2025.3.1

特別展「ミロ展」(東京都美術館)開幕レポート。没後40年を機に全体像をとらえ直す

東京都美術館で、特別展「ミロ展」が開幕した。同展は没後40年となるミロの世界的な再評価の流れを受けて開催されるものとなる。

文・撮影=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

特別展「ミロ展」展示風景より
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 東京・上野の東京都美術館で、特別展「ミロ展」が開幕した。会期は7月6日まで。担当学芸員は髙城靖之(東京都美術館 学芸員)。

 20世紀を代表する画家、ジュアン・ミロ(1893~1983)はスペインのカタルーニャ州出身。太陽や星、月など自然のなかにある形を象徴的な記号に変えて描いた、詩情あふれる独特な画風が今日においても人気を博している。

 同展は、没後40年となるミロの世界的な再評価の流れを受けて企画されており、初期から晩年までの代表作約100点を全5章立てで構成することで、その画業の全体を俯瞰するものとなっている。

ジュアン・ミロ

 まず、第1章の「若きミロ 芸術への決意」では、仕事があわず病に臥せってしまった若きミロが、仕事を辞め画家を志す決意した頃の作品が展示されている。自画像や風景画などは具象表現が中心となっているものの、一つひとつの作風は伝統的な表現から前衛的な表現までが入り混じったものとなっており、自身の作風を模索する姿勢が感じられる。

特別展「ミロ展」展示風景より、《自画像》(1919)
特別展「ミロ展」展示風景より、手前は《モンロッチの風景》(1914)
特別展「ミロ展」展示風景より、《ヤシの木のある家》(1918)

 第2章「モンロッチ─パリ 田園地帯から前衛の都へ」では、1920年代の活動を追う。スペインのモンロッチで療養生活を送っていたミロは、この時期に初めて芸術の都・パリを訪問。そこで最先端の芸術の在り方に衝撃を受けたことをきっかけとして、翌年から同地のアトリエで活動を行うようになった。

 モンロッチとパリを往復しながらも、パリのシュルレアリスム作家や詩人との交流を深めていったミロの作風は徐々に記号的なものへと変化していく。25〜27年には「夢の絵画」と呼ばれる作品を100点以上手がけ、絵画と詩を融合させた「絵画詩」の表現を確立。これらの作品がパリで評価されていった。

特別展「ミロ展」展示風景より、《絵画=詩(栗毛の彼女を愛する幸せ)》(1925)
特別展「ミロ展」展示風景より、《絵画(頭部とクモ)》(1925)

 その後、既存の芸術に対して批判的な目を向けるようになったミロは、コラージュ表現やオブジェの制作をもって絵画の在り方を問い直し続けた。「絵画を暗殺したい」とまで口にしたというミロの意欲的な姿勢も垣間見ることができる。

特別展「ミロ展」展示風景より、手前は《オランダの室内Ⅰ》(1928)
特別展「ミロ展」展示風景より、《絵画=オブジェ》(1936-53)

 第3章「逃避と詩情 戦争の時代を背景に」では、1936年に勃発したスペインの内戦や同年の第二次世界大戦といった戦禍の影響が、ミロの活動にどのような影響をもたらしたかについて俯瞰することができる。

特別展「ミロ展」展示風景より、左から《絵画(カタツムリ、女、花、星)》(1934)、《無題(夜の恋人たち)》(1934)

 これらの戦争から逃れるためにフランスのパリやノルマンディー地方の村を転々とし、スペインへの帰国後はマジョルカ島やモンロッチへと移動を続けた。このあいだに制作されたのが、夜や音楽、星を着想源にした「星座」シリーズであり、同展では描かれた全23点のうち3点が出展されている。

 また、音声ガイドを用いると、ミロが当時聴き続けていたというJ.S.バッハによる楽曲「目覚めよ、と呼ぶ声あり BWV 645」とあわせて鑑賞することができる。絵画と音楽が交じりあう豊かな体験をぜひ試してみてほしい。

特別展「ミロ展」展示風景より、手前は《カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち》(1940)
特別展「ミロ展」展示風景より、《明けの明星》(1940)

 第4章「夢のアトリエ 内省を重ねて新たな創造へ」では、50〜60年代の戦後における活動を見ることができる。この頃、ミロの作品はアメリカでも評価が高まっており、若い作家らに大きな影響を与えていたとともに、本人もまた仕事でアメリカを訪れながらも、同地の若い作家から刺激を受けていた。

 また同時期には、ミロにとって念願でもあった大きなアトリエがマジョリカ島に完成。これを機に作品のサイズも大きくなったほか、彫刻やオブジェの作品も増えていった。

特別展「ミロ展」展示風景より
特別展「ミロ展」展示風景より、《自画像》(1937-60)

 第5章へ行く前にコラムとして挟まれているのがこの「ポスター」の展示だ。芸術家とは「ほかの人々が沈黙するなかでなにかを伝えるために声を上げる者」であると考えていたミロは、リトグラフを用いた版画やポスター、そして屋外彫刻などを制作することで、人々の関心を芸術に向けさせることを試みていたという。

特別展「ミロ展」展示風景より。左はマジョリカ島のアトリエの様子
特別展「ミロ展」展示風景より

 第5章「絵画の本質へ向かって」では、すでに評価が定まった晩年のミロが、新しい表現をつねに探究していたことがうかがえるユニークな試みが紹介されている。

特別展「ミロ展」展示風景より

 例えば、ただの財産となってしまう絵画を燃やすことで脱神聖化を図る大胆な試みや、三連作となる《花火 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ》では、身体の動きを反映させた大きな筆遣いを用いるなど、時代の最先端となる表現を取り込みながら自身の作品を探究していった。

特別展「ミロ展」展示風景より、《焼かれたカンヴァス 2》(1973)
特別展「ミロ展」展示風景より、《花火 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ》(1974)

 その晩年、ミロは自身の制作活動を振り返り次のような言葉を残したという。「3000年後にこれらの作品を見た人たちが、(この画家が)人間の解放を目指したことを理解してくれたら」。

 20世紀を横断し、様々な影響を受けながらもつねに新しい表現を追い続けたミロ。その姿を、同展を通じて垣間見ることができるだろう。

特別展「ミロ展」展示風景より、《涙の微笑》(1973)