EXHIBITIONS
伊藤誠「遠くの場所」
Maki Fine Artsで、伊藤誠による個展「遠くの場所」が開催されている。
以下、沢山遼(美術批評家)による展覧会ステートメントである。
「伊藤誠の彫刻を見ることは、それ自体が探索的な行為である。それは夢のなかで見た形を、記憶を手繰り寄せるようにたどり、想い出すことに近いかもしれない。
その彫刻では、その表面に平面的な立体図や展開図のような描線が施されるものがある。立体図や展開図は、それ自体が視覚的には立体的である。が、フラットな平面の上に空間的なイリュージョンが展開される絵画とは異なり、伊藤の描線は、彫刻であるのだから当然、三次元の立体の上で展開される。そこで描線は、三次元の立体に貫入・侵食したかと思うと両者は論理的に反発し合う。そこでは複数の位相が交換され、その配置もつねに入れ替わっていく。彫刻の形は、形が形を裏切る錯綜的な視覚経験のただ中で経験されるのだ。
だからどれほど近くにあっても、その彫刻をうまく見ることができない。そこでは、近くと遠く、二次元と三次元が交錯し、いま見ていることが過去の時間によって侵食される(それはすべて夢に似ている)。形はつねにつくり変えられる。この行為のなかから初めて形が現れる。とすれば、形とは、交換、侵食、転送、反転、ズレ、配置換えなどの複数の位相の交錯のなかで初めて立ち現れるものであるということだ。ゆえに、平面と立体、ドローイングと彫刻などの区分もまた無効化される。彫刻をつくることは、そのようなどこにもない場所を観者の眼前に差し出すことである」(展覧会ウェブサイトより)。
以下、沢山遼(美術批評家)による展覧会ステートメントである。
「伊藤誠の彫刻を見ることは、それ自体が探索的な行為である。それは夢のなかで見た形を、記憶を手繰り寄せるようにたどり、想い出すことに近いかもしれない。
その彫刻では、その表面に平面的な立体図や展開図のような描線が施されるものがある。立体図や展開図は、それ自体が視覚的には立体的である。が、フラットな平面の上に空間的なイリュージョンが展開される絵画とは異なり、伊藤の描線は、彫刻であるのだから当然、三次元の立体の上で展開される。そこで描線は、三次元の立体に貫入・侵食したかと思うと両者は論理的に反発し合う。そこでは複数の位相が交換され、その配置もつねに入れ替わっていく。彫刻の形は、形が形を裏切る錯綜的な視覚経験のただ中で経験されるのだ。
だからどれほど近くにあっても、その彫刻をうまく見ることができない。そこでは、近くと遠く、二次元と三次元が交錯し、いま見ていることが過去の時間によって侵食される(それはすべて夢に似ている)。形はつねにつくり変えられる。この行為のなかから初めて形が現れる。とすれば、形とは、交換、侵食、転送、反転、ズレ、配置換えなどの複数の位相の交錯のなかで初めて立ち現れるものであるということだ。ゆえに、平面と立体、ドローイングと彫刻などの区分もまた無効化される。彫刻をつくることは、そのようなどこにもない場所を観者の眼前に差し出すことである」(展覧会ウェブサイトより)。