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2025.10.11

地域レビュー(関西):大槻晃実評「美術の歴史と歴史の美術」(和歌山県立美術館)、茨木市立キリシタン遺物史料館 常設展示

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では大槻晃実(芦屋市立美術館学芸員)が、「美術」と「歴史」という普遍的テーマを作品を通じて問い直した展覧会「美術の歴史と歴史の美術」(和歌山県立美術館)と、国家による宗教統制の歴史を現代に伝える茨木市立キリシタン遺物史料館の2展を取り上げる。

文=大槻晃実

「なつやすみの美術館15 美術の歴史と歴史の美術」(和歌山県立美術館)展示風景より、第1章 撮影=大槻晃実
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美術館で出会う、歴史のかたち

「なつやすみの美術館15 美術の歴史と歴史の美術」(和歌山県立美術館)

 和歌山県立近代美術館では、2011年より「なつやすみの美術館」と題する展覧会シリーズが続いている。今年で15回目を迎えた本展では、「美術の歴史と歴史の美術」と題し、「美術」と「歴史」をテーマに、所蔵作家70名による作品241点と資料21点、さらに独立した小企画展が、5つの章に沿って紹介されている。学校教育でも馴染みのあるこの2つの言葉は、展覧会においてはたんなる知識の枠組みではなく、作品を通じて問い直す視点として提示されていた。

 まず展示の冒頭には、高野口町(現・和歌山県橋本市)で育った画家・高井貞二による《エミグラントの街》(1940)が登場する。旧満州の都市・哈爾浜(ハルビン)を描いたこの作品には、異国の人々が集い、ロシア語の看板や書物が並ぶ。太平洋戦争前夜に描かれたこの作品は、日本が他国を支配していた歴史的事実を静かに示している。戦後80年という節目の年に、この作品を入口に据えた企画者のまなざしには、美術と歴史の交差点に立ち、鑑賞を通じて自ら考える場を創出しようとする姿勢が感じられた。

高井貞二 エミグラントの街 1940 キャンバスに油彩 写真提供=和歌山県立近代美術館

 本展は、「第1章:美術の歴史?」から始まり、「第2章:日本と『外国』」「第3章:歴史の美術?」「第4章:ここから見る」「第5章:○○の歴史と美術」と展開される。とりわけ第1章と第3章に添えられた疑問符は、展覧会の根幹にある美術と歴史の語り方そのものを問い直す視点を象徴しているように思えた。

  第1章では、西洋を受容した日本の近現代美術を様々な視点で辿っていた。鹿子木孟郎や岸田劉生、佐伯祐三ら近代洋画を代表する作家から、石垣栄太郎、保田龍門、ヘンリー杉本など和歌山ゆかりの画家のほか、横尾忠則とマルセル・デュシャンといった地域や国を超えた作家たちが描く自画像や他者を描いた肖像画が壁面全体に展示されており、絵画の世界から多様な視線が向けられ、多くの眼差しと対話をうながされることからスタートする。そのほか、川口軌外や浜地清松、建畠大夢らの作品が並び、美術館の起源や絵画の成り立ちを学ぶ視点も提示されていた。

「第1章」の展示風景 撮影=大槻晃実

 次の第2章では、大正から昭和にかけて描かれた国内の風景画や外地を描いた作品の数々を背景に、子供たちに向けた教育書籍が並ぶ。関東大震災を記録した平塚運一の版画、軍需生産を背景とした石炭産業の状況がうかがえる大宮昇の炭鉱風景、鳥海青児や恩地孝四郎が描いた日本統治下の植民地の風景など、絵画が記録として機能する様子が浮かび上がる。また、日本が他国を支配していたという事実、第二次世界大戦の足音が絵画を通して認識でき、美術が時代のうねりに抗うことも、寄り添うこともあったことが伝わってくる。

「第2章」の展示風景 写真提供=和歌山県立近代美術館

 さらに第3章「歴史の美術?」では、国同士の戦争という「大きな歴史」に対して、移民や兵士といった「個人の経験」が美術を通して語られていた。陸軍美術協会や帝国教育会による戦意高揚の出版物と並び、石垣栄太郎やヘンリー杉本といった海外で暮らした画家たちの視点で描かれた戦争、高井貞二が兵士の日常を描いた挿絵原画、浜田知明《初年兵哀歌》(1951)などが展示されていた。美術は、国の歴史を語るだけでなく、その陰にある個人の記憶や感情をすくい上げる力を持っている。移民として、兵士として、あるいは焼け野原を見つめた市民として──それぞれの視点が、歴史の美術をより深く、複雑なものにしていた。

 第4章では、企画展「和歌山をめぐるローカリズムとモダニズム」が挿入され、地域の美術から歴史を見直す試みが展開されていた。とくに印象的だったのは、大正2年の和歌山市の地図を中心に、同年に描かれた大亦新治郎の和歌山市内の風景スケッチが囲む展示室だった。偶然にも、地元の来館者と監視員が地図を見て昔を懐かしそうに語り合う姿に遭遇した。地域の美術が生きた歴史として立ち上がる瞬間に立ち会えたことは、筆者にとっても貴重な体験となった。

展示風景より、第4章。大亦新治郎の作品が並ぶ 撮影=大槻晃実

 展覧会の結びとなる第5章では、松本竣介《三人》(1943)や野田哲也の日記シリーズから、個人の営みが歴史の最小単位であることが示されていた。あわせて、太田三郎や河口龍夫、野村仁らの作品からは、植物や動物、宇宙といった人間以外の存在にも「歴史」があるという視点が提示さていた。

第5章展示風景より、手前が松本竣介、奥が太田三郎、河口龍夫の作品 写真提供=和歌山県立近代美術館

  本展を通じて語られていたのは、美術作品がつくり手の感情や記憶を映し出す鏡であり、個人の歴史を語るささやかな声でもあること。そして、美術は過去を記録するだけでなく、未来の歴史をかたちづくるための問いを私たちに投げかけているということだと感じた。その声に耳を澄ませることが、いまを生きる私たちにとっての「歴史のかたち」を見つめなおす第一歩となるのだろう。

  美術館という場は、地域の記憶と未来の想像が交差する場所でもある。そこに立ち上がる展覧会は、学芸員たちの穏やかな情熱と、文化をつなぐ意志の結晶だ。和歌山という土地に根ざしたこの展覧会もまた、そのひとつの証しである。

 なお、本展に合わせて発行されるワークシートは、和歌山県内の教員や美術館教育に関心を持つ有志が集う「和歌山美術館教育研究会」によって作成されている。教育普及の観点からも、学び深い企画展であった。詳しくは、和歌山県立近代美術館公式サイト「和歌山美術館教育研究会」のページを参照。

信仰という心の記憶、その歴史

茨木市立キリシタン遺物史料館 常設展示

 大阪府茨木市の北部、千提寺地区。阪急バス「千提寺口」から森の中の緩やかな坂道を歩くこと約15分、山の緑に包まれた静かな集落の一角に、茨木市立キリシタン遺物史料館はひっそりと佇んでいる。1987年に開館したこの館は、かつて高山右近の領地であった千提寺や下音羽地域に根づいたキリシタン信仰の痕跡を伝えている。

茨木市立キリシタン遺物史料館の外観 撮影=大槻晃実

 この土地には、かつて「不思議な場所」として語られてきた記憶があるそうだ。燕が飛来する季節になると、住民の顔色が悪くなる──そんな噂が周辺に広まっていたという。これは後に、四旬節に断食をしていた時期と重なっていたのだろうと語られており、信仰に基づく生活習慣が、地域の風評として現れていたことが想像できる逸話が残っている(*1)。

 この地が「隠れキリシタンの里」であったことが明らかになったのは、1920(大正9)年(*2)のことだ。隣村の住職であった郷土史家・藤波大超が、地元の東藤次郎という人物の協力を得て、千提寺の寺山でキリシタン墓碑を発見したことが契機となった。墓碑には「上野マリヤ」の名と二支十字、そして「慶長八年」の銘が刻まれていた。これを機に、東家のかまどの上の屋根裏に隠されていた「あけずの櫃」に収められた《聖フランシスコ・ザビエル像》(現・神戸市立博物館所蔵)の発見へと続く。その後、周辺の民家から、象牙製のマリア像や木製のキリスト像、聖母子像、宗教書など、数々の遺物が発見され、信仰の継承が物質的にも記録的にも裏づけられた。さらに、その地域に暮らす、東イマ、中谷イト、中谷ミワからは、「オラショ」と呼ばれるアヴェマリアの祈祷文が密かに語り継がれていたという事実が判明し、遺物だけでは知り得ない儀式や風習の存在が確認された。こうして、かつてこの地にキリシタンが潜伏していたことが、歴史的事実として立ち上がってきたのであった。

 史料館には、こうした信仰の痕跡を物語る遺物(複製含む)が常設展示されている。例えば《木製キリスト磔刑像》は、発見時に銅筒に収められていたもので、手足には十字架に取り付けられていた痕が残っている。また、錫と鉛の合金で鋳造されたレリーフに油絵具で彩色された聖母マリアと幼子イエスを描いた「ロレータ聖母子像」は、黒塗りの厨子に納められ、雲の中には三人の天使が浮かぶ。さらに、日本人画家が描いたとされる《マリア十五玄義図》には、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの肖像が描かれ、喜び・悲しみ・栄光の三つの玄義が画面を巡るように配されている。いずれも16世紀後半から17世紀前半に制作されたと考えられているものだ(*3)。

ロレータ聖母子像 16世紀後半~17世紀前半 個人蔵 茨木市指定文化財 写真提供=茨木市立文化財資料館
マリア十五玄義図 16世紀後半~17世紀前半 個人蔵(茨木市寄託) 大阪府指定有形文化財 写真提供=茨木市立文化財資料館

 この史料館の意義は、キリシタン遺物を保存・展示することにとどまらない。禁教政策のもとで信仰を守り続けた人々の姿を、地域の歴史として掘り起こし、現代に伝える場でもある。信仰が抑圧された時代において、祈りを絶やさず、物語を継承してきた人々の営みは、たんなる宗教史の一章ではなく、文化的抵抗の証でもある。とりわけ、国家による宗教統制の歴史を振り返るとき、こうした地域に根ざした信仰の痕跡は、制度の周縁で、抑圧に抗いながらも、慎ましく信仰を継承した人々の生活史として読み直されるべき記録であろう。

茨木市立キリシタン遺物史料館の展示室内 撮影=大槻晃実

 訪問した日は、中谷家の方から直接話を聞くことができた。遺物の背景にある様々なエピソードや、祈りの言葉が代々口伝で受け継がれてきたことなど、展示物だけでは知り得ない記憶の層に触れることができ、こうした語り継がれる記憶そのものも、この史料館の大切な継承のかたちとなっていることを強く感じた。

 帰り道、山の緑に包まれながら思った。茨木市立キリシタン遺物史料館は、記録された歴史だけではなく、信仰という心の記憶も重要な歴史のひとつである──そのことを、山深い緑に包まれたこの場所が、静かに教えてくれた。

*1──四旬節は、灰の水曜日から復活祭前(主の晩餐の夕べのミサの前まで)の40日間にわたり祈りを捧げ断食すること。イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来している。この地での様々な逸話や歴史については、桑野梓「茨木キリシタン遺物から見る『発見』とその後」(『関西の隠れキリシタン発見 茨木山間部の信仰と遺物を追って』、マルタン・ノゲラ・ラモス、平岡隆二編、人文書院、2025、PP.143-190)に詳しい。
*2──1919年(大正8年)という説もある。
*3──茨木市のキリシタン遺物については『茨木のキリシタン遺物-信仰を捧げた人びと-』(茨木市立文化財資料館編、茨木市教育委員会、2018)を参照。