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2026.9.13

最新の研究から紐解くフェルメールの人物像。17世紀オランダ絵画の研究者・青野純子の言葉から探る

17世紀オランダ絵画を代表する画家ヨハネス・フェルメール(1632〜75)。静謐な室内画や「光の表現」で人々を魅了し続けるフェルメールの作品世界は、いまなお大きな注目を集めている。残された史料が限られ、「謎多き画家」とも称されるフェルメールは、どのような時代や環境を生き、なぜこれほどまでに評価される画家となったのか。最新の研究によって浮かび上がってきた新たな人物像と魅力について、17世紀オランダ美術史を専門とする慶應義塾大学教授の青野純子に教えてもらった。 ※9月14日24時まですべての方に全文お読みいただけます

聞き手・構成=大橋ひな子(編集部)

ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》(1665頃)キャンバスに油彩 44.5×39cm マウリッツハイス美術館 ©Mauritshuis, The Hague
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フェルメールはどんな人物だったのか

──「謎多き画家」とも呼ばれるヨハネス・フェルメールは、どのような生い立ちの人物だったのでしょうか。現在判明している人物像について教えてください。

青野純子(以下、青野) フェルメールは「謎の多い画家」とよく言われますが、公的な記録がほとんど残っていないというわけではありません。1632年にオランダの古都デルフトで生まれたことや、家族構成や結婚相手といった事実は史料からしっかりとわかっています。

 フェルメールは、父、母、12歳年上の姉、そして自身の4人家族で育ちました。フェルメールの生い立ちを考えるうえで重要なのは父親の存在です。父レイニールは、デルフトの中心に近い場所で居酒屋を兼ねた宿屋を営みながら、その宿屋で画商として絵画の販売も行っていました。フェルメールは幼少期から日常的に絵画や地元デルフトの画家たちに囲まれた環境で育ちました。また、姉の夫は額縁職人であったことなど、広い意味で芸術に関わる環境が身近にあったと考えられます。

 転機となったのは20歳前後の頃です。ちょうど絵の修行を終えるかというタイミングで父親が亡くなりました。フェルメールは母の手伝いをしながら独立を決意し、約1年ほどのあいだに、結婚、聖ルカ組合(画家のギルド)への加入と独立を矢継ぎ早に行います。若くして家計や自身の生活を背負い、画家として歩み出した強い自立心がうかがえます。

 ただ、この結婚はスムーズに決まったわけではありませんでした。プロテスタントの庶民家庭出身だったフェルメールに対し、結婚相手のカタリーナ・ボルネスの家はカトリックの資産家でした。そのため、当初は義母となるマリア・ティンスから家柄の違いなどを懸念されたのか、結婚を簡単には賛成してもらえなかったようです。また、結婚を機にフェルメールはプロテスタントからカトリックへ改宗したと言われることもありますが、決定的な証拠が残っているわけではありません。ただ、当時プロテスタントを国教とするオランダで、カトリックの妻や義母と同居していたことは確かです。

 妻のカタリーナとのあいだには14人ほどの子供が生まれ、うち11人が無事に育ちました。当時としてもかなり子だくさんな家庭で、義母マリア・ティンスの裕福な実家と同居しながら、賑やかな環境のなかで制作を続けていました。

──「謎の多い画家」と言われるゆえんはどこにあるのでしょうか。

青野 一番の謎は、フェルメール自身の内面や思考を記した日記や手紙といったプライベートな史料が残っていない(見つかっていない)点です。そのため、どのような性格で何を考えて描いていたのかといった内面が見えにくいのです。

 さらに大きな謎として、「誰に絵を習ったのか(師匠)」そして「弟子がいたのか」が明確でないことが挙げられます。公的な記録はあるものの、画家としての修業時代や工房の実態といった部分に史料の空白があることが、「謎めいた画家」というイメージを強める要因となっています。

フェルメールが生きた17世紀オランダ・デルフトの様子

──フェルメールが生涯を過ごしたデルフトとは、当時どのような街だったのでしょうか。

青野 当時のオランダは、貿易と市民社会の発達によって「繁栄期」を迎えていました。そのなかでデルフトは運河に囲まれた比較的コンパクトな都市でありながら、織物業や造船業、そして「デルフト陶器」の生産などで栄えた街でした。また、オランダ総督の墓所がある新教会を擁するなど、文化的象徴をもつ都市でもありました。

現在のデルフトの街並み。《デルフトの眺望》(1660〜61)が描かれた場所 撮影:河内秀子

──そうした時代や土地の環境は、フェルメールの活動にどう影響したのでしょうか。

青野 デルフトには、顕微鏡を発明したアントニー・ファン・レーウェンフック(1632〜1723)に代表される科学者もおり、「科学的な視覚への関心」などが街全体で共有されていました。カメラ・オブスクラなどの光学機器や、精緻な遠近法を用いた教会室内画の発達など、当時の人々が興味を持っていた視覚的な試みなどは、フェルメールの空間や光の表現とも深く結びついています。

画家としての活動と、同時代の画家たち

──師匠や同時代の画家たちとの交流について、現在はどのように考えられていますか。

青野 レンブラントの弟子であるカレル・ファブリティウス(1622〜56)などが候補に挙がったこともありましたが、現在では、おそらく地元の画家から手ほどきを受けた後で、デルフト以外の都市で活動した画家のもとに弟子入りしたと考えられます。

ヨハネス・フェルメール《恋文》(1669~70頃)キャンバスに油彩 44×38.5cm アムステルダム国立美術館 格子柄のタイルが描かれている

 同時代の画家との交流も盛んでした。とくにデルフトで活動したピーテル・デ・ホーホ(1629〜84)とは互いに強い影響を与え合っており、格子柄の床タイルや奥行きのある室内空間の表現はデ・ホーホとの切磋琢磨から生まれたものだと考えられています。また、ヘラルト・テル・ボルフ(1617〜81)といった他都市の風俗画家とも親交があり、テル・ボルフがデルフトを訪れた際、とある証書にフェルメールとともに証人としてサインを残している記録もあります。

──フェルメールは積極的にほかの画家とも交流をしていたのですね。画家たちのコミュニティのなかでも重要な役割を果たしていたのでしょうか。

青野 フェルメールは29歳の若さで聖ルカ組合の「理事(組合長)」に選出され、37歳で再び選ばれています。これはフェルメールが同業者たちから深い信頼と信望を集め、社会的な地位を確立していた証拠とも言えます。

 自身の作品《ヴァージナルの前に立つ女》(1670〜72頃)の背景に、同僚であるデルフトの画家ピーテル・フルーネウェーヘンの風景画(画中画)を描き込むなど、地元の仲間を意識し、互いに高め合うオープンな交友関係を築いていた様子がうかがえます。

17世紀オランダの美術市場

──フェルメールは画家であると同時に、美術商や鑑定士としても活動していたそうですね。

青野 当時画家が画商を兼ねることは一般的で、フェルメールも自作を売るだけでなく、他者の作品を仕入れて販売する美術商の活動を行っていました。また、イタリア絵画の真贋鑑定のためにハーグへ招かれるなど、目利きとしての信頼も得て活動していた可能性もあります。

──当時の美術市場と、フェルメールの制作スタイルの関係について教えてください。

青野 17世紀にプロテスタントの市民中心の社会が成立したオランダでは、教会や王侯貴族に代わって市民が主な購入者となり、不特定多数に向けて完成作品を売る「自由な絵画市場」が成立していたと言われています。 絵画需要の高まりとともに絵を描く人々も急増して競争が激しくなり、各自が得意なジャンルや題材に特化して専門化を図っていきました。ただ、腕がよく著名な画家には富裕層の顧客やパトロンがついており、注文制作も行っていたと考えられます。

ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》(1660)キャンバスに油彩 45.5×41cm アムステルダム国立美術館 パトロンが所有していた作品のうちのひとつ

 フェルメールも例外ではなく、作品を広く売るために流行を追うのではなく、特定のパトロンに向けて描くスタイルをとっていました。生涯で制作した36点の作品のうち21点ほどを継続的に購入してくれるパトロンが存在したからこそ、流行よりもそのパトロンが何を欲しているかを考えながら描くことができたのだと思います。

フェルメールの再評価について

──フェルメールの死後、その評価はどのように変化していったのでしょうか。

青野 1675年に43歳で亡くなった際、戦争による不況の影響もあり、フェルメール家は多額の借金を抱え、未亡人は破産申告をしました。死後、18世紀に書かれたオランダの画家たちの伝記『ネーデルラントの画家たちの大劇場』(アーノルド・ホウブラーケン著)にフェルメールの名前が掲載されなかったことや、21点ほどの作品が特定のパトロンの元にまとまっていて他人の目に触れにくかったこと、作品数自体が少なかったことなどから、次第に人々から知られない存在になっていきました。  とはいえ、18世紀の間もオランダ国内では知る人ぞ知る画家ではあったようです。

──そんなフェルメールですが、いまや世界中で知られる画家となりました。人々から一度忘れられてしまった時代から、何がきっかけでここまで評価されるようになったのでしょうか。

青野 19世紀半ば以降、フランスの美術批評家であり画商でもあったトレ・ビュルガー(1807〜69)が、フェルメール作品を「忘れられた画家の再発見」というかたちで大々的にアピールしたことで、一気に知られるようになりました。  

 当時のフランスでは日常的な情景を描く絵画への関心が高まっていた時期でもあり、フェルメール作品の紹介が非常に受けたのです。わたしたちが抱いている「謎の多い天才画家」というイメージは、この19世紀にトレ=ビュルガーが商業的にアピールした過程でかたちづくられた部分も大きいと言えます。

いま、フェルメールをどう見るか

──近年の調査や研究によって、新たにわかってきたことがあれば教えてください。

青野 2023年の大規模展覧会「Vermeer」(アムステルダム国立美術館)やその前後に発表された最新の調査・研究によって、複数の新事実が明かされています。 

 そのひとつが、フェルメールの制作を支えたパトロンの実像です。これまで長らく夫婦、とくに夫のピーテル・クラース・ファン・ライフェンがパトロンと思われていましたが、近年の史料調査により、じつは妻であるマリア・デ・クナイトという女性がメインのコレクターであった可能性が極めて高く提示されました。

ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》(1665頃)キャンバスに油彩 44.5×39cm マウリッツハイス美術館 ©Mauritshuis, The Hague 黄色い服を纏った少女が描かれている

 彼女は昔からフェルメールの近所に住んでおり、自身の遺言でフェルメールに個人的なお金を遺そうとするなど、画家としてのフェルメールを高く評価していました。作中に登場する印象的な黄色い洋服や女性を中心としたテーマは、彼女自身が気に入って注文していた可能性もあります。  

 さらに、科学調査によって描くプロセスの試行錯誤が見えてきたり、《フルートを持つ女》(1665〜75頃)という作品の帰属をめぐって周囲にいた人物や工房の存在が議論されたりと、フェルメール研究は新たな局面を迎えています。  

──最後に、最新の研究を踏まえて、これからフェルメールの作品を楽しむためのヒントがあれば教えてください。

青野 フェルメールは、史料が多くは残っていない画家ですが、だからこそ近年の調査によって新たな事実が見えてくる面白さがあります。フェルメールは同時代の仲間やパトロンと交流し、人間関係を広く築きながら制作していました。これからフェルメールの作品にふれる際には、ただ「謎の画家」として見るだけでなく、その実像や背景に想いを馳せていただけると、また違った面白さが見えてくるのではないかと思います。