2025.2.27

「耳で視る」音響空間はいかにして生まれるのか。evala・畠中実インタビュー

東京・初台のNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で「evala 現われる場 消滅する像」が開催中。「See by Your Ears」をコンセプトとする空間的作曲プロジェクトによって「耳で視る」ことを探求するサウンド・アーティストのevalaと、本展を担当したICC主任学芸員の畠中実に話を聞いた。

聞き手・撮影=中島良平

evala
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空間に音で絵を描くように

──evalaさんは以前CDなどの音源を制作していましたが、2010年に発表した『acoustic bend』というアルバムを最後に、インスタレーション作品や舞台音楽などの表現へと完全にシフトされました。その経緯からお聞かせください。

evala いわゆる音楽家としてのルーティンというのは、作曲をして、レコーディングをして、できあがった音源をパッケージングして発売し、それをもってコンサートを行うのが一般的です。僕自身もそうだったのですが、それと並行して美術館でサウンド・プログラミングなども手がけるようになると、CDのようにパッケージ化することを目的としないため、空間の色々なところに音を配置するといったことが試せることに気がつきました。

 そのいっぽうで『acoustic bend』というアルバムは、世界中を旅してフィールドレコーディングを行い、各地の音の記憶を集めることで何かをつくろうと制作を始めたのですが、LとRのスピーカーふたつだけを想定してつくるのは窮屈すぎると感じていました。コンピュータで加工してCDを完成させましたが、もうこの形式でのパッケージ化は十分だなと。空間のなかでもっと自由に、空間に音で絵を描くように表現していきたいと考え、作品を発表する主戦場が美術館や劇場になっていきました。

──現在ICCでは個展「evala 現われる場 消滅する像」を開催中ですが、2013年にはICCの無響室で《大きな耳をもったキツネ》という作品を発表されており、今展でも展示されています。フィールドレコーディングした音を素材に、暗い無響室での音響体験を提供するこの作品はどのように生まれたのでしょうか。

evala それまでCDをつくるときには、再生環境を問わずに不特定多数の方にいかに届けるかを考えて編集を行っていました。あらゆる環境に届けるには、楽譜のように音の高さ/長さ/強さから構成するポップスなど商業音楽が非常に適しています。コンビニやスマートフォンから流れてもその楽曲のコアは失われない。しかし僕のように響きや音色にフォーカスした音楽は、なかなかそうはいかないんですね。ならば、それとはかけ離れて、視界情報も完全に遮断された環境で、たったひとりのためだけの、極上の音の体験をしてもらいたいと考えたことが始まりです。現実空間とは異なり音の反響がほぼない無響室は、音響創作を行う僕にとっては、いわば真っ白なキャンバス。そこに立体音響システムを持ち込んで、現実とはまったく異なるヴァーチャルな、未知なる音響空間をつくることができるのではないかと考えたんです。

 そこで発表したのが《大きな耳をもったキツネ》という作品で、僕の故郷である京丹後の自然のなかでフィールドレコーディングした音や、世界的なサウンド・アーティストで、たまたま僕が小学校時代に遊んでもらっていたこともある鈴木昭男さんの演奏を録音して仮想の音響空間を構成したものです。映像に例えるならば、カメラ1台でドキュメンタリー素材を集めるように、マイク片手に故郷でフィールドレコーディングを実施し、そこで集めた膨大な音を素材としているのですが、それらの聞き覚えのある音が現実にはありえない配置や響きをもって空間ごと変容していくという、新しい体験型フィクションを制作しました。

畠中実(以下、畠中) これはevalaさんによる新たな聴覚体験を創出するプロジェクト「See by Your Ears」の原点に位置付けられている作品で、空間にマルチチャンネルのスピーカーを配置し、そこで音像をつくっていく「空間的作曲」という独自の手法で制作されています。その手法をもっとも効果的かつ精緻に実現できる場所が、このICCの無響室です。部屋全体に敷き詰められた素材によって音の反響が吸収されるといった特殊な状況が生じ、空間の音響的特徴がない部屋になります。この作品において音が立体的に聞こえ、音が自分の周りに「ある」ことがはっきりわかるという感覚は、無響室の性質を最大限に活かして実現されたものなのです。

evala《大きな耳をもったキツネ》(2013-14)
撮影: 木奥恵三
写真提供: NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

空間における「音の運動」を考える

──「evala 現われる場 消滅する像」は、2005年以来初めて、ICC 5階展示室のほぼすべてをひとつの企画展で使用したプログラムです。この大規模な展示プランを実現するにあたり、意識した点はありますか。

evala 目で見る作品というのは、一度展示室で見て、振り返ったらもうそれは見えず、隣の部屋に行けば次の世界に移りますよね。でも僕の表現は音を使用するので、部屋が分かれていても音が物理的に干渉しあってしまいます。そこが最初の課題となり、音の関係性、遮音性を考えながら、会場全域を作曲するかのように展示構成のプランを練っていきました。

──来場者がギャラリーBに入って最初に体験する作品は《Sprout “fizz”》(2024)ですが、これは作品のあいだを歩きながら音を体感できるもので、これから各展示室で体験する作品への導入のようにも感じられます。ここに入り、evalaさんの表現世界に一度チューニングされることで、連続的に作品世界を体験していくような感覚です。

evala この作品は旧Bunkamura Studioのために昨年3月に制作したものを、大幅に発展させたシリーズ最新作です。Sproutは「芽吹く」という意味の言葉で、そのなかには「Sp out」というスピーカー出力の略語も隠れているのですが、ケーブルが植物のように地面や壁を這い、そこに置かれた大量の小さなスピーカーそれぞれから独立して音を出しています。音が芽吹き、色々な場所に花粉や粘菌が飛んでいくように広がるイメージで制作しました。実際に、ここで使用している音のフラグメンツをほかの部屋の作品にも埋め込むことで、展示会場全体がつながるような仕組みとなっているのですが、それは音にしかできないインスタレーションの方法だと思っています。

evala《Sprout “fizz”》(2024)
撮影: 山口雄太郎

──この作品の音は、ほとんどがデジタルノイズからできていると伺いました。しかし実際には、虫の羽音や木のさざめきのような自然音に錯覚する瞬間も数多くあり、展示室であるにもかかわらず、まるで周辺の空気が震えるような感覚がありました。

evala ノイズからできているのに、人工なのか自然なのかがわからない、曖昧な環境を目指しました。その際に重要なのは、音源をそれぞれの単体ではなく、運動として考えることです。例えば「ザー」というホワイトノイズをただ聴いていると文字通りノイズでしかありませんが、それが上から降ってきたり、横から流れて波打ったりすると、滝のように感じたり、海に浸かっているように感じます。しかしそれを録音するとまた「ザー」というノイズでしかなくなる。音源をつくることと音響空間をつくることの違いがそこにあるのです。

──音の運動や無音状態と有音状態とのコントラストなども含めたものが「空間的作曲」と言えるのですね。展示内容はもちろん、「現れる場 消滅する像」というタイトルも、evalaさんの創作姿勢を象徴的に表しているようです。

evala 例えば、鹿(しし)おどしってありますよね。ちょろちょろと水が流れて、水が溜まると「カン」と音が鳴る。音をつくるとなると、その鳴る瞬間の「カ」というところばかりを考えがちですが、その「カン」のあとに響く「ン(…)」の部分。山々に響いていくようなあの音の運動、あの残響を味わいたいから、いまでも庭園などに鹿おどしがあるのかもしれない。僕がサウンド・アートをつくるうえで大事にしているのが、まさにそのような運動や残響の部分、ひいては空間の響きなのです。

 音の出来事を時間軸に構成した音源をどうつくるかだけでなく、それが空間のなかでどう運動していくか。その人工的な操作を「空間的作曲」と言っています。空気の振動とそこで生まれる体験を作品として考えているので、サイトスペシフィックにならざるを得ないのです。

 そういった空間的作曲によるサイトスペシフィックな作品のアンケートでおもしろいのが、視覚的な感想が多いことです。目には見えない高密度な音によって、イマジネーションが創発される。そしてそのイマジネーションは個々別々で一人として同じものがないのが興味深い。イメージが提示されているのでなく、イマジネーションが引き出されていく。それが「See by Your Ears」の「耳で視る」ということかもしれないし、展覧会タイトル「現われる場 消滅する像」とは、それを本展キュレーターの畠中さんが言い換えて名付けてくれたものです。

畠中 evalaさんの作品は「耳で視る」をテーマにしていますが、いっぽうでサウンド・アートにおいては「音を視る」というような側面があります。美術史的に言えば、カンディンスキーもそうですが、多くのヴィジュアルアーティストが音の視覚化を試みてきました。つまり、ある作家が音を解釈してヴィジュアライズし、イメージとして固定化されたものを鑑賞者が見ることが多いわけですが、evalaさんの「耳で視る」作品では、その「答え」が用意されているわけではありません。

 例えば今回の出展作品に《Embryo》(2024)というものがありますが、あれは映像信号も用いてはいるものの、いわゆる一般的な映像を使用しているわけではありません。光であり、影であり、物質的なものが生み出す影のようなものが組みあわさって、映像的に見える。それが音と交錯することで、鑑賞者それぞれの内面に生まれるイメージを視るような作品です。今回の展覧会において視覚的な要素はとても限定的で、ディスプレイやプロジェクターで見る映像とは異なるアプローチを行っています。

evala《Embryo》(2024)
撮影: 山口雄太郎

「耳で視る」体験を促す視覚表現

──ギャラリーBの展示作品のひとつである《Inter-Scape “slit”》(2024)は、真っ暗な空間に入ると音の環境が変わり、目が慣れてくると1本のスリットが壁面に見えてきます。まさに映像とは異なる視覚体験ですね。

evala 展示室に入ると、めくるめく旅のように音が変わっていくことを感じていただけると思います。いま飛行機に乗ったかなと思ったら、パンっと湖へと切り替わって……というように、世界各地でフィールド・レコーディングした時間も場所も異なる音たちが、立体音響システムのなかで混ざりあって、地球上のどこにも存在しない景色の移り変わりを体験する作品です。極限まで具体的な像を出さないことが大事なので、ブラックライトをベースにした暗い空間をつくりました。ライティングはシーンごとに微細な生成変化をしているのですが、壁にある1本の黒いスリットは変わることはありません。その1本の線から架空の世界の断片をのぞき見るかのような体験を生み出しています。

──シーンの転換として、ストロボのような光の演出が効果的に使われています。

evala あれを僕は「耳の瞬き」と呼んでいて、パンと手を叩いて耳をリセットするような行為をストロボライトで行っています。真っ暗闇が特徴の「See by Your Ears」ですが、今回の展覧会では《Embryo》のように映像にも光にも彫刻にも見えるものや、《Score of Presence》(2019)のように鑑賞する角度によって色彩が変化するペインティングに見えてじつはそれ自体がスピーカーで音を発していたりと、薄闇のなかで幻覚のような視覚をいかに生み出すかということにも注力しました。

evala《Inter-Scape “slit”》(2024)
撮影:冨田了平
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
evala《Score of Presence》(2019)
撮影:冨田了平
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

──ギャラリーBの一番奥には、《Studies for》(2024)という作品がありますが、空間が真っ白で明るく、ほかの作品とは趣が異なるようです。

evala これは、これまで発表してきた36つの立体音響作品のサウンドデータのみを学習した生成AIによってつくられた作品で、僕はデータ提供以外に一切音の制作をしていないのです。展示空間が、それまでの薄闇の空間とは一転して真っ白で曲線的なのは、僕の死後の世界と、生まれる前の子宮のなか、双方をイメージしているからです。

 「See by Your Ears」の空間音響は、音楽作品のようにアルバムという単位で音源パッケージ化することが困難なので、どのようにアーカイヴするかをひとつの課題として考えてきました。サイトスペシフィックな体験作品ばかりをつくっている僕の悩みは、死んだら作品がほとんど残らないということです。そこから、たとえ作家が不在でも、DNAレベルで作品を継承し生成していくような何かが生み出せないかと、新たに始めたのがこの《Studies for》です。

 僕が父親であのAIが子供だとしたら、父親がつくったものを学習した8つ子が、そこから何かを創出するということをいままさに続けています。まだ胎児のような状態ですが、会期中に成長していくし、会期終了後もこのプロジェクトは続けていくので、その発育が楽しみです。

evala《Studies for》(2024)
撮影:冨田了平
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

──ギャラリーBの無響室で《大きな耳をもったキツネ》を体験し、ギャラリーAにある新作インスタレーション《ebb tide》へと移動します。ここには、無響室の壁面に設置されている吸音材の1ピースが拡張されたような巨大な構造物が中央に設置されており、鑑賞者はそこに登りながら、各々が時間をかけて音を体験できるような作品となっています。

evala 小さな無響室での《大きな耳をもったキツネ》が、自分の身体の内部に音が侵入するかような体験であるのに対して、この400平米まるごと使った大きな《ebb tide》では、音が無限のような広がりをみせています。さらにここで面白いのは、前者がフィールド録音で、後者が手の平サイズの音具を音源としていることです。屋外の広大なフィールドを自分の身体内部に閉じ込める体験と、手の平で発する小さな音が無限に広がって充満している響き、このような非日常なスケールを体験できるのは、音の創作ならではだと思います。

 また、視覚や言語で表現した作品を鑑賞したときは、外側から与えられた情報や刺激に対してリアクションするのに対し、《ebb tide》も含めた「See by Your Ears」の作品は、音によって鑑賞者の内側からそれぞれのイマジネーションを引き出していきます。展覧会タイトルになぞらえると、いま見えている「像」としてのヴィジョンが消滅し、人それぞれの異なる「場」が現れてくる感覚です。

畠中 音を体験すると同時に、ウレタンの山に登って行って、そこで寝転がれたりする身体的な体験環境も、聴覚と視覚とのマルチモーダルな体験を生む仕掛けになっていると思います。

evala《ebb tide》(2024)
撮影: 山口雄太郎

《4分33秒》以降の表現をとらえ直す

──畠中さんはこれまでにもICCでサウンド・アートに関する展示を手がけられてきましたが、evalaさんの表現をサウンド・アート史の文脈でどのように位置付けられていますか。

畠中 サウンド・アートの展覧会は、ICCでは2000年に行った「サウンド・アート 音というメディア」展が最初ですが、それ以前からサウンドはメディア・アートにおいて重要な要素のひとつだと考えていました。サウンド・アートの起源を考えたときに、そのひとつの契機に位置付けられるのが、ジョン・ケージの《4分33秒》(1952)だと思います。サウンド・アートについて、私は《4分33秒》以降としての「聴くこと」を主題にしたアートと表現したりもします。たんに「音を聞く」ということではなく、「聴くこと」について意識させられることがサウンド・アートの中心だということです。ケージは、それがテクノロジーの力を借りることでより突き詰められると考えたのです。ですから、サウンド・アートというのは《4分33秒》以降における、「聴くこと」と「テクノロジー」のアートだととらえています。

 そう考えたときに、無響室は《4分33秒》が生まれるきっかけになった部屋であり、音響の特性のない、空間における特性がゼロな音環境によって、そこで自在に音をつくり込むことができ、聴覚体験を変化させることができる特殊な部屋でもあります(*)。evalaさんは、そこで鈴木昭男さんをモチーフにした《大きな耳をもったキツネ》という作品を手がけていたり、《Sprout》のような作品ではノイズを用いて架空の環境をつくるなど、作品ごとにまったく異なるコンセプトでサウンド・アートの表現に取り組んでいます。そして《ebb tide》では、たんに音をヴィジュアライズすることがサウンド・アートではないことを前提に、「耳で視る」ことに対するひとつの回答を導き出しているようにも感じられました。

evala 美術においてニュートラルな展示空間としてのホワイト・キューブに値するものが、サウンドでは無響室になります。これが美術館にあるというのは大変貴重なことで、メディア・アートにおいてサウンドを重要な要素とされる、ICCや畠中さんの志向を表すものだと思います。

 2013年にこの無響室で徹底的に音だけに向きあってつくりあげた《大きな耳をもったキツネ》以降、美術館のホワイト・キューブでのブラックライト・シリーズや、劇場での真っ暗闇の映画作品、あるいは庭園や公園での目に見えないパブリック・アートなど、様々なコンセプトや形態で「耳で視る」ことを拡張してきました。今回の展覧会は、それらの経験をもとにした現時点の集大成的な個展になります。いずれの作品も、美術にはないような、視覚要素が極限まで削ぎ落とされた暗闇が特徴ですが、この「暗闇」という漢字には「音」があふれていることに気づきます。世界に言葉が生まれる前に、音楽があり、音楽の前に音がありました。目に見えないものを感じることから、様々な文化が生まれてきました。いま、現代のテクノロジーとともに、目に見えない「音」から創作することで見出せる新しい地平があると僕は考えています。

*──ジョン・ケージの作品《4分33秒》は、3楽章で4分33秒という演奏時間と「Tacet(休止)」という言葉のみが楽譜で指示されている。つまり、演奏者は楽器を演奏することはなく、「意図しない音が起きている状態」を作品とする。制作のきっかけとなったのが、1951年に訪れたハーバード大学の無響室だと言われている。無音環境に身を置こうとした彼は、高い音と低い音のふたつの音を聞いた。高い音は神経系が働く音で、低い音は血液が流れる音だとエンジニアに聞かされ、完全な無音状態をつくることが不可能であることを知ったことが、《4分33秒》が生まれるきっかけのひとつとなった。