖縄戦」といった二重の被害を受けていたことがわかる。

展示風景より。戦争というと男性にまつわる記録が大多数を占めるが、ここでは当時愛楽園へ入所していた女性患者の体験記録も紹介されている点に注目してほしい。

 さらにここでは、沖縄戦での戦役者の名前を刻んだモニュメント「平和の礎(いしじ)」に、近年までハンセン病患者の刻銘がされていなかったことにも言及している。この刻銘は親族による申請制であったが、ハンセン病に対する偏見・差別を理由として家族からの申請が困難となっていたという。沖縄愛楽園と宮古南静園の両自治会による働きかけもあって、地縁団体である自治会による申請が可能となったのはつい2003年のことだという。現在では沖縄戦の犠牲となった入所者410名すべての刻銘が確認されている。

展示風景より、「薬莢でつくった灰皿」

 ハンセン病患者は国の隔離政策によって兵役義務から外されていたが、そのいっぽうで従軍中の兵士がハンセン病を発症したケースもあった。3章では、「軍人癩(ぐんじんらい)」と呼ばれた患者たちの戦争体験や、そのなかでも軍人癩となってしまったひとりの兵士、立花誠一郎さんのエピソードについて紹介されている。

展示風景より

 兵士たちの発病誘因でもっとも多かったのは戦時下の過労であったという。そして、従軍にあたってハンセン病を発症したこういった「軍人癩」の増加が、戦後に日本が隔離を強めた根拠とされたと吉國は語っている。

 さらに会場では、立花誠一郎さんの従軍中に受けた隔離や差別、そして戦後に入所した傷痍軍人駿河療養所(現・国立駿河療養所)や邑久光明園での過酷な暮らしについても触れられている。展示される立花さんの私物や資料でのエピソードからはパーソナルな部分も垣間見ることができ、ひとりの人間が受けるにはあまりにもひどく恐ろしいものであったことを見る者に伝えてくれる。

展示風景より、立花誠一郎さんの旧蔵品
展示風景より、「立花誠一郎さんのスケッチブック」(1940年代)。ニューギニア戦線でオーストラリア軍の捕虜となった立花さんはカウラ収容所に移送され、ここでハンセン病と診断された。このスケッチは同地で描かれたもののようだが、どこか日本らしい雰囲気も漂う。この風景を描いた立花さんは当時何を想っていたのか、この展示品はそのような想像を掻き立てる効果を我々にもたらしてくれる

 戦後80年を迎えた2025年。我々はすでに過去の出来事として戦争を語っているだろう。しかし、戦争がハンセン病患者・回復者に及ぼした影響やその傷跡は、21世紀になっても消えることはなかった。当時の惨状、そしていまもなお、患者・回復者の人権の尊重を求めた活動が行われ続けていることを、本展を通じて目の当たりにしてほしい。