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2025.3.2

「硲伊之助展」(アーティゾン美術館)開幕レポート。ひとりの人生に重ね見る西洋美術の受容史

アーティゾン美術館で、画家、コレクター、展覧会の立役者として日本の西洋絵画受容に貢献した硲伊之助の回顧展が開幕した。会期は3月1日〜6月1日。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、硲伊之助《燈下》(1941)硲伊之助美術館(加賀市美術館寄託)
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 東京・京橋のアーティゾン美術館で、画家、コレクター、展覧会の立役者として日本の西洋絵画受容に貢献した硲伊之助(はざま・いのすけ、1895〜1977)の回顧展「硲伊之助展」が開幕した。会期は3月1日〜6月1日。

 本展は東京で初めてとなる硲の個展だ。油彩画、版画、磁器などの作品と資料83点とともに、硲と関わりのあるアーティゾン美術館の西洋絵画コレクション17点をあわせ、約100点を展示。画家だけでなく、コレクター、展覧会の立役者という硲の多様な側面を紹介する同館ならではのものとなる。

展示風景より、硲伊之助《室より(南仏のバルコン)》(1935)硲伊之助美術館(加賀市美術館寄託)

 展覧会は4章構成。第1章「画家、硲 伊之助──油彩画、版画、挿絵の仕事」では、硲の画家としての側面を年代順に取り上げていく。

 1895年に現在の墨田区の裕福な家庭に生まれた。画家を志し、10代の頃より岸田劉生や高村光太郎が属したヒュウザン会展に出品するようになり、その後二科展でも入賞歴を重ねていく。《工事中の崖》(制作年不詳)は当時の作品と考えられるもので、崖や電柱といったモチーフと、写実的な描写は、ヒュウザン会の同人である岸田劉生からの影響を強く感じられる。

展示風景より、硲伊之助《工事中の崖》(制作年不詳)個人蔵(硲伊之助美術館寄託)

 硲は20代半ばにはフランスへ渡り、より絵画を深く学ぶことになる。とくに硲が意識したのはヴァルール(色価)であり、対象を透視図法的遠近法ではなく色の階調や強弱でとらえる方法として実践を重ね、明るい色彩の絵画を描く。また、この頃の硲は、汽車で偶然アンリ・マティスと出会う。以来、マティスのこと生涯尊敬し、慕いつづけることになる。

展示風景より、硲伊之助《花つくりの家》(1934)硲伊之助美術館(加賀市美術館寄託)

 この頃、春陽会に活動の場を移した硲は、小説の挿絵や装丁といった仕事も手がけるようになる。会場では新聞小説の挿絵カットや、硲の装丁が施された井伏鱒二の小説なども見ることができる。

展示風景より、硲伊之助による雑誌のためのカット 世田谷美術館

 やがて二科会を経て、1936年には有島生馬、安井曾太郎、木下孝則らとともに一水会を結成。文化学院や東京芸術大学で実技指導やデッサンを教えるようにもなっていく。

展示風景より、左が硲伊之助《黄八丈のI令嬢》(1946)東京国立近代美術館

 第2章「コレクター、硲 伊之助──西洋美術の紹介者として」では、硲のコレクターとしての側面を取り上げる。

 パリ留学直後から、硲は兄の支援もあって、絵の勉強のために絵画を積極的に収集するようになる。その多くは水彩画や版画ではあったが、ウジェーヌ・ドラクロワやアンリ・ルソーといった巨匠のものも含まれていた。硲の自室を描いた《室内》(1928)の壁には、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品も見ることができる。

展示風景より、左からアンリ・ルソー《イヴリー河岸》(1907頃)石橋財団アーティゾン美術館、硲伊之助《室内》(1928)硲伊之助美術館

 また、同館所蔵の《青い胴着の女》(1935)も、マティスとの親交によって硲が手に入れたものだ。ほかにも、ポール・セザンヌの《サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904-06頃)といった作品が、石橋財団コレクションの礎を築いた石橋正二郎に売却される際にも関わっているなど、同館との関係は深い。

展示風景より、アンリ・ルソー《青い胴着の女》(1935)石橋財団アーティゾン美術館

 硲はフィンセント・ファン・ゴッホの書簡『ゴッホの手紙』の翻訳を手がけるなど、日本への西洋絵画の紹介者としての自負があったといえ、そのコレクションもまた、そのような志が根底にはあったという。

展示風景より、右がアンリ・マティス《縞ジャケット》(1914)石橋財団アーティゾン美術館

 第3章「巨匠たちとの交渉役──国内初のマティス展、ピカソ展、ブラック展」では、日本での西洋絵画の展覧会開催のために尽力した硲の姿に迫る。

 1951年、戦後の混乱がようやく収まろうとする時代において、東京国立博物館でマティス展が開催された。114点もの作品が集まったこの大規模展は、硲がマティス本人との交渉の先鋒に立ったから実現できたものだ。大阪市立美術館、大原美術館と巡回した本展は大変な盛況であり、マティス自身も大いに喜んだそうだ。

展示風景より、右が「アンリ・マチス展」ポスター 硲伊之助美術館

 その後も硲は「ピカソ展」「ブラック展」「フィンセント・ファン・ゴッホ展」などの交渉にも尽力。カラー図版も希少であり、渡仏をはじめとした海外旅行など一部の限られた層のものだった50年代の日本において、実物の西洋絵画を目にする機会は、国内の芸術家に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

 最後となる第4章「陶芸家、硲 伊之助──九谷吸坂窯での作陶」は、硲が50年代以降精力的に取り組んだ作陶について取り上げる。

 50年代の硲は、民藝ばかりが注目され、日本古来の陶工たちのしごとが見過ごされていることに危機感を持つと、一水会のなかに陶芸部を設立。これは会の創立委員たちからの抵抗にあい、結果的に硲は一水会の絵画部を退会することとなる。

展示風景より、硲伊之助《九谷呉須上絵大皿蓑掛島之景》(1971)石川県立美術館

 硲は62年に、九谷焼発祥の地・加賀市に九谷吸坂窯を興した。この地で弟子たちとともに共同生活を行い、地道に作陶を続けていった。以後、亡くなるまで家は加賀市にあった。

展示風景より、硲伊之助《九谷上絵 狆之透彫菓子皿》(1956)硲伊之助美術館

 会場では師と仰ぐマティスを彷彿とさせるような、のびやかな絵柄の九谷の色絵皿が並ぶ。窯には多くの文化人も集ったといい、生涯にわたりあらゆる角度から文化に浸った、文化人・硲伊之助の姿をそこに見ることができるだろう。

展示風景より、左が硲伊之助《九谷上絵 鳥越村採石場大皿》(1975)硲伊之助美術館(石川県九谷焼美術館寄託)

 近現代日本の絵画史をひとりの人物を通してみる、文化が高い意識の人々によって受け継がれていた時代への憧憬が沸き起こるような展覧会だ。