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2025.9.12

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(東京都美術館)開幕レポート。ゴッホを世の中に伝えた立役者たちに迫る

東京都美術館で、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が開幕した。会期は12月21日まで。

文・撮影=大橋ひな子(ウェブ版「美術手帖」編集部)

イマーシブ・コーナーの会場風景より
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 東京都美術館で、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が開幕した。担当学芸員は大橋菜都子(東京都美術館 学芸員)。会期は12月21日まで。

 誰もが知る画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90)。今まで数々の展覧会が開催されてきたが、フィンセントを世に広めたファン・ゴッホ家と、その家族が受け継いできたファミリー・コレクションに焦点を当てた展覧会が開催される。なお本展は、大阪市立美術館(7月5日〜8月31日)からの巡回であり、本会場の後に愛知県美術館(2026年1月3日〜3月23日)でも開催される予定だ。

 フィンセントの生前、彼の画業を支えていたのは弟テオドルス・ファン・ ゴッホ(以下:テオ)であることは有名だ。しかし兄の死の半年後にテオも生涯を閉じたことから、その後どのようにフィンセントが有名になったのかを知る人は少ない。

 じつは2人の死後、フィンセントの作品を世に出すことに奔走したのは、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(以下:ヨー)である。ヨーは、膨大なコレクションを管理することになり、フィンセントが画家として正しく評価されるよう人生を捧げて活動し続けた。さらにテオとヨーの息子フィンセント・ウィレムは、コレクションを散逸させないためにフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、美術館の開館に尽力したことも忘れてはいけない。

 本展では、ファン・ゴッホ美術館の作品を中心に、ファン・ゴッホの作品30点以上に加え、日本初公開となるファン・ゴッホの貴重な手紙4通が展示される。家族のサポートにも光を当てながら、フィンセントの初期から晩年までの画業をたどる構成となっている。

 第1章は「ファン・ゴッホ家のコレクションからファン・ゴッホ美術館へ」。早速本章では、本展において重要なファン・ゴッホ家の3人の家族、テオ、ヨー、フィンセント・ウィレムが、フィンセントと並列されるかたちで紹介される。1853年のフィンセントの誕生から、1973年の国立フィンセント・ファンゴッホ美術館の開館までの大まかな年表も掲示してあり、フィンセントと家族にとっての大事な出来事を本章で学ぶことができる。

 第1章「ファン・ゴッホ家のコレクションからファン・ゴッホ美術館へ」の展示風景より

 続いて第2章「フィンセントとテオ、ファン・ゴッホ兄弟のコレクション」では、フィンセントとテオの2人が当時コレクションしていた作品が紹介される。彼らはともに十代半ばから画廊で働いていた。お互いに作品を購入し贈り合うこともしており、2人が生きた時代のほかの作家の作品傾向を見ることもできる。

 本章で展覧されるのは、ジョン・ピーター・ラッセル、エミール・ベルナール、ポール・ゴーガン、エドゥアール・マネなど、美術史に名を連ねる芸術家たちの作品。フィンセントやテオの交友関係も垣間見える

展示風景より、ポール・ゴーガン《雪のパリ》(1894)

 またフィンセントといえば、浮世絵に影響を受けたことでも知られている。画家になる前から浮世絵に触れていたフィンセントは、ファン・ゴッホ家に500点を超える浮世絵のコレクションを残した。会場にはその浮世絵コレクションとともに、浮世絵に対する感動を伝えるテオへの手紙の一節なども紹介されている。

展示風景より、溪斎英泉《夜の楼》(1849〜51)

 続いて1階へ会場が続く。第3章は「フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と素描」。本章では、フィンセント・ファン・ゴッホが画家として生きた10年間に残された作品たちが、時系列に沿って紹介される。

 10年間でいくつかの土地を移動しながら制作を行ったフィンセントは、その土地での出来事にあわせて制作傾向が異なる。1880年、27歳のときに画家になる決意をしたフィンセントは、最初オランダの主にバーグで、3年間ほど素描の腕を磨いた。その後ニューネンに移り、油彩画の制作を開始。

 フィンセントが描いた初めての植物の静物画のひとつとされる《ルナリアを生けた花瓶》や、この時代に手がけたもののなかで最重要作だといわれている《小屋》も展覧されている。

展示風景より、フィンセント・ファン・ゴッホ《ルナリアを生けた花瓶》(1884秋〜冬)
展示風景より、フィンセント・ファン・ゴッホ《小屋》(1885)

 続いて1886年にパリに出たフィンセントは、自らの表現が時代遅れであることに気づき、独自の様式を追求し始める。

 今回のメインビジュアルとなった《画家としての自画像》は、パリで描かれた。この自画像は、ヨーが、もっとも出会った頃のフィンセントに似ていると回想した作品で、「病気や健康不良の話を聞いていたが、思ったより健康的に見えた」とヨーはのちに述べている。

展示風景より、フィンセント・ファン・ゴッホ《画家としての自画像》(1887〜88)

 そして1888年2月にアルルへ移動し、ここで1年3ヶ月を過ごす。アルルでは、画家ゴーギャンとの共同生活を始めたものの、病のせいもあり耳を切り落とす衝撃的な出来事を起こす。その後療養も兼ねてサン=レミ=ド=プロヴァンスに移動したフィンセントは、そこでも制作を続ける。

展示風景より、フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》(1888)
サン=レミ=ド=プロヴァンス時代の展示風景より

 1890年5月にオーヴェール=シュル=オワーズに移動するが、3ヶ月の滞在ののち、自らの胸部をピストルで撃ち、7月29日に37歳でこの世を去る。

オーヴェール=シュル=オワーズ時代の展示風景より

 生前の制作期間で生み出されたフィンセントの200点を超える絵画、500点以上の素描・版画は、現在ファン・ゴッホ美術館に保管され、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっている。10年間の間に制作されたものとは思えないほどの膨大な作品群を、時系列で比較しながら鑑賞できるのも、ファン・ゴッホ家が作品を守ってきたおかげに他ならない。

 次の章へ移る前に、「フィンセント・ファン・ゴッホの最期 そして家族は…」という約5分40秒の映像を見ることができる。フィンセントの手紙の一節などを引用しながら、フィンセントの作家人生の最期を紐解く内容となっている。映像のなかでは、ヨーがどのようにフィンセントを広めようとしたのかも紹介され、より具体的に家族のサポートのかたちを知ることができる。

 そして会場は2階へと移動し、この階ではいよいよ家族に焦点を当てた内容が展開される。第4章「ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルが 売却した絵画」では、本展において大変重要な資料が展示されている。

 とくに美術に縁があったわけではないヨーは、夫テオの死後に近現代美術について学び、受け継いだ膨大な数の作品を売却し始める。売却の背景には、フィンセント・ファン・ゴッホの評価を確立するという野心的な目的があった。

 そんなヨーの動きを明らかにするのが、テオとヨーの会計簿である。日常的な収支のほかに、作品の売却についても記されている。該当作品の販売先や販売金額などを細かに記されたこの資料は、いうまでもなくファン・ゴッホ研究に大いに役立った貴重なものだ。会場には、実際に売却された作品3点が展覧されている。

展示風景より、『テオ・ファン・ゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』(1889〜1925)
第4章「ヨー・ファン・ゴッホ= ボンゲルが 売却した絵画」の展示風景より

 最後の第5章は「コレクションの充実 作品収集」。本章では、フィンセント・ファン・ゴッホ財団のいまもなお拡充され続けているコレクションが紹介される。1980年代後半から1990年代前半にかけて、寄付や寄贈も受けながら、ときにはファン・ゴッホ作品が加わることもあった。

 なかでも、フィンセント・ファン・ゴッホの手紙「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」(1882)は必見。フィンセントがブリュッセルで出会った先輩画家であるファン・ラッパルトに宛てた手紙だが、保存の関係から実物が展示されることはめったにないため、今回の出品は大変貴重な機会である。

第5章は「コレクションの充実 作品収集」の展示風景より

 そして会場の最後には、巨大モニターを用いたイマーシブ・コーナーが設置されている。《花咲くアーモンドの枝》などのファン·ゴッホ美術館の代表作を高精細画像で投影するほか、3Dスキャンを行ってCGにした《ひまわり》(SOMPO美術館蔵)の映像も紹介されている。フィンセントの作品に没入するような感覚が味わえる。

イマーシブ・コーナーの会場風景より

 また今回、本展の展覧会サポーター、音声ナビゲーターに俳優・松下洸平が就任した。自身も学生時代に油画を学んでいた松下は、人々を励ましたいという気持ちから制作を行ったフィンセントに対して、作品を通じて人としての強さも感じられるという。また音声ナビゲーションでは、フィンセントの手紙の朗読にも挑戦。フィンセントの気持ちを想像しながら読み上げたという音声ガイドにも注目してほしい。

「ゴッホ展」の展覧会サポーター、音声ナビゲーターに就任した俳優・松下洸平