今日に続く、起点としてのイメージ。若山満大評「映えるNIPPON 江戸~昭和 名所を描く」展
2021年6月から7月にかけ、府中市美術館にて開催された本展では、日本の観光地や景勝地がどのように描かれ広まっていったのかを、絵画をはじめ写真や版画、ポスターなどから探った。歌川広重「名所江戸百景」から、川瀬巴水の新版画、吉田初三郎の鳥瞰図など、時代に沿って変遷をみていく。これらの作品たちは、名所に、人々に、そして作家にどのような影響を与え関係を築いてきたのか。東京ステーションギャラリー学芸員の若山満大が論じる。
物見が先か、見ものが先か
展覧会「映えるNIPPON 江戸~昭和 名所を描く」が府中市美術館で開催された。本展は4章構成で、幕末から昭和にかけて制作された観光地や景勝地のイメージを紹介している。
本展では、まず序章(0章)として歌川広重による「名所江戸百景」(1856-58)を紹介している。ここで注目されているのは、ある場所を演出する絵師の技術である。モチーフを画面から見切れるほど手前に配置する「近像型構図」による誇張的表現、各所の特性を表すモチーフ選びによって、ある場所が強く印象付けられる。広重にとっても、また江戸市中の人々にとっても馴染みある日常と地続きの場所は、かくして見るべき「風景」として読み替えられている。刷り物の絵柄としての風景は、ある場所の情報を縮減・選別した結果である。刷り物の拡散は情報の伝播であり、その過程で一部の人間によって恣意的に演出された「名所」が社会化する。「見るべきもの」がかく生まれ、そこにヒト・モノ・カネが動員されていくのだとすれば、イメージの制作者が観光に果たす役割は大きい。
本編となる第1章では「開化絵」、初期洋画、写真、「光線画」を並列させ、比較している。会場の解説パネルには、名所という語の内実が文明開化の以前以後で異なること、西洋画法や写真によって描かれる風景のなかに江戸=広重的な特徴が見られることなどが指摘されていた。
第2章では川瀬巴水の新版画、国立公園を描いた洋画、そして吉田初三郎らによる観光のためのグラフィックデザインを紹介している。川瀬巴水らによる版画は「新版画」と呼ばれ、自画・自刻・自刷による創作版画とは異なり、従来の浮世絵制作における分業制を大正期においても堅守した。版元・渡邊庄三郎が推進したこの動向は、時代の趨勢のなかで一度は廃れた浮世絵を「伝統」という仮構された枠組みのなかで蘇生させ、同時に訪日外国人の購買意欲を掻き立てて商業的な成功を収めている。旅の画家の異名をとる巴水は、旅行者に先んじて津々浦々の「観光名所」を歩いた水先案内人であり、いっぽうで、こう言ってよければ「日本の伝統」を国内外に伝える土産物の生産者でもあった。何十という版を重ねて生まれる精緻な色の諧調はもちろんそれ自体魅力的なのであるが、巴水の作品で一層興味深いのは、そのイメージが果たした社会的機能である。それは、いわば旅行者の「行き先」であり「思い出」でもあった。
また本章では、国立公園の景観を描いた絵画やポスターが紹介された。日本の国立公園制度は、1931年の国立公園法施行に始まる。これに先立って1929年に組織された国立公園協会は、啓発活動の一環として当時著名な洋画家たちに公園候補地の絵画制作を依頼した。こうした絵画制作は、国立公園法20周年となる1951年や新しい国立公園の制定のたびに断続的に行われてきた。
ここで興味深かったのは、画家たちが制作に対して残した言葉だった。《上高地大正池》(1932)を描いた中澤弘光が「写真のような平凡な画になった」と述べ、《瀞八丁》(1935)を描いた奥瀬英三が「見てよきものかならずしも画にもとはゆかぬもの」「結局は絵葉書写真のような不満足な作品しかできなかったことを、今も申し訳ないと思っている」と語ったことが会場のキャプションや図録の解説で紹介されている。絵画というメディアが持つ特性──対象にある種の脚色を加えて、演出できる可能性を放棄せざるを得なかったことへの忸怩たる思いがうかがえる。絵に描いたような美しい風景は、絵に描くことができない。画題が決まっていて、構図もある程度限定され、それなりに説明的であることを求められる景勝地絵画においては、画家の創意は必ずしも優先されていない。写真ではモノクロの小さい画しか得られないという事情もあったのかもしれないが、ここで重要だったのは画家に描かれることでつく「箔」だったのだろうと思えなくもない。雄大な自然を描いた窮屈な絵画は、創意を期待されていない不遇なコミッションワークの一例として非常に印象的だった。
対して絵画の創造性を生き生きと発揮していたのは、その次に展示されていた吉田初三郎の鳥瞰図のほうだった。鳥瞰図は鉄道路線を中心に、沿線の主要都市や地形、名勝旧跡の位置などをおおよそ示している。富士山を中心に、果てはサンフランシスコまで画中に収めた《日本鳥瞰近畿東海大図絵》(1927)などは、鳥瞰という方法によって描き得たというより、あらゆる「不条理」を物ともしない絵画的な想像力の賜物というべきなのかもしれない。
第3章では和田英作と向井潤吉が紹介されていた。本展の構成においてもっとも個性的な部分をあげるとすれば、おそらく本章であろう。ここでは富士山と民家という、何度も反復され、ある種のステレオタイプの強化に貢献してきた2つのイメージを扱う。2つのイメージにつきまとう陳腐さを思うとき、画家がこれらに生涯を賭して執心する態度が一層映えた。
本展が示したように、絵画は観光の重要なアクターであった。なかんずく絵画的な想像力──演出・誇張・脚色の技術には大きな意味がある。見るべきもの/見たいものは絵画を通じて現前する。そのイメージに向かって人が動けば、さらに資本が投下され、インフラが拡充し、物流が生まれ、また人が集う。観光の起点には、映えるイメージがある。