EXHIBITIONS

特別展

山崎隆夫 その行路 ―ある画家/広告制作者の独白

2025.09.20 - 11.16

山崎隆夫 山下雷電 1987 油彩、板 茅ヶ崎市美術館蔵

 芦屋市立美術博物館で、特別展「山崎隆夫 その行路 ―ある画家/広告制作者の独白」が開催されている。

 山崎隆夫は1905年大阪府生まれ。幼少期より神戸で暮らし、画家を目指しつつも神戸高等商業学校(現神戸大学)入学。在学中、のちに版画家となる同窓の前田藤四郎、画家の井上覺造らと美術グループ・青猫社を結成し、同時に芦屋在住の洋画家・小出楢重に師事、阪神間モダニズムのただ中で洋画を学ぶ。卒業後は三和銀行に勤めながら、31年に小出が没すると画家の林重義に学び、独立美術協会展や文展への出品を重ね、43年に国画会会員となる。戦後は芦屋市美術協会や現代美術懇談会(ゲンビ)などの団体にも参加しながら洋画家として活躍した。

 銀行員としての山崎は、画壇での活躍を注目した頭取によって三和銀行の広報担当に抜擢される。各銀行が広報を強化した戦後の時代、山崎は独自の美意識を軸に、菅井汲、吉原治良ら芸術家仲間やアルバイトに来ていた柳原良平によるイラスト、女優のポートレイトを採用して、多くの広告を制作した。

 山崎の仕事は評判を呼び、1954年には寿屋(現サントリーホールディングス株式会社)専務・佐治敬三に招かれ、山崎は柳原を伴って寿屋へ入社し、宣伝部長に就任。同年に入社していた作家・開高健のほか、アートディレクターの坂根進、写真家の杉木直也ら、自ら集めた宣伝部メンバーを率いて、トリスウイスキーの広告やPR誌『洋酒天国』の発行といった広告活動を展開した。当時の日本人には馴染みの薄かった洋酒文化を、モダンな楽しみとして普及させようとする山崎の仕事が、寿屋独自の宣伝スタイルを築く。64年には株式会社サン・アドを創立し社長に就任。晩年は62年に居を構えた神奈川県茅ヶ崎市で、91年に逝去するまで意欲的に絵画制作を続けた。

 山崎の生誕120年の節目に開催されている本展は、その仕事の全貌を「絵画」「広告」の双方向から展観する初の機会となっている。阪神間モダニズムから戦後に至る、山崎が生きた時代背景を踏まえつつ仕事を通観することで、絵画と広告という異なる領域で活躍した山崎の思考と美意識に迫る。