2025.3.27

「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」(アーティゾン美術館)開催中。担当学芸員が語るその魅力とは

東京・京橋のアーティゾン美術館で展覧会「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」が6月1日まで開催されている。20世紀前半を代表するアーティストカップルであるゾフィー・トイバー=アルプ(1889~1943)とジャン・アルプ(1886~1966)。その個々の創造と協働の軌跡を紹介する本展を担当した同館学芸員の島本英明に、2人の作品の魅力や関係性を聞いた。

聞き手・文=永田晶子

第3章「前衛の波の間で」展示風景より 撮影=木奥惠三
前へ
次へ

なぜ、いまふたりの展覧会なのか

──まず、アーティゾン美術館が本展を開催する意図をお聞かせいただけますか。

 ゾフィー・トイバー=アルプ(以下トイバー)は、1910年代という早い時期から抽象芸術を実践して再評価が進んでいる女性アーティストです。近年出身国スイスを中心に調査研究が進み、2021~22年にテート・モダンやニューヨーク近代美術館を巡回する回顧展が開催されましたが、日本で作品を所蔵する美術館はほぼなく、作品を実見できる機会は限られてきました。本展は、45点というまとまった数の彼女の作品を東京でご覧いただける初めての展覧会になります。

 夫のジャン・アルプ(以下アルプ)は、過去にも複数回の個展やテーマ展で紹介され、とくに有機的なフォルムの彫刻作品が知られています。彼とトイバーは、ダダイスムや構成主義、デ・ステイル、抽象、それと相反する陣営のシュルレアリスムなど20世紀前半の様々な前衛動向と関わりました。それでいてアルプはどの陣営にも与せず、具象と抽象の間を行き来して独自の創作を展開したユニークな立ち位置の作家です。

人形劇「鹿の王」のための人形の前のゾフィー・トイバーとジャン・アルプ、1918、チューリヒ

 これまで当館は、石橋財団コレクションの拡張と連動して「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」(2023)など20世紀の抽象美術を紹介する展覧会を開催してきました。いま再評価の只中にあるトイバーと党派性を超えた創作を体現するアルプの存在は、モダンアートへの視野をアップデートするうえで重要だと考え、2人の関係性も興味深いのでカップルとして取り上げる本展を企画しました。ドイツとフランスのアルプ財団などから作品をお借りして、個々の作品とコラボレーション作品の計88点を時系列順の4章構成で紹介する本展が実現しました。

第3章「前衛の波の間で」展示風景より 撮影=木奥惠三
第3章「前衛の波の間で」展示風景より 撮影=木奥惠三

──2人はどのようなアーティストでしたか。当時の女性美術家が置かれた位置も併せて教えてください。

 トイバーはスイスのダヴォスに1889年に生まれ、母国で素描とデザイン、次いでドイツの二つの学校で応用芸術などを学びました。テキスタイル製造の伝統を持つスイス北東部で少女期を送った出自や、美術を志す女性は当時少なかったこともあり、応用芸術の道に進んだと考えられます。

 彼女が学んだ20世紀初頭のヨーロッパは、女性が正規の美術教育を受けられる学校はまだ限られていました。たとえばパリの国立美術学校が女性の入学を許可したのは1897年で、一般にそれ以前の女性画家たちは美術学校に入れずに民間の画塾で学びました。そうしたなか、テキスタイルやデザインを扱う実用的な応用芸術は、女性にも門戸が開かれた数少ない造形分野でした。

 注目したいのは、トイバーが学んだミュンヘンのデプシツ・スクールは応用芸術と美術に隔てを設けずにカリキュラムを行う先進的な教育機関だったことです。同校での学びや経験が、彼女の造形観や境界を超えて美術へ展開した創作に与えた影響は大きかったと思います。学業を修めたトイバーは、スイスに戻って刺繍や木工を扱う作家として活動を始め、1915年にアルプが参加したグループ展で彼と出会いました。

第1章「形成期と戦時下でのチューリヒでの活動」展示風景より 撮影=木奥惠三

 3歳年長のアルプは、ドイツ領シュトラースブルク(現フランス・ストラスブール)生まれ。地元の工芸学校やパリの画塾などで学んだものの、伝統的な美術教育に馴染めなかったようで学業をやめています。両親が暮らすスイスに移り、ロマン派に惹かれて詩作を行いながら彫刻技法を習得し、「青騎士」の活動にも参画しました。トイバーと出会ったのは、アルプがコラージュや刺繍による造形表現を模索していた時期です。

第1章「形成期と戦時下でのチューリヒでの活動」展示風景より 撮影=木奥惠三

 テキスタイルと抽象への志向が同じ2人は交際を始め、アルプは1916年にチューリッヒでトリスタン・ツァラらと共にダダの運動を開始しました。トイバーも参加して展覧会への出品やダンスパフォーマンスを行い、ダダのアーティストとして認められるようになります。そのいっぽうで、教職に就いて学校でテキスタイル・デザインを教えました。

第1章「形成期と戦時下でのチューリヒでの活動」展示風景より 撮影=木奥惠三

ふたりの抽象表現はどこから来たのか

──本展導入部は、2人の初期の抽象絵画やトイバー作のビーズ刺繍作品などが並びます。なぜトイバーは、抽象に関心を持ったのでしょうか。

 トイバーが作家活動を始めた1910年代半ばは、抽象絵画の出始めの時期でした。ヴァシリー・カンディンスキーはミュンヘンで1910年に、フランティセック・クプカも同じ頃にパリで抽象画を始めたので、スイスにいた彼女も作品や動向を知っていた可能性があります。また、手がけた刺繍技法クロス・ステッチの影響も指摘されています。

第1章「形成期と戦時下でのチューリヒでの活動」展示風景より 撮影=木奥惠三

──織目に即して糸を交差させて布を刺し埋めるクロス・ステッチは、垂直・水平・直交線の集積により文様が形成されます。これを起点に抽象に向かったという説は説得力がありますね。

 注目したいのは、トイバーが作家活動の初期からテキスタイル作品とともに紙の作品に取り組み始めたことです。色鉛筆や水彩など画材は簡便ですが、テキスタイル作品の下絵ではない独立した作品もあります。技法に一定の制約がある刺繍と違い、思うままに構想を形にすることのできる紙の上で様々な造形を試みています。「形そのもの」をつかみ出すような彼女の造形感覚は、テキスタイル作品のみではなく、紙を用いた絶えざる試行によってこそ養われたといえるでしょう。

ゾフィー・トイバー=アルプ 抽象的なモティーフによる構成(手帳カバー) 1917–18頃 アールガウ州立美術館、アーラウ(個人より寄託)
ゾフィー・トイバー=アルプ 無題(クッション) 1920 アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト

──東京国立近代美術館で回顧展が開催中のヒルマ・アフ・クリントは交霊術や神智学に傾倒して抽象表現を生み出しましたが、トイバーとアルプはどうでしたか。

 そうした神秘主義的傾向は、トイバーには見受けられません。彼女の作品は、同じ幾何学抽象を描いた同時代人のピート・モンドリアンとよく比較されます。モンドリアンも神秘的直観により世界を把握しようとする神智学に関心を寄せましたが、トイバーはもっとドライと言いますか、即物的です。第2章に人間の形から着想した彼女の絵画を展示していますが、身体や日常的な事物に即して形を追い、画面に躍動感やリズムを産み出しています。

第2章「越境する造形」展示風景より 撮影=木奥惠三

 アルプは、早い時期から芸術における個人主義を克服すべきだという考えを持っていました。既存の美術教育・制度に対する嫌悪やロマン主義への共鳴を通して、独特な思想を育んだようです。その彼が、第一次世界大戦で生じた虚無感を背景に既成の美学や価値観を否定するダダに参画したのは必然的だったと思います。

第2章「越境する造形」展示風景より 撮影=木奥惠三
ジャン・アルプ 花の頭部をもつトルソ 1924 アルプ財団、クラマール ⓒVG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2024 C4772

──トイバーとアルプは1922年に結婚し、彼女は以後「トイバー=アルプ」姓を名乗りました。どのような共同生活を送ったのでしょうか。

 2人の生活の転機になったのは、1929年にパリ南郊のクラマールに自邸兼アトリエが完成したことです。その3年前に夫妻はストラスブールの歴史的建築「オーベット」の改築に伴う室内デザインの依頼を受け、その報酬で地所を購入できたのですね。仕事や活動の関係で別々に暮らすことが多かった2人は、やっと落ち着いて一緒に住めるようになりました。

第2章「越境する造形」展示風景より 撮影=木奥惠三

 近代建築や室内装飾にも通じたトイバーは、オーベットで幾何学的形状と最新の色彩理論を生かした斬新なインテリア・デザインを実現しました。自邸も彼女が設計し、室内に置く家具や日用品もデザインしました。3階建ての自邸は、居間や寝室より個々のアトリエに広い面積が割かれ、2人が生活空間より創作空間を優先したことがうかがえます。

第2章「越境する造形」展示風景より 撮影=木奥惠三

2人の関係が築いたもの

──創作に関して2人はどのような関係にあったのでしょうか。

 基本的に2人は別々に制作を行っていました。トイバーはオーベットが竣工した1928年に油彩画に取り組み始め、翌年には教職を辞して造形とフォルムの探求に打ち込むようになる傍ら、設計やデザインの仕事も継続しています。アルプは30年頃からちぎった紙片に偶発的イメージを見出すコラージュ「パピエ・デシレ」を始めるとともに、彫刻に取り組むようになります。

第3章「前衛の波の間で」展示風景より 撮影=木奥惠三

 各々の関心に基づき表現を行ういっぽう、互いに影響を与え合っています。アルプはトイバー作品の構成の「明晰な静けさ」に影響を受けたと後に回想し、トイバーはアルプが始めた平面と立体を統合したレリーフ形式の作品を制作しています。リアルタイムで相手について語った言葉はあまり残っていませんが、刺激を与え合って理想も共有したパートナーシップだったと思います。

ゾフィー・トイバー=アルプ レリーフ・セル(長方形、幾何学的要素) 1936 アールガウ州立美術館、アーラウ

──7点のコラボレーション作品は本展の大きな見どころです。2人の協働について教えてください。

 夫妻が作品をコラボレーションした時期は、3度ほどありました。知り合って数年後の1918年、36~37年、39年です。本展は、2人が39年に共作した5点の《デッサン(デュオ=デッサン)》と、他の画家と計4人でコラボレーションした作品などをご紹介しています。

第4章「トイバー=アルプ没後のアルプの創作と『コラボレーション』」展示風景より 撮影=木奥惠三

 即興的に2人が制作したと思われるデュオ作品は、曲線と幾何学的形態が混然となって調和し、どちらがどの部分を描いたかはよく分かりません。アルプは芸術の個人主義に否定的でしたから、あえて分からないようにしたのでしょう。一人の「個」では限界がある創作を、他者を巻き込む協働により超えていく意図があったと考えられます。

ゾフィー・トイバー=アルプ、ジャン・アルプ デッサン(デュオ=デッサン) 1939、アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト ⓒVG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2024 C4772

──確かに配偶者はどれほど親密でも「他者」です。島本さんは、2人のデュオ作品はどのようなところが魅力的だと感じますか?

 一般的に作家同士のコラボレーションは、互いの技能を補い合ったり、一人では困難な大きさや手間が掛かる作品を実現したりするために行う傾向があります。ただ2人の場合は、手を動かして思いがけない形態が生まれる瞬間を一緒に楽しんだのではないでしょうか。作品のなりは小さくても、純粋で自由な創造の喜びが画面に脈打っているようです。 

──30年近い2人の関係は、1943年にトイバーが53歳で事故死し、突然断ち切られました。

 妻の急逝に大きな衝撃を受けたアルプは、4年間にわたり彫刻を制作せず、彼女を追悼するグワッシュの連作や詩を作りました。本展最終章では、死後のコラボレーションとも言うべき、トイバーのドローイングに基づいてアルプが制作したレリーフ作品や彫刻を紹介しています。

第4章「トイバー=アルプ没後のアルプの創作と『コラボレーション』」展示風景より 撮影=木奥惠三
ジャン・アルプ 共同絵画 おそらく1950頃 アルプ財団、ベルリン/ローラントシュヴェルト ⓒVG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2024 C4772

 アルプは、トイバー作品のカタログ・レゾネ的な書籍の編纂にも関わりました。同書では応用芸術の要素は薄められて、絵画に注力した1930年代以降の仕事のほうが密度高く紹介されており、トイバーを美術領域の作家として歴史化しようとする意図がうかがえます。様々な方法で彼女の喪失と向き合った時期を経て、アルプは制作の比重を彫刻に移し世界的な評価を高めていきました。

第4章「トイバー=アルプ没後のアルプの創作と『コラボレーション』」展示風景より 撮影=木奥惠三

──没後約80年たつトイバーは、今なぜ再評価されているのでしょう?

 トイバーは、1954年にスイスのベルン美術館で、1964年にパリの国立近代美術館で回顧展が開催されるなど、過去も評価が低かったわけではありません。ただ、それらはトイバーを「美術家」と限定的に規定しての紹介でした。近年の再評価は、彼女の領域横断性をポジティブに受け止め、マルチかつ自由なクリエーションを追求したアーティストという、現代的な創作観、アーティスト観に基づいています。彼女の作品の一部、たとえばパフォーマンスは残っていませんが、そうしたエフェメラルな活動や着想力を含めて、2人がともに育んだ豊かな創造性を会場で感じていただければと思います。