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2025.10.10

「おさんぽ展 空也上人から谷口ジローまで」(滋賀県立美術館)レポート。散歩を起点に見る多様な表現

滋賀県立美術館で開催中の「おさんぽ展 空也上人から谷口ジローまで」をレポート。

文=中村剛士

谷口ジロー 『歩くひと』第3話「町に出かける」原画 1990 一般財団法人パピエ蔵 ©PAPIER/Jiro Taniguchi
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 滋賀県立美術館で開催中の「おさんぽ展 空也上人から谷口ジローまで」は、誰もが経験する「散歩」を起点に、宗教的実践から都市文化、そして現代漫画まで、美術の中に描かれた歩行の表現を一望する好企画である。

 本展は、第79回国民スポーツ大会および第24回全国障害者スポーツ大会が滋賀県で開催されることを記念して構想された。当初はスポーツ全般を扱う展覧会も検討されたが、美術館として競技を専門的に扱うのは難しい。そこで身体を動かす行為のなかでももっとも普遍的で、特別な訓練を要さず、誰にとっても身近な「散歩」に焦点をあてることで、スポーツ大会記念と美術館企画の双方を自然に接続することができた。

 滋賀県立美術館の立地もまた、このテーマと深く響き合う。同館は大津市の緑豊かな公園内にあり、日々多くの市民が周囲の遊歩道を散歩している姿が見られる。来館者にとって美術館は展示を鑑賞するだけでなく、自然を歩く体験と分かちがたく結びついた場所である。館内を巡ること自体が「アートさんぽ」となり、展示と実際の散歩が相互に呼応する。そうした環境を背景に、「散歩」を主題とした企画はごく自然に説得力を持つ。

滋賀県立美術館

 展示は重要文化財2件を含む74点で構成される。中世仏教美術から江戸時代の絵画、近代日本画、西洋絵画、さらには現代アートや漫画原画まで、実に幅広いジャンルを「散歩」という一点でつないでいる。この発想自体が非常に新鮮であり、美術館における展示の可能性を拡張する挑戦的な試みといえる。

 本展は全7章で構成されている。日常の散歩風景に始まり、自然の中をそぞろ歩く喜び、都市を歩く人々の姿、さらには宗教的修行としての歩行へと視点が広がっていく。さらに動物や妖怪までもが歩む場面が描かれ、散歩がもたらす出会いや発見を経て、最後には未来や創造へとつながる自由な歩みが示される。歩くという単純な行為が、時代やジャンルを超えて多様な意味を帯びてきたことを、順に体感できる構成である。

第1章「どちらまで?」

 導入となるこの章では、近代から現代にかけての「日常的な散歩」の姿が描かれる。菊池契月《散策》(1934年、京都市京セラ美術館蔵/前期展示)は、新緑の森を犬とともに歩く少女を描き、静と動の対比が鮮やかである。金島桂華《画室の客》(1954年、京都市京セラ美術館蔵/後期展示)は、犬の散歩途中に画家を訪ねた女性を描き、散歩が人を予期せぬ場所へと導く契機であることを示している。小倉遊亀《春日》には散歩道での立ち話の場面が描かれ、日常に潜む社交や交流の側面を伝える。散歩の姿は季節や天候によって変化しながら、常に私たちの生活に寄り添ってきたことが伝わる。

左から、玉村方久斗《港町寸景》(1931、京都国立近代美術館)、菊池契月《散策》(1934、京都市美術館蔵) ※展示期間:9/20-10/19 撮影=筆者

第2章「野に出る」

 鎌倉~南北朝時代の禅僧・虎関師錬は、漢詩集『済北集』で「散歩」という語を初めて用いた。春の野辺をそぞろ歩き、梅花に心を寄せるその詩は、野に出て自然に触れる喜びを端的に伝える。伝馬遠《高士探梅図》(14世紀、中国・元時代、前期展示)には月夜に梅を探す高士の姿が描かれ、浦上玉堂《幽渓散歩図》(後期展示)は山水の中を歩む人物を描き、自然の懐に身を置く散歩の本質を示す。日差しや風を求め、草花に心を寄せる歩行は、現代の私たちが野外を歩く感覚と地続きである。

展示風景より 撮影=筆者

第3章「街へ出かける」

 19世紀以降の都市散歩文化に焦点を当てた章である。ピサロ《ロンドン、ハイドパーク》(1890年、東京富士美術館蔵/前期展示)は、都市の遊歩が市民生活の象徴であることを示す代表作である。浅井忠がパリで歩きながら描いたスケッチや、『新東京百景』に描かれた震災後の東京に繰り出す人々の姿は、都市再生の歩みと人々の営みを重ね合わせている。いっぽうで今和次郎が井の頭公園で観察した、人々の憩いの場と自死の場が重なる現実は、街歩きが社会の矛盾を照らし出すこともあると教えてくれる。都市の散歩は華やかさだけでなく、時代の影も抱えていたのである。

カミーユ・ピサロ ロンドン、ハイドパーク 1890 東京富士美術館蔵 ※展示期間:9/20-10/19

第4章「歩く人たち」

 ここでは散歩以前の歩行の歴史が取り上げられる。重要文化財《空也上人立像》(鎌倉時代、荘厳寺蔵)は、念仏を唱えながら諸国を歩いた空也上人の姿を生々しく伝える。歩行は信仰の実践であり、人々の救済を祈る行為であった。西行物語絵詞(前期・後期で展示替え)は、放浪の旅を続けた西行の歩みを壮大な風景の中に描き出す。与謝蕪村《松尾芭蕉経行像》は、一歩一歩を踏みしめる「経行」という修行法を題材にし、歩行の精神的側面を示す。歩くことが宗教的修養や精神的探求と結びついていたことが改めて浮かび上がる。

重要文化財《空也上人立像》(鎌倉時代、滋賀・荘厳寺蔵(滋賀県立琵琶湖文化館寄託))の展示風景 撮影=筆者

第5章「動物たちも行く」

 散歩を人間に限らず広くとらえる章である。うらあやかの作品は、ベトナム・ホイアンの街を歩く犬を追い、歩行主体の揺らぎを問いかける。鵜飼結一朗による妖怪や動物たちの練り歩きは、行列のエネルギーを感じさせ、散歩が集団的・祝祭的な意味を帯びることを示す。犬と人との散歩もまた、どちらが主体かを考えさせる契機となり、動物と人間の関係性を映す鏡である。

うらあやか《〈欲望〉について(生きることについての憶測:ホイアン(ベトナム)の犬の場合)》(2019、作家蔵)の展示風景 撮影=筆者

第6章「散歩で出会う」

 散歩が生む発見と感覚が作品にどう結実したかが示される興味深いセクション。黒田清輝が鎌倉の別荘で描いた庭や海辺の風景、佐伯祐三《下落合風景》に表された都市近郊の景色は、散歩から生まれた視覚体験の結晶である。八木一夫《歩行》は歩く身体を彫刻として表現し、身体運動を造形へと転換した。谷口ジロー『歩くひと』原画は、清瀬の住宅街を淡々と歩く人物を描き、日常に潜む発見や喜びを静かに伝える。

光島貴之《京都まち歩き─学生時代の左京区》(2025、作家蔵)の展示風景 撮影=筆者

第7章「明日も、どこかへ」

 最終章では、散歩が創造的な「自由」や「未来」への想像力と結びついていることが示される。東郷青児《超現実派の散歩》(1929年、二科展出品)は「散歩のつもりで超現実主義の試運転をやった」と自ら記した作品で、日本におけるシュルレアリスム受容の先駆とも評される。主義や表現の枠に縛られず、そぞろ歩くような自由な試行錯誤から生まれた軽やかな表現は、散歩のリズムと通じ合う。評価や主義を超え、気ままな歩みから新たな創造が芽生えることを象徴する章である。

東郷青児《超現実派の散歩》(1929、SOMPO美術館蔵) 撮影=筆者

 「おさんぽ展」の特筆すべき点は、中世の仏教美術から近代洋画、現代アートやマンガまでを1つのテーマでつないだ点である。「散歩」という普遍的な行為を切り口にすることで、宗教的実践、都市文化、芸術的創作、そして私たちの日常が一本の道筋としてつながって見えてくる。展示作品群は数の上では決して多くはないが、その密度と広がりは驚くべきものである。

左から、松浦舞雪《花摘みの図》(1914、株式会社星野画廊)、田代正子《娘》(1940、株式会社星野画廊)、柳江《夏苑の少女》(20世紀 大正時代、株式会社星野画廊)

 さらに本展は、鑑賞行為そのものが「散歩」であることを気づかせてくれる。来館者のなかには万歩計を付けて鑑賞を楽しむ人もいる。音楽や演劇のように座席に身を委ねる芸術とは異なり、美術館鑑賞は自ら歩き、立ち止まり、戻り、角度を変えて作品を観る能動的な体験である。つまり「歩くこと」は展覧会鑑賞の根底に流れる行為であり、本展はそれをテーマに据えることで、美術館体験の本質を可視化した。

重要文化財《西行物語絵詞》(13世紀 鎌倉時代、国(文化庁保管)) ※展示期間: 9/20-10/19 撮影=筆者

 滋賀県立美術館の展示室を一歩ずつ巡ることは、そのまま「おさんぽ展」の主題と重なり合う。展示を見終え、美術館を出た後に広がるのは、公園を歩く市民の姿である。館内外の散歩が連続する体験は、訪れる者の感覚を揺さぶり、日常の歩行を新たな意味づけとともに返してくれる。

 「おさんぽ展」は、美術を鑑賞すること自体が「散歩」であると再認識させる稀有な展覧会である。秋の風に誘われて歩きながら訪れるのにふさわしい本展で、ぜひ“アートさんぽ”の魅力を味わってほしい。